3. 羽を失った少女
地下鉄が開通し、再開発も落ち着いてきた練馬駅。僕と黒埜氏はそのまだ新しい町並みを闊歩している。
駅から徒歩6分、タワーマンションと呼ばれる目的地が眼前に立ち塞がった。
「さすが大企業の部長職、いいとこ住んでるよねえ。」
マンションの前で仰ぎ見る黒埜氏は、常と変わらず無表情だった。そう、ここは依頼人の八木橋一家が住む建物だ。
「奥さんは在宅らしいですね」
「うん、ちゃっちゃと済ませよう」
モザイク模様のように石を並べた壁面でさえ、自分たちの姿が鏡面みたく映るんじゃ無いかと思わせるピカピカのエントランスを潜り、僕は目的の部屋番号のインターホンを押した。
出迎えてくれた奥さんは30台後半だろうか、薄い化粧に落ち着いた色合いのワンピース姿で僕らを招き入れてくれた。ご主人同様、落ち着いた人柄のようで、挨拶もそこそこに応接間替わりのリビングへと通される。
家具は必要最低限に抑えられているが、そのどれもが探偵事務所の一ヶ月の給料を注ぎ込んで買えるかどうか。空気さえも違う世界を感じてしまう。
一度座ったらどこまでも体が沈んでいきそうなソファに黒埜氏と二人、何とか腰を落ち着けていると、奥さんに連れられて一人の少女が姿を現した。
おずおずと僕らの前に立った少女は、八木橋
薄暗い室内でもはっきり分かる、生地の良いトレーナーに膝上まで丈のあるショートパンツ。肩に掛かる長さの黒髪と、訝しそうにこちらを見つめる黒目がちな瞳。
一言で片付けるなら美少女だ。化粧っ気の無い相貌はもちろん、髪型や服装も少し野暮ったいので、一昔前の美少女といった感じではあるが。
黒埜氏の対面のソファに腰を降ろすと、トレーナーにプリントされたキャラクターがこちらを嘲笑うかのような表情になった。
「…八木橋…翠、です…。」
窓外のトラックが走り抜ける音に吸収されてしまうのではと、心配になるような音量で翠は自己紹介をした。
「はじめまして。下板橋探偵事務所の所長をしております。
「私は助手をしております。木田
双方の挨拶が済んだタイミングで、奥さんがお茶を運んできた。来客慣れしていることが覗える。
いかにも高級そうな啜り茶碗をそれぞれの前に置くと、奥さんは退室していった。
しばらく沈黙がリビングを覆う。時折聞こえる自動車の騒音が、かえって気まずさを感じさせる。
啜り茶碗の蓋を外し、遠慮無く煎茶を啜った黒埜氏が静寂を破った。
「翠さん、引きこもり生活は楽しいですか?」
黒埜氏はどこか楽しそうだ。
相手の真意を知る為の不意打ちは黒埜氏の十八番だが、相手はまだ高校生の女の子だ。
しかも被害者。
そちらを向けば案の定、カーペットの上で視線を
「翠さん、すみません。この人はこういう人ですが、悪気は…その、そんなに無いんです」
「木田君…そんなにって…」
何故、裏切り者を見る目で睨んでくる。
黒埜氏に構わず、相変わらず俯きながら
「クラスの子たちから嫌がらせを受けていると聞いたけど、詳しく聞かせて貰えないかな?」
それでも尚逡巡している素振りだったが、それを責める気にはならない。その小さな体の中で、沢山の葛藤があるのだろう。
何度も口を開き掛けては噤み、視線を落ち着き無く泳がせていたが、やがて少女はポケットからそろそろと、スマホを取り出した。
震える手で端末を操作し、そのままこちらへと差し出した。その震えに、僕は彼女の心の悲鳴を聞いた気がした。
「…これは?」
スマホを受け取った黒埜氏が少女に聞く。
僕も覗き込んでみると、目の前の少女が制服姿でどこかを見つめている写真だった。
目線は宙を漂い、心持ち口を開いた、何とも所在なさげな様子の少女。
町中の風景なので、どこか人待ち顔のようにも見える。
「…撮られたんです。知らないうちに。…それを、クラスのチャットルームに流されて…」
「これは…ああ、ホテル街だね。池袋かな?」
よく見ると、確かに背景の建物にラブホテルの看板らしき物が映り込んでいた。
「私…私、何もしてないんです。その写真だって、友達と遊んでいただけなのに…」
薄い唇を震わせ、目の前の少女が溜まっていた胸中の思いを吐露する。
「翠さん、落ち着いて。
…最初から話してくれるかい?
