10. 知ってしまったもの、奪われたもの

 事務所のインターホンが鳴り、昼の出前で取ったそばの容器を回収した店員が帰っていく。

 僕の隣のソファではそんな物音も全く気にしていないチャーリーが丸くなって午睡を楽しんでいる。

 

「で、どうするんですか、黒埜さん」

「明日、取りあえず八木橋のお嬢さんに会いに行ってみよう。…多分何も知らないだろうけどね」

「明日は私、休みですからね?」

 綾子氏が口を挟んできた。

「そっか、明日は土曜日だっけ。

 ま、引きこもりには土日関係ないっしょ」

 身も蓋もない言いようだが、事実だろう…。

「じゃあ、今日はもうお開き?」

「そうだね。下が開くまで昼寝でもしようか」

「まだ! 営業時間です!

 シャキッとしてください!」

 綾子氏が仁王立ちで僕らを見下ろしていた。

「……木田君。シャキッとしてよ、僕の為にも…?」

「……黒埜さんが言われてるんですよ? どっちかっていうと…」

 チャーリーは相変わらず我関せずを貫いていた。少しだけ羨ましい。


 結局事務所を閉める時間になるまで、新規の依頼の電話が鳴る事も無く、妙に肩が凝る時間を過ごした後、僕と黒埜氏はいつものピザハウス、『エリス』に来ていた。

 アンチョビのピザを食べ、ビールを飲みながら僕は黒埜氏に聞いてみた。

「そう言えばジンさんが言ってた黒埜さんの渾名って、何なんですか?」

「……それはもう良いって」

 よほど知られたくない名前なんだろうか。ヤクザ事務所でジン氏にその話題を振られた時も、随分渋い表情をしていた。

 ジン氏は楽しそうにしていたから、二人の関係もまた長いのだろう。

 

「黒埜さんとジンさんて、どんな関係なんですか?」

「…別に楽しい話は無いよ?」

 黒埜氏はマスターにビールのおかわりを頼み、口元をハンカチで拭ってから、ポツポツと話してくれた。


「俺が中学の頃からだから、もう大分長い付き合いだよ。

 その頃あの人は高校生で、池袋で当時チーマーって呼ばれる類いの存在だったんだ。

 俺が池袋で友達庇ってチームのヤツらと喧嘩してる時に、初めて会ったんだ」

「何とも、壮絶な出会いですね……」

 僕は良く知らないが、チームっていうのは当時の暴走族みたいな不良グループの事じゃなかったか。ギャング、みたいな呼び方もあったと思うけど、同じ物だろうか…?

 

「まあ、俺は一人だったからさ、ボコボコにされたんだけど」

「当時から滅茶苦茶だったんですね…」

「俺はほら、バリツ使えるし、どうにかなるかと思ったんだけど…」

「バリツって、シャーロック・ホームズの使う架空の武道ですよね?」

 思わず声に呆れが乗ってしまう。…まあ、ジョークなんだろうけど。

「その時に、ボコってるヤツらを止めさせて、何とか話し付けてくれたのがジンさんさ」

「へえ…。良い話…なんですかね?」

「その後しつこくチームに勧誘されたのは辟易したけど」

 そう言ってからビールに口を付ける黒埜氏も、なかなか楽しそうだ。

 

 再びピザを手にした僕に、黒埜氏は幾分真面目な顔付きになって続ける。

「一つだけ木田君に言っておくけど。

 俺はヤクザが大嫌いだ。

 探偵なんて稼業も大概ヤクザな商売だけど、それでもこれだけは覚えておいてくれ。

 …俺はヤクザが大嫌いだ」

 そう話すその目に、少しだけ哀しみの色を見て取ったのは、果たして店の照明のせいだろうか。

 

「……はい。僕も、ヤクザ嫌いですから…」

「…知ってるよ」

 店内にはビル・エヴァンスのバラードが流れていて、その音色がはっきり聴こえる程には、客の入りも少ない。金曜日の夜は、混み合う時間がもっと遅いのだ。

 僕たちはしばらくの間、静かにジャズを聴きながらビールを味わうのだった。


***


 土曜日。普段以上に閑散とした朝の下板橋で事務所掃除を済ませ、コンビニで買ってきたサンドウィッチを食べ終えてから、黒埜氏を起こしに3階に上がる。

 黒埜氏が起きて降りてくるのを待つ間にコーヒーを入れ、二人でそれを飲んだら戸締まりをして出発する。


 そして、練馬。二度目の八木橋家訪問だ。


 土曜日も主である八木橋氏は仕事らしく、前回同様奥さんの案内で、引きこもり中の翠と面会をした。

 

