北区マフィア.05

 助手はひたすら工場内を駆け抜けていた。着物の裾を持ち上げて精一杯速く走る。

急く、急く、急く。


 左都が誘拐されたなどとあってはならないことなのだ。彼女をもう二度と怖い目には合わせないと約束し、誓っていたのに。それを裏切ってしまった。油断していた。左都に振りかかる恐怖は随分と音沙汰なかったせいで気が抜けていた。


 助手の目の前には出荷スペースへ繋がる通路がある。しかしシャッターで固く閉められているではないか。すぐ近くにある開閉のボタンは壊れているようで押しても反応がない。歯ぎしりする。助手にしては珍しく感情が吐露した。愚痴を吐くと彼はシャッターを迂回した。窓を鞘で叩き割り、外へ出る。そして出荷スペース室内の窓を発見するや否やダイブした。室内に飛び込むと、即座に近くにいた男を切り伏せる。


「な、なんだ、お前! いきなり――ッ」


 殺した男の近くにいた別の男が助手を見て目を丸くしている。声を荒げたその男を、助手は刀をもって黙らせた。


「僕は怒っている。ああ、怒っているんだ」


 血で汚れた刀を振り払って取り除く。情報屋の助手としてこれまで平常心を保っていた助手だったが、今やそのような余裕はなかった。ずいぶんと黒く荒々しい感情が腹の底を渦巻いている。


 こんなにも感情に振り回されるのは久しぶりだった。ただ一心不乱に助手は左都の姿を探す。


 積まれたパレットやコンテナの間を走り、そして障害は倒していく。理性的な助手の姿はどこにもなく、ただ焦りが彼の背中を押していた。

 くまなく出荷スペースを探し回っていると、やがてパレットの奥に人影を見た。ぐったりと座り込む、その姿は見間違うはずがない。左都だった。


「左都!」


 飛びつくように助手が駆け寄る。左都は気を失っているようで、目を開けない。肌は温かいが、顔色が悪い。その表情は力んでいて苦しそうだった。


「ああ、ああ! 生きていてよかった……、左都……!」


 最悪の事態にはならなかったようで助手はひとまず安心した。彼女の全身を診て大きな怪我がないと分かると助手は固く彼女を抱きしめる。左都が少し唸ったが、助手は構わず彼女の髪に顔をうずめた。

 しかし数分も経たずして助手は彼女を腕から離す。羽織を左都にかけ、髪をひと房手に取った。口元と手で少しの間だけ覆うと髪をゆっくりと遠のけた。指先まで左都の髪を惜しんだ後、ゆっくりと立ち上がった。大きく深呼吸をする。今は敵地。再会を喜んでばかりはいられない。


「おやおや。いいのかい?」

 助手の背後には北区マフィアの男が一人立っているのだ。

 彼はデルタ。長い前髪を左側へ流し、顔の半分を隠している。そのせいか彼の表情は読み取りにくい。デルタは笑っているようだが、どうにも目が笑っていないのだ。仮面のような笑みを貼り付けたこの男は、刀を持った助手を目の前にしていても、得物すら持たず飄々としていた。


「それだけ殺気を送られちゃ能天気にいつまでも左都を抱きしめるわけにはいかないよ」

「これはこれは失礼を。しかし勘違いをしているよ。ぼくは別に殺気なんて送ってないさ。羨ましいと眺めていたに過ぎない」

「羨ましいだって?」

「そうさ。ぼくだって君のように王子様になりたいよ。お姫様の危機を救う王子様……、ああ、そうすることができれば彼氷の心を奪うことができるかもしれない」


 助手はこめかみを抑えて首を左右に振った。北区マフィアに所属するデルタという男が一体どういう人物なのかを思い出してため息をついたのだ。


 彼、デルタは北区マフィアの次期頭首である彼氷という女性に恋をしているのだ。ただ純情な恋愛ならば助手がため息をすることはないだろう。彼の抱く恋愛感情というのはいささか純情に欠いている。春に咲くイベリスのような可憐な恋愛などではないのだ。彼の恋愛感情は執着心に近い。いっそそれと勘違いをしているのではないかというほどだ。一言で言ってしまえばデルタの恋愛は病んでいる。重々しい恋愛感情を胸の内でときおり噴火させるのだ。


