第87話 さよならとJK
その日はとても暑い日だった。
朝の情報番組が伝えてくる最低気温からしてもう暑い。
当然、家の中は既にエアコンがフル稼働中だ。
「服全部入れた?」
「大丈夫です!」
「昨日着ていた服は?」
「それも忘れてないです! 昨日お風呂に入る前にスーパーの袋に入れましたから」
そんな涼しい部屋の中、奏音とひまりが鞄の中をチェックしながらやり取りしている。
いよいよ今日、ひまりが家に帰る。
いざこの日を迎えてみたが、目の前で帰り支度をしているひまりを見ても、未だに俺はこれでお別れだと実感しきれていない。
それは俺がいつものように、仕事に行く準備をしているからだと思う。
そう。今日は平日。
俺はこれから会社に行き、いつも通りに仕事をする。
でもいつも通りに帰ってきても、ひまりはもういなくなっている。
ひまりは家を出て行く日を、ずっと前から決めていた。
なぜ俺の仕事がない土日じゃなくて平日だったのか、その理由を今さら聞いても無意味だろう。
ひまりがやって来たあの日も平日だった。
いつもの日常が変わったあの日。
それなら終わりの日もいつもと変わらないような日である方が、ひまりにとってそれが『特別』になるのかもしれないなとふと思った。
鏡の前でネクタイを締めるが、俺の目は眼前の自分ではなく、これまで三人で過ごしてきた光景を映していた。
短いような長いような、不思議な同居生活だった。
春から夏、一つの季節を過ごしたと思えば長いかもしれない。
でも1年の4分の1しか過ごしていないと思うと、割と短く感じる。
「駒村さん! そんなにのんびりしていたら遅れますよ!」
ひまりに声をかけられて、俺は自分がボーっとしていたことに気付いた。
慌てて鏡の前から離れ、仕事道具が入った鞄を取りに行く。
「怒られてやんの」
奏音がにやにやと俺を見る。
二人の態度が本当にいつも通りで、何も変わらなくて、逆に俺の方が少し焦燥感を駆られてしまうくらいだ。
「ひまりも、のんびりと準備していると帰るのが遅くなってしまうぞ」
「大丈夫です! 昨日の夜からシミュレーションはバッチリなので!」
「その自信満々さが逆に不安だ……」
俺の心配をよそに、二人は相変わらずキャッキャとふざけ合いながら準備を進めている。
そうこうしているうちに、俺が家を出る時間になってしまった。
「ひまり……」
それまでの騒がしさが嘘のように、二人ともピタリと口を閉じる。
「……はい」
「その……えっと……。元気でな」
これで最後だというのに、俺の口からは気の利いた言葉が出てこなかった。
これではあまりにも単純、ストレートすぎるだろう。
そうはわかっていても、やはり頭には別の言葉など一切浮かんでこない。
「はい」
そんな俺の心情を見透かしたかのように、ひまりはふわりと優しく微笑んだ。
「お仕事いってらっしゃい。駒村さん」
「あぁ。いってきます」
本来なら俺が見送る側なのに。
ひまりは奏音と共に、俺に向けて手をひらひらと振った。
「気を付けて帰るんだぞ。迷子にならないようにな」
せめて何か、もう少し――という足掻きから出てきた言葉も、やはりあまりにも普通なものだった。
「大丈夫ですって。私、ここに来た時とは違いますから!」
朗らかな笑顔を見せられては、俺は何も言い返すことなどできない。
名残り惜しい気持ちを押し込め、仕事に行くため俺はひまりに背を向けた。
玄関のドアを閉めた俺は、ふと空を見上げる。
今日も嫌になるほどの暑さを予感させる青空が、ビルとビルの隙間から覗いていた。
※ ※ ※
「本当に良かったの?」
和輝が出ていったドアをしばし眺めていたひまりに、奏音がそっと声をかける。
今のは「和輝と一緒に駅へ向かうとう選択肢もあったのに」という意図が含まれた言葉だった。
ひまりは手が止まっていることにようやく気付いたのか、慌てて帰り支度の続きを始めた。
「うん。その方が駒村さんも困らないと思うから」
「ひまり……」
「そもそも朝の通勤ラッシュに巻き込まれるのは嫌だし。私もう、痴漢に遭うのだけはまっぴらごめんだからね」
「あぁ~……」
ひまりがここに来た経緯を思い出した奏音は、思わず声を洩らしていた。
「それにね、やっぱり私、駒村さんに『いってらっしゃい』が言いたかった。最後の言葉をさよならにしたくなかったんだ」
自分のお金で購入した絵に関する道具を鞄の中へ詰めながら、ひまりは静かに続ける。
「そっか……」
「うん……」
「…………」
不意に訪れた沈黙。
和輝が消さずに出ていったテレビから、女性キャスターの明るい声が響き続ける。
「奏音ちゃん。私ね、駒村さんに告白しちゃった」
ひまりの唐突なカミングアウトに、さすがの奏音も目を丸くせずにはいられなかった。
「い、いつ?」
「この前の花火の時」
「あぁ……」
「返事は聞いてない。言わないでってお願いしたから。でもね、駒村さんの表情だけでわかっちゃった。やっぱり私、今は全然相手にされてない……」
ひまりの声が少しずつ震えていき、目の縁にじわりと涙が溜まってくる。
奏音はそんなひまりを、ただ黙って見守ることしかできなかった。
「ごめんね奏音ちゃん」
「何で謝るの」
「だって私、奏音ちゃんの気持ちを知っているのに、こんなことを言って――」
「かず兄に告白するって、前に教えてくれたじゃん。別に抜け駆けでもないし、今さらそこは気にしないでよ」
「うん……。ありがとう……」
奏音がティッシュを渡すと、ひまりは溜まっていた涙を静かに拭いた。
「私は……かず兄に告白したひまりのこと、本当に凄いって思ってる。私にはそんな勇気なんてないから」
「奏音ちゃん……」
「はぁ~~。ちょっとかず兄に対して腹立ってきた」
「い、いきなりどうしたの?」
「だって、こぉぉんな可愛い女子高生二人から想われてるんだよ。それなのにあの男ったらさぁ。全っ然隙を見せないんだもん。腹も立ってくるってなもんでしょ!」
拳を握り立ち上がった奏音をポカンと見つめていたひまりだったが、ほどなくしてクスクスと笑いだした。
「えっ、何で笑うの」
「だって、奏音ちゃんがあまりにも自信満々に言うもんだから……。ふふっ、でもありがとう。おかげでちょっと元気出ました」
「そ、そう? それならまぁ、良かったけど」
「うん。今日は落ち込んでいる場合じゃないもんね。私、頑張ってくる」
「……応援してるよ」
親と向き合うこと。
奏音も怖かったけれど、ひまりはそれ以上に怖いに違いない。
ひまりはたった一人で帰らなければならないのだから。
「ところで荷物は入れ終わった?」
「はい。今ので全部入れ終わりました」
「だったらさ、家を出る時間になるまで一緒にクッキー作ろ?」
「クッキー、ですか?」
奏音の提案にひまりは目を丸くする。
帰る直前にそんなことを言われるとは思ってもいなかったからだ。
「うん。実は昨日の買い物で材料買ってきてたんだよね。今のモヤモヤとか不安な気持ちとか、全部まとめて弾力のある生地にぶつけちゃえ!」
「それ、とっても良さそう!」
「でしょ? じゃあ早速始めよ!」
こうして二人はクッキー作りに取り掛かる。
あと数刻もしないうちにお別れになるなんて、知らない人が見たら信じられないような明るいテンションで。
※ ※ ※
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