「…この男なんだけど、見覚えないかな?」

 僕が差し出した2枚の写真。遠藤の写真だ。

 しばらくじっくりと見ていたが、やがて首を振りながら翠が写真を返してきた。

「…やっぱり知らないか」

 黒埜氏が当然知っていた、とでも言いたげな口調で呟く。

「てことは、翠さんを襲った誹謗中傷は、完全なデマということですね」

「それだけじゃないだろう。

 …遠藤は確かに聖清の女子高生と繫がりを持っていたんだ。

 つまり、誰かが意図的にデマを流した、ということになる。

 翠ちゃんをスケープゴートにする意図があったということだ」

 黒埜氏の言葉に、翠の顔が蒼くなった。

 

「……そんな…

 あれが全部、ワザと…?

 誰が…一体、誰がそんなひどいこと…」

 みるみる翠の大きな目に涙が浮かび上がり、声も肩も、体全体を使ってわなわなと震え出す。

 自分の知らないところで、自分の知らない事で、誰かの悪意に晒される。それが現実の友達たちの無意識に伝播し、現実の彼女を飲み込んでしまったのだ。その無垢で小さな体が処理できるような物ではないだろう。

 

「最も可能性があるのは例のギャル達かな?」

 黒埜氏はそんな翠を気にする素振りもなく検証を始める。

「…まあ、現実的に考えるとそうですよね」

「俺の時代のギャルって言ったら、真っ黒なメイクに目元だけ真っ白にして、クリーチャーみたいな存在だったけどなあ」

「黒埜さん、もう少しデリカシーを持ってくださいよ…」

 そんなやり取りをしていると、まだ目に涙を浮かべながらも、クスッと翠が笑った。

 

「…翠さん、何か彼女たちのことで、思い当たることないかな?」

「……すみません。あの子達、なんか怖くて…。話した事ほとんどないんです」

 それは、なんとなく気持ちが分かる。

 

「小野田瑠璃って子がリーダー的な存在なのは、間違いない?」

「…はい、そう思います。

 あの子のお父さん、私のお父さんと同じ会社なんです。部署とか違うらしいし、お父さん同士はあまり知らないらしいんですけど。

 でも、そのことで入学した時から、何かと私に嫌な態度を取ってきてて…」

「ふーん…。世知辛い世の中だねえ…」

 黒埜氏が他人事みたいに嘆いた。

 聖清女学院の子達から聞いた情報の中では、瑠璃という子は家が埼玉の川口と聞いている。翠の住むこの家のことを思うと、多分瑠璃の父親は八木橋氏ほどの役職には就いていないのだろう。

「そうか…。ありがとう」

 僕が話を纏めて、ここを切り上げようとすると、黒埜氏が翠に語りかけた。


「翠ちゃん。もしこの事件が解決して、君の潔白が証明されたとして。

 君は、また学校に通えるかい?」

 その言葉に翠は。

 

「……わかり、ません…。

 私…わたし……こわい…です…。

 怖いですっ! あ、の…子達の目…あんな目で見られて……私、わたし……こわい……」

 そう言って、翠は激しく泣き出した。先ほどの比ではない程、激しく体を震わせ、時折嗚咽を交え、悲痛な叫びを漏らした。

 しばらくリビングに翠の啜り泣く声だけが流れた後、落ち着き始めた翠に黒埜氏が再び声を掛けた。

 その声は、僕でさえはっとするほど優しい声音だった。

「……なら、行かなければいいさ」

 その声に、翠が泣き腫らした顔を上げる。

「別に、学校なんて行かなくてもいいさ。

 勉強は続けるべきだけどね。

 今の時代、通う以外に学校を卒業する方法も、進学する方法もある。

 …ゆっくり考えれば良い」

 そう言って、黒埜氏は今度こそ立ち上がった。


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