第90話 広い部屋と決意と俺

 目覚ましを止め、ベッドから這い出た俺はあくびをしながら部屋から出る。


「おはよ――」


 そこまで言ってから、部屋には俺しかいないことを思い出した。

 当然のように返事はなく(あったら怖いのだが)耳に届くのは静寂のみ。

 誰もいないのに挨拶をして恥ずかしくなった俺は、苦笑と共に頬を掻いていた。






 奏音とひまりがそれぞれの家に帰ってからまず実感したのは、この部屋の広さだ。

 昼間は仕事なので利用せず、一人の人間が寝食をするだけの空間がこんなに無駄に広いとは――と改めて思い知らされた。

 それは弟が出ていった時も感じたことなのだが、今回はその時より一層強く実感している。


 さすがに引っ越しを検討しようか……。

 諸々の手続きやそれにかける時間と手間が面倒くさくて今まで考えないようにしてたけど、さすがに家賃が無駄のような気がしてきた。

 それに、そろそろ俺も――と考えかけたところで、テーブルに置いていたスマホが音を鳴らす。

 すぐに確認すると、奏音からのメッセージだった。


『おはよー! 起きてる?』


 元気な文面に思わず笑みがこぼれる。

 しかし、こんな朝っぱらからどうしたんだ。


『起きてる』


 と短い言葉で返信をすると、間髪入れず返事がきた。

 毎度思ってたんだけど、打つの早いんだよな。


『あのね、ひまりから連絡きた!』

『ちゃんと親と話したって!』

『かず兄にもひまりの連絡先教えるね』


「え……」


 ぽすぽすぽすっ、と怒涛の勢いで更新されていく文面に、俺は思わず声を洩らしてしまった。

 どうやらひまりは奏音の連絡先を聞いて帰っていたらしい。

 俺に聞かなかったのは遠慮があったからだろうか。


 続けて表示されたひまりの連絡先をただ眺めるだけの俺。

 どうすればいいのかわからない――というのが本音だ。

 奏音に一言お礼を送ってから、ひとまず今は保留する事にした。

 こんなに朝早くに連絡をしても、起きていない可能性が高いだろうし。






 朝食を食べ終えて洗濯を済まし、外に出る準備をする。

 と言っても財布とスマホを忘れていないか確認するだけだが。


 靴を履いていると、玄関に置いている芳香剤の爽やかな香りが鼻を刺激する。

 もうすっかり慣れてしまっていた匂いだが、二人がいなくなってから改めて意識するようになってしまった。

 俺が一人暮らしを続けていたら、絶対に自分では購入していなかった物のせいかもしれない。


 その爽やかな香り漂う玄関のドアを開けると、今日もジリジリとした日差しが降り注いでいた。






 休日とあって電車の中はそれなりに混雑していた。

 朝の通勤ラッシュの時とは比べものにならないけれど。

 通勤時によく見る『いつものメンツ』ではないせいか、慣れた路線なのに少し緊張してしまう。


 奏音とひまりと出かける時は二人が絶えず話しかけてくれていたので、良い意味でそこまで周囲を気にする余裕がなかったなと思い出した。


 スマホを取り出して画面に表示させたのは、とあるチラシの画像。

 以前友梨が見せてくれた、柔道教室のチラシだ。

 その時に交わした友梨とのやり取りが脳内でリフレインする。


『夢の続きは、大人になっても追いかけて良いものだと思ってるよ』


 その夢の続きを見るために、俺は今日こうやって移動している。


 数日前、俺はおもいきって電話をしてみた。

 当時先生だった人は今でも現役で、名前を告げると俺のことを覚えてくれていた。もう何年も前のことなのに。

 そして「一度会って話をしよう」ということになったのだ。


 もしかしたら断られるかもしれない。

 というかその可能性の方が高い。

 高校生以降は柔道の世界からずっと離れていたので、当然のことながら今の俺には指導員の資格なんてない。ただのおじさんだ。


 まあ、ダメだったらその時はその時だ。

 まずは一歩踏み出す勇気をひまりがその身をもって教えてくれて、友梨が背中を押してくれた。

 こうやって何か行動を起こせたことが、自分のことなのに今でも信じられないでいる。

 でも心の奥底で燻っていたモヤモヤしたものを今は感じない。

 むしろ晴れやかな気分だった。


 奏音が今朝送ってくれたひまりの連絡先をジッと見つめる。

 それはただの数字でしかなかったが、今の俺にとってそれはお守りのように感じられた。

 ダメでもそうでなくても、帰ってからひまりに連絡してみよう。


 そしてずっと保留にしていた友梨への返事を、彼女に伝えよう――。

 随分と待たせてしまって、彼女には本当に申し訳ないと思っている。

 だけどもう――決めた。



 決意を固めた俺は窓の外を見る。

 流れゆく景色は速度を緩め、目的地に着こうとしていた。

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