第83話 退職とJK
※ ※ ※
「いってらっしゃいませ……にゃん!」
外に出ていく客に向けて、ひまりは目一杯頭を下げる。
──終わった。
同時に寂しさが一気に押し寄せた。
今日がひまりの最後のバイトの日だ。
以前から決めていたこととはいえ、やはりとても寂しい。
それは仕事内容もさる事ながら、人に恵まれていたという事が何よりも大きかった。
働くこと自体が初めてだったひまりに、丁寧に仕事を教えてくれた先輩たち。
他愛もない会話からそれぞれの人生を垣間見ることができて、それだけでもひまりにとっては新鮮で勉強にもなった。
そして、初めて自分のことを好きだと言ってくれた高塔──。
ここが初めてのバイト先で本当に良かったと、心から思う。
「ひまりちゃん、お疲れ様!」
声をかけられて振り返ると、メイド仲間たちが揃って並んでいた。
今日はシフトに入ってないはずの先輩もいる。
「はいこれ。今までありがとうね」
そう言って渡されたのは、小さな花束と何かが入った包み紙。
ひまりは驚きのあまり、目を丸くすることしかできない。
「引っ越しても元気でね」
「いつでも遊びにおいでよ」
「夢に向けて頑張ってね!」
絵を描くことと、自分用の道具を揃えるためにお金を貯めていることは以前少しだけ言ったことがある。
でも、それを今日まで覚えてくれているとは思っていなかった。
ひまりの胸に、熱いものがこみ上げてくる。
「ありがとうございます……。また必ず遊びに来ますから!」
潤んだ目で礼を告げるひまりを、皆が温かい目で見つめていた。
更衣室に戻るために厨房を通る。
そこではいつものように、高塔がコンロの隣の作業台で仕込みをしていた。
「……元気でね」
シンプルな言葉だけ。
でも、ひまりのことをとても気遣ってくれているのは容易に察することができた。
「……はい。ありがとうございました」
嘘偽りのない、ひまりの心からの感謝の言葉だった。
彼の想いに応えることはできなかった。
けれど、これから先ずっと彼のことは忘れないだろう。
彼からの決死の告白を断ったのに、その後も変わらぬ態度で接してくれた。
ひまりは、それは本当に凄いことだと思っている。
だって、自分は駒村に対してただ幸せを願うだけ――なんてことができそうにないから。
先日、奏音に「告白をする」と宣言してしまった。
ダメだとわかっていても、ひまりには高塔のようにはできない。
『……好きだからだよ』
高塔の言葉がまた頭の中を
ひまりはペコリと頭を下げ、通り慣れた厨房を後にした。
更衣室に戻ると、店長の
「ひまりちゃん、お疲れ様!」
「店長……」
その姿を見ただけで、ひまりの目に涙がせり上がってきた。
中臣はひまりの前に立つと、優しい笑みを浮かべた。
「はい、これ。最後の給料よ。ひまりちゃんはずっと手渡しだったからね」
既に見慣れた茶色の封筒を受け取る。
小銭も入っているのもあるだろうが、これまで受け取ってきた時よりずっしりとした重みを感じた。
「ありがとうございます。私、ここでアルバイトができて本当に良かった……です……」
ついに我慢できなくて、涙が頬を伝ってしまった。
「こちらこそありがとう。この店にひまりちゃんが良い風を運んでくれていたのは間違いないわ。お客さんもそして従業員の子達も、ひまりちゃんが来てから笑顔が増えたもの」
そんなふうに言われると、さらに目の奥が熱くなってしまう。
「また遊びに来てね。いつでも待ってるわ」
「……はい!」
手の甲で涙を拭いながら、ひまりは笑顔を作ったのだった。
※ ※ ※
仕事から帰ってきた俺は、思わず目を丸くしてしまった。
「あ、おかえりかず兄」
いつものように、エプロンを付けて夕食の準備をしている奏音。
だがいつもと違うのは、テーブルに置かれている皿と料理の数だ。
この家にある数少ない大皿には、色とりどりの具材が載ったパエリアがぎっしりと詰まっていて。
その横には良い赤身具合のローストビーフと、いかにもカリカリしてそうなフライドチキンが置かれていた。
サーモンが載せられたサラダには、ミニトマトやチーズも添えられている。
そして今、奏音がカナッペにスプーンで具材を載せ終わったところだった。
「これは……凄いな……」
「でしょでしょ? 昼過ぎから準備してたんだよ。めっちゃ気合い入れて頑張った。なにせ今日は――」
「そうか。ひまりの……」
そのタイミングで、玄関のドアがガチャリと音を立てた。
「お。ひまりもおかえり」
「おかえりー! 良かった。ジャストタイミング!」
「ただいまです……って、何ですかこの豪華な料理はーーーー!?」
俺もさっき、こんな顔をしていたんだろうな……。
他人が驚く顔を見るのはなかなか面白い。
「何って、『ひまりのバイトお疲れ様会』だよ」
「奏音ちゃん……」
ひまりの瞳が揺れる。
奏音流のひまりへの労いは、食べる前から効果覿面のようだった。
「さぁ、二人とも手を洗って。今日はお風呂の前に早く食べて欲しいな」
「はい!」
「わかった」
俺とひまりは揃って洗面所に向かう。
「ひまりがば『バイトを始める』と言った時はどうなることかと思ったが、こうやって無事に終えることができて本当に良かった」
「はい。私のワガママを聞いてくださってありがとうございました」
「それで、どうだった?」
ひまりは一瞬だけ憂いを帯びた表情になったが、すぐに目元を緩ませた。
「家に帰る前に働けて良かった。本当に……心からそう思ってます」
「……そうか」
穏やかに微笑むひまり。
俺もつられて口の端を上げるのだった。
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