いきなりこの写真が出回ってきた訳じゃ無いんだろう?」
黒埜氏の穏やかな低い声で僅かに冷静さを取り戻したのか、一口お茶を飲んでから、八木橋翠という少女は自分の身に起こったことをポツポツと語り出した。
***
ゴールデンウィークが明けたばかりの学校で、翠は何となく周囲の空気が変わっていることに気がついた。元々人付き合いは良いが積極的に話しかける性格でも無い。自分の気のせいだと思おうとしていたが、徐々に気の迷いなんかでは無いと分かってくる。
…クラスの子達から距離を置かれている…。
隣の席を中心に数人の級友が和気藹々と話し込んでいる。興味のある話題に思わずそちらを向くと、視線に気付いた子達が話を止め、申し合わせたように席を離れていく。
いつもはランチタイムに誘いを掛けてくれる子が、何も言わずに自分の横を通り過ぎていく。
最初はそんなどちらとも取れるような態度だったが、やがて無視と思えるような決定的な態度に変化していく…。
そればかりか、離れた場所から明らかにこちらを見ながらヒソヒソと薄ら笑いで話し込むグループが、教室内のあちらこちらに出来ていた。噂話、陰口、中傷…。
それでも心当たりの無い彼女は、クラスで一番仲の良い友人に相談してみた。
放課後の通学路、人気の無い場所で彼女は躊躇いながらも教えてくれた。
その友達曰く――
一つ、八木橋翠は池袋のヤクザと付き合っている
一つ、八木橋翠は池袋で援助交際をして、ヤクザからドラッグを貰っている
一つ、八木橋翠はビッチである。
翠にとって一つも思い当たることの無いそんな噂話は、質の悪い冗談にしか思えなかった。エイプリルフールにだって思いつかない、非現実的な
だと言うのに、そのような作り話が何故かチャットルームを賑わせ、そして級友達は疑うこと無くその話を信じ込んだ。まるで自分が見てきたことのように。
「翠さんは本当に、その噂に心当たりが無いんだね?」
「当たり前です…!!」目に涙を浮かべ、翠は声を震わせた。
「本当に、なんでそんな話になってるのか…!」
「ヤクザっていうのは…?」
僕の問いに、首を振る翠。
「その、噂を教えてくれたっていう友達は?」
「…
中学から一緒で、よく遊んでる子です」
「じゃあ、写真を撮られた時も、その子と?」
今度は一つ首是する翠。
「なるほど。その紫苑ちゃんにも話を聞いた方が良さそうだな」黒埜氏が呟き、僕は手帳にその子の名前をメモした。
「…それから?」
黒埜氏の容赦ない催促に従い、翠は話を続けた。
「クラスにパパ活をしてるって噂のグループがいて…その子達が、根も葉もないことで私のことをすごく下品に馬鹿にして…!」
その時の事を思いだしたのか、再び激しく涙を流しながら、嗚咽混じりに翠は状況を語った。
「それを見てた周りにいたクラスの子達も、一緒になって私のこと笑ってっ…!
私のこと…私、のこと……」
言葉になったのはそこまでだった。しゃくり上げる翠の声が途切れた間も隣の部屋からくぐもった嗚咽が聞こえた気がする。おそらく、八木橋夫人の物だろう。
誰も何も話さないまま、質量を感じる時間が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます