信号待ち
@hainekotei
第1話
走る。走る。走る。
人も車も何もいない海沿いの道を、一台の車が走っている。
もう夜は随分と更けて、海にかかる橋すらその電飾を消してしまっている。
おかげで、鈍く揺れる波の上に浮かぶ中途半端に丸い月が、酷く明るく感じられた。
「やっばー。もう1時過ぎてんだけど」
車の助手席から、言葉とは裏腹に全く焦りを感じさせない声がした。
声の主は、髪を短く切った、少々男性的な顔つきの女性。
スマホを右手に先ほどの言葉を発したらしい。暗い車内がスマホの液晶でほんのりと明るい。
「明日仕事?」
「んー」
間の抜けた返事に肩をすくめつつハンドルを握るのは、ゆるくウェーブのかかった黒髪の女性。
助手席の人間とは対照的に、長い睫と柔らかい頬の雰囲気は、人形的な可愛らしさを醸し出していた。
「どうしましょう美和さん。もうかなり夜中なんですけど」
スマホの画面を投げやりに消して、短髪の女性が運転席を見つめる。
「……どうしましょうって。帰らないとダメでしょ」
「うんそーだよね。帰らないとダメダヨネ。でも」
車は相変わらず快調に走り続ける。
「……帰りたくないよね」
美和さん、と呼ばれた運転席の女性がぽつりと続ける。
しん、と車の中が静まり返る。つまらないラジオ番組は喋るのに邪魔で、かなり音量を下げられていた。その小さな音だけが車の中にかすかに響く。
「あーもー明日サボっちゃおうかなぁ」
「杏樹」
「わぁーってますぅー。言ってみただけですぅ」
唇を尖らせて、助手席に背中をどっしり預ける。分かっている。以前仕事をサボって会いに行って、こってり絞られた時に約束したのだ。
社会的責任はきっちり果たそう。
それが、社会的には結ばれることが--少なくともこの国内にいる限り暫くは--不可能であろう二人で決めたキマリ。
「あーあ。うまくいかないもんだねぇ」
美和は、そんな杏樹のぼやきに同意しながらハンドルを握る。帰りたくないといいながらも、車は着々と自宅へ近付いていた。
「今日は帰りたくない気分」
「いつもでしょ」
「……今日は特に」
それは美和も同じだった。
今日は一日楽しかった筈なのに、ここ数十分のせいで気分が台無しだ。
せめてゆっくり帰りたい。
それなのに、今日に限って車は全然信号に引っかからない。
「来週ね」
不意に美和が口を開く。
「……来週でね。卒論終わるの。そしたら時間、できるから」
「……美和さん」
不意に宣告されたことに驚いて口をぽかんと開けて、数秒後に杏樹は美和に飛びつく。
「そーゆーことは早く言ってってばぁぁぁぁ」
「ちょ、危ないっ!」
慌てて急ブレーキを踏んだら、偶然にも赤信号。
「うっしそれ聞いたら決心ついた。がりがり働いて金稼ぐどー」
美和に押しのけられて渋々助手席に戻り、杏樹は拳を握り締めた。
美和はそれを見て、やれやれと一つ息を吐いた後、信号が青になったのを確認してアクセルを踏み込んだ。
二人を乗せた車は、海沿いの暗い道をただひたすらに走る。走る。走る。
やがて時計は2時を指し。
美和は杏樹を降ろした後、一人眠気と戦いながら、残りの5分を必死になって運転したのだった。
信号待ち @hainekotei
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