「バカなことを」

「それもそうか。この程度で彼氷の心を奪えるのならぼくはこんなにも苦労をしていない。ああ、こんな仕事はさっさと終わらせて彼氷に今日こそ褒めてもらおう。そう、そうだ、そうなんだ。ガンマなんかには負けないさ」

「僕と話の観点が違う」

「つまり僕の仕事は助手から情報屋の所在を聞くことに限る。人質は奪い返されてしまったようなものだけれどこれは仕方がない。まだまだセーフ。セーフのはずだ。だってこの廃工場はぼくたちのテリトリー。容易に逃げられるわけがないのだから」

「人の話を聞かない奴だな……」


 デルタはさっさと結論を出すと、どこにあったのかパレットの影から椅子を取り出した。簡素なパイプ椅子を広げて腰かける。助手にも一つ勧めたが断った。


「さあさあ聞こうじゃないか。情報屋はどこにいるんだい?」

「教えるつもりはない」

「教えなければ君もろともその女を殺そう」


 デルタが片手をあげる。すると四方八方から突然、人の気配が。はたと気づいた助手が周囲を見渡すと、様々な銃火器を携えた北区マフィア――およそ二十名に囲まれていた。パレットの合間や上から銃口を助手と左都へ向けている。


「従わなければ殺す、と。なんて乱暴な」

「乱暴? 笑わせないでくれよ。我々はマフィア。外部からの法など受け入れず、己が法を貫く。この行為はまさしく『正当な』問答に必要なことだ」

「その作法で僕が屈するとでも?」

「いいや。君は口を開くしかないんだ。そうしなければぼくたちは君たちを徐々に痛めつけて殺さなくてはいけない」


 デルタは上げていた手を左都へ向けた。囲ううちの一人がその指示に従い、左都の脚を撃った!


「――っぁ!?」


 跳ね起きる左都。なんらかの刺激で目を覚まし、そして状況が分からず混乱した。知らぬ場所、知らぬ人物、そして助手が自分を見開いた目で見ている。いつもとは違う緊迫感を瞳にうつし、状況整理をしようとして脚に痛みを感じた。それはちょうどふくらはぎの中間。認知した瞬間から訪れる激痛と溢れんばかりの恐怖に言葉を失った。


「じょ、助手、じょしゅ……」


 すぐ目の前にいる助手に縋った。それに応じ、助手は膝を折って左都の両手を握る。とにかく左都がパニックにならないよう落ち着かせなければいけない。手慣れた手つきで左都の応急処置を始める。着物の裾を切ってしまうと、止血をしようと手を伸ばした。

 しかし。


「だめだ、だめだよ。そんなことをぼくたちは許していないじゃないか」


 デルタは制し、今度は助手の腕が撃たれる。左都の目から涙があふれ、全身が震える。胎児のように体を丸めて金切り声をもらしていた。左都にとって状況は分からない。ただとてつもなく怖いことが目の前で起こっている。左都は小動物のように怯えていた。


「君に向けて質問に答えろとぼくたちは言っているんだ。いいかい? それ以外は何もするな。抵抗も、治癒も、逃亡も、ぼくたちは許さない。君の聡明な判断を期待するよ」


 左都にかけていた羽織を彼女の頭からかけ、視界を真っ暗にする。周囲を囲っている銃口を見ないよう、優しく。「ごめん、左都」と耳元で静かに落とし、助手はデルタと向き合った。両手を上げ、宣言する。


「降参」


 敗北の宣言を。


 てっきり助手は抵抗し、言いくるめをするものとばかり思っていたデルタは初め、助手がなんと言ったのか聞き取ることができなかった。だから釘を刺す。


「嘘も許さないが」

「僕はともかく左都を傷つけられるのは困るんだ」


 助手は嘘をついているようには見えなかった。冷静沈着で飄々とした様子から感情の読み取りにくい助手が、焦りを露わにしている。全身から噴き出している汗、低く唸るような声は感情を押し殺そうと努力している様が見て取れる。強張った表情に余裕は覗かない。吐く言葉自体はいたって変わりないのに、それだけが妙に浮いてしまっているようだった。


「……なら教えてくれないかい。情報屋の所在を」

「その前に一つ。僕が言うことは真実だ。嘘は決してついていない。これについてなんと考えようと構わないけど、本当のことなんだ」

「?」


 どういう意味だ、とデルタは眉をひそめた。それほど奇怪な場所にいるのだろうか。スラム街か、路地裏か、地下街か、はたまた中央区の……。そんなデルタの想像していることなど知らず、助手は慎重に、そしてはっきりと正しい情報を伝えた。


「情報屋は所在しない」


 すぐに北区マフィアの誰かが「はあ?」と声を荒げた。言いはしなかったが、デルタにもそれは共感できる。


「えっと。ちょっと、ちょっと、なにそれ?」


 若干裏返ったが、デルタは拍子抜けした。ふざけている場合だろうか。いいや、助手はふざけていない。彼は本当のことを言っている。


「僕は情報屋の助手だよ。本当の情報しか言わない」


 どういうことだ、どういうことだ。デルタは混乱した。所在しないとは? 助手の表情はいつになく真剣だ。きゅっと閉じた口と鋭いほどの眼差しが嘘ならば彼はよっぽどの役者だ。疑う余地はない。デルタには判断が付かないその答えに、考えることをやめた。


「わかった……」

「デルタさん!」


 北区マフィアの内一人がデルタの納得に声をあげた。しかしデルタは意にかえさない。そのまま助手に背中を向けた。


「君の言う言葉を信じよう。そしてそのまま彼氷に伝える」

「信じているのは僕じゃなくて北区マフィアの次期頭首、彼氷のくせに。彼女なら僕の言葉の意味を理解できると?」

「軽口を叩く余裕があるようで結構」

「まさか」

「最後に一つ教えてくれ。ぼく個人からの質問なんだけど」


 背中を向けたまま、デルタは助手に問う。それは別れの挨拶のようなものだった。


「君は左都に恋をしているね?」


 デルタにはその確信があった。情報屋とは常に中立を保たねばならない。誰かに加担し、想いはせるなどあってはならないのだ。その時点で中立は崩壊してしまう。助手とはいえ彼も情報屋。中立を貫かねばならない立場だ。しかしデルタには、助手が左都へ向ける眼差しの温度が違うと看破できた。デルタも同じ眼差しを彼氷に向けている。片思い同士の同族。助手は情報屋として立派に努めているが、立派な一人の青年。恋のひとつだってするだろう。その人間味がデルタの興味を引いたのだ。


「さて、どうだか」


 それに対し、助手は静かに、静かに、それは子守歌のような落ち着いた音で反復した。助手の返答に満足したのかデルタは部下を率い、その場から立ち去って行った。


 静寂を取り戻した出荷スペースから我に返った助手は慌てて左都の応急処置を開始する。手際よく応急処置をするなかで、助手の頭上から声が降った。


「ふふふ。危なかったね」


 それは左都のものとは違う、少年のような声だ。楽しそうに転がる笑い声を聞いた助手の肩にどっと疲れが圧し掛かるのがわかった。


「君は分かりやすいんだよ。わたしがいつも言っているじゃないか。ポーカーフェイスの冷たい鉄仮面をつけろって」

「はいはい」

「まあなんて生意気な返事でしょう。そんなんだから左都を誘拐されたんでしょ」

「おっしゃる通りで……」


 その声主に助手は敵わない。背中が重くなるような気がして顔を上げられないまま、左都の応急処置を必要以上に丁寧に行う。助手が唯一、楯突くことのできない相手だと日々翻弄される人物。それこそが、会話の相手。


 ……その人物こそが、件の情報屋である。唐突現れた情報屋に対し驚くことはない。むしろ情報屋が現れるだろうという予測は左都が撃たれた時からできていた。


「今回の反省を以後の改善点とするよーに」

「重々承知しております」

「本当に?」

「ほんとほんと」

「じゃあ罰を授けます。今月は減給だ。失態を肝に銘じてね」

「ご無体な!」


 つい助手が顔をあげる。ちょうど情報屋と目が合った。


 血の気が引いた顔色の悪い情報屋がそこにいて、助手はつい息が詰まる。


 情報屋の顔は、その姿は、見るだけで胸が痛いのだ。助手は続けようとした言葉を忘れて、情報屋の胸に頭を埋める。深い深いため息をついて、そしてその中に謝罪を加えて目を伏せたのだった――……。

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