第93話 桜花と①
「あっ」
横を歩いていた桜花が突然声を上げて立ち止まる。
白を基調とした生地にピンク色の花が散りばめられた浴衣を着ている彼女は、頭に手を当てて眉を下げていた。
「木の枝に当たってズレちゃった……」
何が? と聞かなくてもわかった。
彼女が頭に挿していたかんざしだ。
とある家の塀の外にまで伸びた木の枝が、桜花の頭を掠めてしまったらしい。
「えーん、鏡持ってきてないからわかんないよ」
「直そうか?」
「いいの? それじゃあ……」
申し出たものの、かんざしなんて触るのは今が初めてだ。
せっかく綺麗にセットした髪をぐちゃぐちゃにしないよう、細心の注意を払いながら斜めになったかんざしを静かに髪の奥へと滑り込ませる。
「どうだ? 見た目的には問題ないんだが……」
「感触としては大丈夫。ちゃんと挿さってる感じがするよ」
「そうか。また後で駅のトイレにでも行って確認してくれ」
「そうするー」
桜花がにぱっと笑ったのを見届けてから、再び歩き出す俺たち。
今日は花火大会。
混雑が本格化する前に早めに家を出たつもりだが、俺たちと同じ考えの人達も少なくないらしく、浴衣を着た女性が通り過ぎるのを既に三人は見かけていた。
そのせいかいつもの通勤時と違い、今の景色はより鮮やかに見える。
もちろん隣に並ぶ桜花の浴衣姿も、その高揚感の一因だ。
駅のホームは既に多くの人でごった返していた。
朝の通勤ラッシュまでとはいかないが、今の時間でこの人の多さなら18時頃には凄いことになっていそうだ。
「うわー……」
この光景に辟易したらしい桜花が思わず声を上げる。
俺も同じ気持ちだ。
それと同時にある不安が胸を過ぎり、彼女の手を静かに握った。
「へっ!?」
「いや、はぐれたらいけないし。それに……」
「それに?」
「こうしてた方が桜花が安全かなって。その、昔嫌な目に遭っただろ……」
「あ……」
既に何年も経過しているが、あの時のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
俺が桜花と始めて会った、あの日のことは──。
桜花は一瞬だけ神妙な面持ちになるが、すぐにまた朗らかな笑顔に戻る。
「ありがとう。とても心強いな」
握っていた手が強く握り返され、それに合わせて心臓を打つ速度が少し上がってしまった。
花火会場に着いた瞬間、桜花は「わぁ……!」と目を輝かせた。
出店がズラリと並んでいる。
白い煙が風に流れて、美味しそうな香りを運んでいた。
「凄い凄い! 本物はこんなに熱が渦巻いてるんだ……!」
首を右に左にキョロキョロと振り、興奮する桜花。
彼女は今日が花火大会初体験らしい。
子供の頃は厳しい家庭環境があったせいで行けなかったことは容易に想像できる。
大人になってからは、単純に予定が合わなかった。
具体的に言うと、〆切が重なっていたからだ。
現在の桜花はイラストレーターとして活躍中だ。
その傍ら、趣味で同人誌も出している。
特にこの時期は毎年夏コミの〆切で死にそうになっていたのだが、今年は桜花曰く、
「ふふん。今年こそ花火大会に行くために、なんと1ヶ月も前に印刷所に提出済みなのです!」
と得意げだった。
それもあって、今日は何の憂いもなく念願の花火大会に参加できたというわけだ。
ちなみに同人誌やら夏コミやらの智識は、桜花と付き合い始めてから自然と身についてしまった。
俺は会場に行ったことはないのだが、桜花に見せてもらったカタログからは会場の楽しそうな雰囲気が伝わってきた。
アニメやゲームの二次創作などのイラストや漫画がメインだと思っていたが、評論を集めたコーナー(島と言うらしい)まであるのは驚きだった。
全国のソースの味比べやコンビニスイーツを徹底研究したもの、とある場所の看板の移り変わりを記録したものなど、興味をそそられるサークルカットがたくさんあったので俺もそのうち行ってみようかと思う。
桜花が言うには結構な戦場らしいので、今の今まで躊躇して見に行けてないけれど……。
それはともかく、この花火大会も人の込み具合で言えば同等のものだろう。
はしゃぐ桜花が迷子にならないよう、いつもより気を付けないと。
……とか考えた直後、桜花は俺の手を振りほどきいきなり駆け出してしまった。
「見て見て! アレりんご飴だよね!? すごーい! 今まで漫画でしか見たことなかったけど実在したんだ!」
「わかったわかった。買ってやるから落ち着け」
子供みたいな無邪気な反応に、財布を取り出しながら思わず頬が緩んでしまう。
今日は目一杯楽しんで欲しいと思いながら、自分は何を最初に食べようかと思考を巡らせるのだった。
焼きそばに牛串と晩飯代わりになりそうな物を食べた後、桜花の望みで射的と金魚すくいに挑戦した。
金魚は持ち帰っても死なせてしまうだけなのでリリースしたが、桜花はとても満足したようだ。
俺も年甲斐もなく熱中してしまった。
「そろそろ始まる時間だと思うが──」
俺の声に重なって、ドオオオオンという腹の底に響く音が駆け抜けた。
皆「おお」と声を上げ、一斉に暗くなった空を見上げる。
オレンジ色の大きな花が、尾を引きながら垂れ下がる様はいつ見ても心を奪われる。
「び、びっくりしたぁ……。こんなにお腹に音が響くんだ……」
目を大きくしながら呟く桜花。
花火大会が初めてではない俺も、毎回最初の1発は肩を震わせてしまう。
「ねえ。かき氷食べながら見たいな」
「わかった。買ったら見やすい場所に移動しよう」
桜花の要望に頷き、早速かき氷の屋台に並ぶ俺たち。
その間も花火は上がり続け、夜空を明るく照らしていた。
この大きな音が非日常感を運んできて、年甲斐もなくワクワクしてしまう。
隣に並ぶ桜花を見ると、目をキラキラさせて空を見上げていた。
大切な人が楽しんでるいる様子を見ると、こっちも嬉しくなる。
少しずつしか進まないかき氷の列も、今は花火と桜花のおかげで気にならないのだった。
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