1. prologue

 どんよりとした6月の薄曇りの空の下、都心の端っこを走る私鉄電車は、いつもの緩やかなカーブの途中で停車した。

 鉄が軋む嫌な音を立てながら電車が止まると、襲ってくる慣性の力。降りる用意をしている僕も含め、数人の立っている乗客の体を面白いように弄ぶ。

 数秒の間を置いて、ゆっくりとドアが開く。

 既に通勤ラッシュは終わっており、終点まであと二駅というこの駅では、降りる人もまばらだ。

 円弧を描くホームは、端に立つと反対側が見えない。傾いた電車の車体と、影のように蠢く乗客のみが視界の全てだ。

 降りる人達は皆一様に、今日の空模様のように覇気の無い姿で改札を目指してのそのそ歩く。

 僕もその少ない人波に混じって、同じような歩調で歩く。

 

 木田典親のりちか、24歳。165cm、54kg。一応大学を出ているが、その辺の人達に片っ端から質問して、『10人中4人くらいが知ってる』程度の知名度の大学。

 独身だが、恋人はいる。付き合って一年だ。両親は離婚しているが、二人とも健在。静岡の実家には、母親と短大に通う妹が住んでいる。特技と呼べるほど自慢できる物はないが、亡くなった祖父が合気道の道場を営んでいたので、簡単な護身術程度なら扱える。

 まあこのように、僕自身はいくつかの事情はあれど、至って平凡な男だ。

 だが、これから向かう場所。

 僕の勤務先。

 いや、僕の職業は実のところ、あまり平凡とは言えない。


 改札を出てすぐ、線路を渡る。運良く踏切に邪魔されなかったが、タイミングが悪ければしばらく足止めを食う要注意スポットだ。

 少し歩くとやや閑散とした商店街に踏み入る。半ばシャッター街と化した町並み。

 角を曲がると、直ぐに住宅街になる。

 今にも降り出しそうな空を気にして、気持ち足が速くなる。

 いくつか路地を曲がると、コインパーキングとアパートに挟まれた、年季の入った古い3階建てのビルが現れる。

 1階のピザハウスには、もちろんまだシャッターが降りている。

 ピザハウスの陰に潜むように口を開けた狭い階段を昇り、事務所のドアに手を掛けた。

 ――鍵は開いている。

 

「おはようございまーす」

 中に入りながら声を出すと、奥から掃除機を抱えた綾子氏が出てきた。

「おはよう、木田君」

 降ろしていれば腰まで届くストレートの黒髪をポニーテールにして、品の良いライトグレーのスーツの袖を捲った姿は、キャリアウーマンのようだ。リムレスタイプというらしい細長いフレームの眼鏡も、知的な印象を与える。

 藤沢綾子、23歳。学年で言えば僕とタメ年だ。入所したのもほぼ同時期なのだが、当時僕はバイトだったし、綾子氏は最初から社員だった。

 

「じゃ、早速看板出してきますね」

「お願い」

 綾子氏に見送られ、ドアの内側に閉まっていた腰下くらいの高さの看板を手にし、再び外に出る。

 通りには歩いたり自転車に乗ったりしている人の影が幾つもあるが、僕の挙動に注意を払う者は誰一人いない。リードを握られ散歩をしている黒犬だけが、僕の事をチラリと見た。

 

「よっ」さして重くも無いが、何となく声を出しつつ看板を邪魔にならない場所に置いて、一歩下がり確認する。

 

『下板橋探偵事務所 2F』


 ―うん、バッチリ。

 

 またも階段を昇り、朝の準備に僕も参加した。


***


「ふーっ。こんなもんか」

 テーブルを拭いた雑巾を濯ぎ終わり、室内を見回す。

 いささか古びていて、殺風景ないつもの事務所だ。だが、応接用の低いテーブルの上には、今日は花が置かれている。来客の予約があるという事だ。

 

 時刻は午前10時になるところ。

 いつものようにコーヒーメーカーをセットしながら、僕は綾子氏に尋ねた。

「今日予約入ってるの?」

「―あら。話さなかったかしら?」

 折り目正しく畳まれたスポーツ新聞を所長の机に載せながら、綾子氏が首を傾げる。

「……ああ、所長にしか話してないかも。

 ごめんね?」

「いや、いいけど。どんな依頼?」

「えっと――

 ……まったく。」

 話しかけていた綾子氏が何かに気付いた様に目を細め、ツカツカとヒールを鳴らしながら非常口へと向かう。

 徐に非常口を開くと、非常階段を降りてきた所長が驚いた顔でこちらを見ていた。

 

「―おはようございます、所長。

 今朝はこちらからご出勤なのですね」

 およそ感情という物が全く見受けられない声で、綾子氏が腕組みしながら所長を見つめる。

「やあ…綾子さん。木田君も…おはよう…」

 気まずさを露骨に顔に浮かべながら、所長が事務所に入ってきた。

 

 黒埜くろの秀虎ひでとら、37歳。178cm、58kg、長身痩躯。ボサボサの髪は短いので気付きにくいが天然パーマだ。顎には無精髭。

 言うまでも無く、下板橋探偵事務所の所長。つまり、私立探偵という人種だ。


 このビルは黒埜氏がこの辺りの地主であった祖父に譲り受けた物で、ビルを含めた一区画が黒埜氏の名義となっている。

 従って、僅か3人という従業員数でありながら、なんとか経営が成り立っている底辺企業だ。

 黒埜氏はこのビルの3階に住んでいて、普段なら表の階段を降りて入り口から出勤してくるはずだ。

 

「まったく、予約が入ってると言っておいたのに、なんで逃げようとしてたんですか!」

「…だからだよ…。

 綾子さんの方が探偵に向いてるんじゃ無いのか…?」

 決して綾子氏の顔を見ようとせず、ボソボソ文句を言いながら自分の席に座る黒埜氏。

 コーヒーを注いだカップを持って行くと、新聞を広げ始めていた。

「おお、もうすぐ夏の甲子園か…。」

 地方大会が始まってる時期なのだろう。紙面には春の大会で久々に決勝まで進んだ群馬のチームのエースが大きく映っていた。たしか高崎実業高校だっけ…?

 その隣には相手の優勝校、和歌山なんとか校の四番バッターの写真。プロ候補の二人を勝手にライバル扱いし、クローズアップした記事は最近よく見る気がする。

 

 コーヒーを飲み始めた黒埜氏の元に、綾子氏が資料を持ってきた。

「ほら、依頼者が来る前にちゃんと資料に目を通してくださいよ」

「えー!?

 …やだよぅ。高校生のイジメ問題なんて、探偵の仕事じゃ無いだろう?」

「それで黒埜さんは逃げようとしたんですか?」

 僕が聞くと、黒埜氏は気まずそうに目線を逸らした。

「まったく、何日仕事が入ってないと思ってるんですか!

 いい大人なんですから、選り好みせずに仕事してください」

 有無を言わせない勢いでそう言った後、靴音高く綾子氏は自分の席に戻っていった。

「……はあ。」

 綾子氏の後ろ姿を見送っていた黒埜氏が、海よりも深い溜息を吐く。

「…まあ、頑張りましょうよ」

 僕にはそれくらいしか言えない。実際、前回の浮気調査が完了してから、もう一週間近くになる。綾子氏の言い分はもっともだった。

 ついに観念したのか、スポーツ紙を畳み、置かれた数枚のコピー用紙に目を通し始めたとき、インターホンが鳴った。

 入り口近くに席を置く、受付役の綾子氏が応対に向かう。

 間もなく10時半、おそらく御予約の依頼人だろう。

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