4. But not for me

 八木橋宅を出て、僕たちは言葉少なに駅へと戻る。

 僕はずっと翠の身に降りかかった集団の悪意という物に思いを馳せていたが、多分黒埜氏は別のことを考えていて無言なのだろう。

 練馬駅のホームで電車を待つ間に、黒埜氏が口を開いた。

「結局、八木橋家を探っていたチンピラの正体は分からず仕舞いか…」

 

 確かに翠も母親も、依頼人同様その実態を知らずにいた。もしもその話が本当ならば、翠を襲った噂話が、丸っきりの出鱈目では無いと言うことになる。翠に対する噂話の中にヤクザというキーワードが出ていたことがヒントだ。少なくとも、翠が知らないところで何かに巻き込まれているのは間違いないのかも知れない。

 あるいは、翠の話がまったくの嘘なのか…。

「この後は予定通りで良いんですか?」

「ああ。聖清に行ってみよう」


***


 一旦池袋に出て乗り換え、事務所を通り過ぎて小さな駅で電車を降りる。

 常盤台―私立聖清女学院の最寄り駅だ。駅から徒歩15分程で着くはずだが、その前に―

「どうせだったらこれ、一度取りに寄ったら良かったんじゃ無いですかね。

 何もずっと持ち歩かなくても」

「気付いちゃったのかい、木田君。

 …今日が暑くなくて良かったよ」

 僕たちは聖清女学院に向かう前に、寄り道をしていた。今回の依頼人を紹介してくれた人に、お礼がてら挨拶をする為だ。

 

『板橋の田園調布』の異名を取るこの付近でも、一際大きく異彩を放つ豪邸の前で、僕らは迎えを待っていた。

 古い洋館と趣のある庭園をぐるりと囲む塀の周りは、一周廻るのにどれほど時間が掛かるのだろう。

 僕と黒埜氏は春先にこの辺りでちょっとした依頼を受け、その調査中にこの屋敷で花見中の田島さんと出会った。

 しばらく二人佇んでいると、やがて屋敷から如何にもといった感じの執事然とした中年男性が歩いてきて、門を開けてくれた。リアル執事に感動している間に、屋敷の中へと案内される。

 

「黒埜さん、木田さん。ようこそおいでくださいました」

 応接間には、整った顔立ちの中に微かに無邪気さを漂わせている不思議な雰囲気の美女、田島佐貴子さんが控えていた。

 前回会った時には、会社行事の花見中で見事な和装だったが、今日はカジュアルな洋装で、新たな魅力を見せてくれている。

 

「ご無沙汰しております」

 黒埜氏の珍しい会釈を見てから、僕はずっと持ち歩いていたお土産を佐貴子さんに渡した。

「あら、気を遣わせてしまって」

「事務所の子の実家から送って貰った桃です。

 お口に合えば幸いです」

 箱に収まって綺麗に包装された桃を受け取ると、もう一度礼を言ってから佐貴子さんは執事にそれを手渡した。

「どうぞ、お掛けください」

 華やぐ笑顔で促され、僕たちはソファに腰を落とす。

 八木橋家のソファが豪華さとモダンさを誇っていたように、こちらのソファは気品とシックさで気後れしてしまう。

 

 タジマ・インダストリアル―産業ロボットでバブル初期から大きく名を馳せている、知る人ぞ知る一大企業。先代の会長が亡くなってから佐貴子さんが諸々を引き継いでいる。もっとも、経営には携わっていないそうだが。


 運ばれた上品なお茶を飲みつつ、紹介のお礼といくつかの世間話をした。

 

 応接間からは大きなガラス戸を通して、手入れの行き届いた鮮やかな庭が一望できる。

 右手奥には印象深い桜の樹、目の前には池を囲んだ見映えのする庭石が不規則に並ぶ。

 庭石の陰から佐貴子さんの愛猫、ジョイ君が顔を出し、それを切っ掛けに事務所に居着いたチャーリーの話でまた盛り上がる。気がつけばもう間もなく夕方になる頃だった。

 

「黒埜さん、そろそろ行きますか?」

「そうだね。

 …佐貴子さん、聖清女学院についてはお詳しいですか?」

「八木橋さんのお嬢さんですね。…お可哀想に」

 佐貴子さんが柳眉を寄せ、美しい相貌に陰が差した。

「残念ながら、私の母校というわけでもないので…。

 毎日この家の前を沢山の生徒さんが通るんですけどね」

 一転、ニッコリと微笑む佐貴子さん。実に絵になる人だ。

「あ、そうそう。その十字路を真っ直ぐ進んだ先に『ノワール』っていう喫茶店があるんですけど、いつも何人か聖清の女の子達がいるんです。行き詰まったら行ってみても良いんじゃないかしら」

 ポンと柏手を打って、有り難い情報を教えてくれた。

「良い名前ですね。是非、行ってみます」

 黒埜氏も嬉しそうに答えているが、半分はコーヒー目当てだろう。


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