第92話 奏音と①
たぶん、今の俺の顔は非常に険しくなっている。
だがこればかりは妥協できない。
どれも良い物だとは思うが、どうせなら最善の物を選びたいからだ。
この大量に並べられたスイーツの中から、最善の物を――。
「かず兄、まだ一つも選んでないの?」
そんな悩める俺の横から、奏音がひょこっと顔を覗かせる。
彼女の持つ白い皿には、既に色とりどりのスイーツが所狭しと並んでいた。
「いや、どれも美味しそうで……」
「そんなに悩まなくても好きなの片っ端から取ればいいじゃん」
まったくの正論なのだが、これには理由がある。
俺もそろそろ『片っ端から』スイーツを取って食べるのが難しい年頃になってきたからだ。
主に胃の消化の面で……。
とはいえこの場でそれを奏音に伝えると、自分の加齢をさらに実感してダメージを受けそうなので口には出さない。
俺は苦笑いをして誤魔化すのだった。
今俺たちがいるのは、とあるホテルの一角。
スイーツビュッフェの催しでやって来ていた。
ようやく俺が選んだのは、金粉が振りかけられたザッハトルテとイチゴクリームのショートケーキ。
どちらも美味そうだ。
足りなかったらまた後で取りに行けば良いし、ひとまずこの二つのケーキで決めよう。
既に着席していた奏音の前に座り、改めて彼女を見る。
いつもの服よりフォーマルな感じがするのは、この日を特別なものと認識しているからだろう。
髪も首筋が見えるほどアップにしていて可愛い。
そういえば朝の身支度もいつもより時間をかけていた。
気合いが入っていたのだなと、思い返して微笑ましくなる。
今日はバレンタイン。
奏音から「ちょっと付き合ってほしい」と誘いを受けてやって来た場所がここだったので、大層驚いてしまった。
去年のように普通にチョコを貰って終わるかと思っていた……というより『バレンタインに外でスイーツを食べる』という発想が1ミリもなかった俺にとって、まさにサプライズだった。
周囲の人の多さを見るに予約を取るのが大変だっただろうと推測できるが、それについて口に出すのは野暮というものだ。
とにかく今はここのスイーツに集中しよう。
「かず兄が選んだやつも美味しそう〜。私も後で食べよ」
フルーツがたっぷり乗ったタルトを既に頬張っていた奏音は、俺の皿を見やりながら目を輝かせる。
奏音の方が堪能している気がしないでもない。
──って、人の食べるところを見てないで俺も食べないと。
繊細な装飾が施された銀製のフォークでザッハトルテを一口大に切り分け、口に運ぶ。
濃厚なチョコレートが文字通り口の中で溶けて、一瞬で甘さが広がった。
だがしっとりとしたスポンジが程よく甘さを吸収してくれて、後味はしつこすぎない。
……これは……美味いな……。
気付いたらあっという間にザッハトルテは俺の皿からなくなっていた。
コーヒーを飲むと、これまた良い具合に口の中がほんのりと香る。
不意に奏音を見ると、バチリと目が合ってしまった。
「良かった。満足そうで」
「いや、これ本当に美味い」
「ふふっ。かず兄、本当に美味しい物を食べた時って無言になるからわかるよ」
「そうか……」
俺のそんなところを奏音が把握しているのがくすぐったくて、誤魔化すためにまたコーヒーを口に運んだ。
俺が彼女の告白を受け入れてから既に三年──。
色々と慣れてきたと思っていたが、こういうふうに胸が高鳴る瞬間が然訪れるから油断ならない。
「……あの、ついでだしこの機会に一つお願いがあるんだが」
「ん、何?」
「『かず兄』って言うの、何と言うか……そろそろ違う呼び方にしてもらえたらなぁと……」
前々から思っていたちょっと恥ずかしいお願いが口から出てきてしまったのは、甘い物を食べたせいかもしれない。
ただ、切実なお願いでもあった。
奏音はそんなつもりはないのかもしれないが、俺からしてみればそう呼ばれると未だに『いとこのお兄ちゃん』感が拭えないからだ。
奏音はしばし固まったのち、「あー」やら「うー」やらと小さな声で呻き始めてしまった。
今までずっと通してきた呼び方だから、悩むのも仕方がないか……。
「まぁ俺も今の呼び方が嫌ってわけじゃないし、無理にとは言わない。気が向いたらそのうち――」
「じゃ、じゃあこれからは『かずくん』で……」
今度は俺の方が固まる番だった。
先送りでも良いと思ったのに、いきなりぶっこまれてしまった。
彼女の声で紡がれたその単語は、俺の名前のはずなのに全然違う甘ったるい何かに聞こえて――。
奏音は耳まで真っ赤になって俯いている。
俺の顔も奏音と同じようになっているはずだ。
めちゃくちゃ熱い。
「わ、わかった……」
動揺を鎮めるため、俺はもう一つのいちごのケーキを大雑把に切り分けて口に入れる。
いちごの甘酸っぱさがこの状況とシンクロして、さらに気恥ずかしくなってしまったのだった。
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