第89話 2度目のお別れと俺

 ざりざりと、奏音がトーストにマーガリンを塗る音がやけに大きく響く。

 今日のトーストは熱の加減を誤ったのか、端っこが少しだけ黒く焦げていた。

 その焦げを隠すように、いつもより多めにマーガリンを塗る奏音。

 当然、一緒に焼いた俺のトーストもちょっと焦げている。


「いただきます」


 言ってから齧ったトーストは、やっぱり少し苦かった。






 ひまりが帰ってから一週間が経った。

 当たり前だが俺と奏音だけの生活を送っていたのだが──。

 

 この一週間、奏音は俺が予想していたよりずっと元気がなかった。

 まず、口数が減った。

 思えばここに来てから、奏音のお喋り相手は7割くらいはひまりだった――気がするのでそれは当然だ。


 俺が仕事に行っている間、奏音はずっと一人なのもとても気がかりだった。

 奏音が言うには、いつも通り家事をやったり買い物をしたりしてるから心配しないで──とのことだが、やはり気になるものは気になる。


 そして表面上は笑顔だったけど、うわの空になっている時があからさまに増えた。

 家の中から人が一人いなくなること──。

 弟の光輝が出て行った時もそうだったが、その変化はやはり大きいものだった。


 寂しくても、心に穴が空いたようになってしまっても、それでも日々は続いていく。


 俺はこの一週間で嫌というほどそれを実感した。

 ならば、俺がこれからしないといけないことは――。


「今日の夜、何がたべたい?」


 俺の質問に、トーストを頬張る寸前だった奏音の手が止まった。


「え、どうしたの? 今日はかず兄が作ってくれるの?」

「それでもいいし、どこかに食べに行ってもいい」


 それまで虚ろだった奏音の瞳が輝くのを俺は見過ごさなかった。


「それじゃあね、今日はファミレスに行きたい!」

「わかった。俺が帰ってからすぐに家を出るからな」

「りょーかーい!」


 奏音の声に元気が戻ったのを感じて、俺は安堵する。


 俺が次にやらなければならないことは。

 奏音との残り僅かな暮らしを、大切に過ごすことだ。






「うわ〜悩む。ハンバーグの気分だったんだけどドリアも美味しそうだなぁ。あっ、こっちのステーキセットも良さげじゃん!? でもでも、ピザも食べたいから量が多すぎない方が良いし……」


 メニュー表のページをいったりきたりさせながらブツブツと呟く奏音。

 その様子につい口元が緩んでしまう。


「かず兄はもう決めた?」

「ああ。和食御膳にする」

「……渋いね」

「最近野菜も食べないといけないなって思い始めたんだよ」


 主に風呂上がりの鏡の前で。

 奏音が作る料理にもちゃんと野菜は取り入れられているのだが、こういう外食の時も意識するほどになってしまった。


 うーん……。磯部や他の社員の昼食時の様子を見ているとガッツリ系が多いので俺もつられてしまっていたが、案外こういうのが自分には合っていたのかもしれん。

 ……という考えも、奏音が来なかったら微塵も湧いてなかったんだろうな。


「ねね。デザートも頼んでいい?」

「別に問題ない。でも1つだけな」

「はーい」


 再びメニュー表に目を落とす奏音。

 傍から見ればなんてことのない、どこにでもありふれた風景。

 だけど今の俺にとっては、この時間さえ特別なものに感じるのだった。






 仕事に行って、帰ったら奏音がご飯を作って待っていて。

 たまに一緒に買い物に行って、家でだらだらと過ごして。


 そんなありきたりの毎日を送っていたら、あっという間に奏音が家に帰る日になってしまった。




 奏音は服を家に置きに帰っていたので、ひまりと違い荷物はずっと少ない。

『ちょっとそこまで出かけてくる』というような雰囲気だ。


 だけど、間違いなく今日は奏音が家に帰る日だ。

 準備を終えた奏音は靴を履き終えて、ゆっくりと俺に振り返る。


「私はここでも大丈夫だけど。今日も外暑そうだしさ。せっかくの休みの日に汗かきたくないでしょ」

「いや、大丈夫だ。駅まで送るよ」

「……うん」


 はにかむ奏音は心なしか嬉しそうだ。

 まったく……。

 いつもズケズケと俺に対して言っていたのに、ここにきてそんな気遣いしなくても良いってのに。





 駅へと向かう俺たち二人。

 休日だろうが平日だろうが、やっぱりこの時期の昼間は暑い。

 やっぱり家で涼んでいた方が良かったかなという考えが一瞬だけぎるが、すぐにそれは抜けるような青空の彼方へ放り投げた。


「ひまりはさ……」


 奏音が不意に出した名前に、俺の心臓が小さく跳ねる。

 彼女がいなくなってから、俺と奏音はあえてひまりのことを話さなかった。

 話題に出せなかった、と言った方が正しいかもしれない。

 楽しかった時間と寂しさが同時に襲ってくることがわかっていたから。


「帰る時、今の私みたいにドキドキしてたのかな」


 そう言って奏音は笑みを作るが、緊張のせいが少しだけ頬が引き攣っていた。


「奏音……」

「あはは……。さっきまでは全然フツーだったんだけどね。今頃緊張してきちゃった」


 仕方がないことだろう。

 奏音は『いつもの生活』をいきなり奪われてしまった側なのだから。


「大丈夫だ。ちゃんとこの間叔母さんと話をしただろう?」


 正直に言うと『大丈夫』の根拠はなかったのだが、今はただ信じるしかない。

 それにもし再びこんなことが起こってしまったら――その時もまた俺の所に来ればいい。

 ……ということを言ってしまったら本当になってしまいそうな気がしたので、あえて口には出さずにおいた。


「うん……。ありがとうかず兄」


 奏音が俺の深層を感じとったのかは不明だ。

 それでも、彼女の表情は既に柔らかくなっていた。


「駅、着いちゃった」

「ああ」


 元々家から駅まではそこまで遠いわけではない。

 けれど、あっという間に感じた。


 奏音は立ち止まり俺に振り返ると背筋をピシリと伸ばす。


「今までたくさんお世話になりました」


 そしてぺこりとお辞儀をした。

 改めて礼を言われると、とてもくすぐったくなる。


「いや、俺の方こそ世話になった」


「また遊びに行ってもいい?」

「もちろんだ」

「いとこだから?」


 その質問にどういう意図があるのか、暑さのせいか今の俺は瞬時に判断はできなかった。

 だから素直に答えることにする。


「それもある。けど、親戚かどうかは大きな問題じゃない。……奏音だから」


 俺の返答に奏音は満面の笑みになった。

 ……ちゃんと通じたようで良かった。

 さすがに今のをかみ砕いて説明するのは恥ずかしいから。


「それじゃあ、またね!」


 そして奏音は大きく手を振り、駅へと歩いていく。

 俺は奏音が見えなくなるまで、その背中をずっと見つめ続けていたのだった。

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