第80話 アイスクリームとJK

 俺が玄関の鍵を開けると、奏音が脇をすり抜けて素早く中に入った。

 まるで猫だ。


「はぁぁぁただいま~~。お腹いっぱいだし疲れたぁぁぁ」


 そして靴を脱ぎつつ、特大のため息を吐く。


 予想通り、家の中はむわっとした空気が充満していた。

 奏音はすぐにリビングに行き、エアコンのスイッチを入れる。


 俺はひまりのお土産として買ってきたカップのアイスクリームを冷凍庫に入れるついでに、冷えた麦茶を取り出した。


「ほら、奏音も飲め」

「はーい」


 俺が子供の頃と比べると、夏は水分補給をしっかりしようという文言をいたる所で見かけるようになった。良い事だと思う。


 こくこくと喉を鳴らしながら麦茶を飲む奏音。

 暑い日に人が一気飲みする姿を見ると、特別に美味しそうに感じるのは俺だけだろうか。

 俺の視線に気付いた奏音が怪訝そうに眉を寄せた。


「どしたの? あ……。もしかして関節キスしたいとか? もぅ仕方ないなぁ」


 とニヤニヤしながらコップを突き出してくる奏音。


「そんなこと考えてるわけないだろ!」

「あははっ! そんなにムキにならないでよ。冗談だってば」


 奏音は朗らかに笑ってから流し台にコップを置く。

 昂りかけた気持ちを抑える意味も含め、俺も麦茶を口にした。

 焼き肉ランチでもたれかけた胃の中が、ちょっとだけ浄化された気分になる。あくまで気分だけ。


「まったく……。からかうなよ……」

「ごめんってば」


 ただでさえ、こっちはそういうことを意識しないようにしているのに……。

 奏音の言う通り本当にただの冗談なのか、表情を見ても俺は全然読み取れない。

『あの日』言われた言葉も、結局未だに真意はわからず仕舞いだ。


「かず兄」


 ほんのわずか考えている間に、打って変わってやや真面目なトーンで呼ばれた。


「なんだ?」

「ええと……その……ありがと」


 先ほどとは打って変わって、その声は部屋の暑さで溶けてしまいそうなほど小さかった。

 でも、俺の耳には確かに届いた。


 奏音がこの家に来てから、ずっと気掛かりだったこと。

 それが今日解決したんだなと、改めて自分も実感する。


「…………頑張ったな」


 俺は奏音の頭に手を置き、ポンポンと軽く撫でる。

 心からそう思った。


 あの時隣でただ座っていただけの俺も、ずっと緊張していた。

 奏音の心境はいかばかりだっただろう。

 きっと――――怖かったに違いない。


 奏音は「えへへ。頑張りました」と恥ずかしそうにはにかんでから、軽い足取りでリビングに向かう。

 初日に俺に対して警戒していた姿からこうなるなんて、あの時は予想すらつかなかったな――とつい思ってしまったのだった。






「ただいまですー……」


 ひまりが帰ってきたのは、奏音が晩ご飯の仕込みをしている最中だった。

 いつもは朝に出ていくと夕方には帰ってくるんだが、珍しく残業でもしたのだろう。

 声も表情もすっかり疲れ切っている。


「おかえり。今日は随分とお疲れみたいだな。忙しかった?」

「あ――――はい……」


 今の微妙な間は何だろう……。

 疲れと暑さでボーっとしていたのか?


「ひまり、アイス買ってきてあるよ。食べなよ!」


 奏音が元気よくひまりに声をかけると、ようやくひまりも笑顔になった。

 ひまりが手を洗っている間に、奏音は冷凍庫からアイスを取り出してスプーンも用意する。


「ご飯前だけど……良いよね? かず兄」

「まぁ、今日は特別だ」


 奏音が選んだアイスだからだろうか。ひまりに早く食べてほしいみたいだ。

 ひまりは手際良く用意されたアイスと、なぜかテンションの高い奏音を交互に見比べながら蓋を開けた。


「美味しい?」

「まだ食べてないだろ」


 という奏音の小ボケと俺の上手くもなんともないツッコミを見て、ひまりは笑いの吐息を洩らしてからようやくアイスを口にする。


「………………」


 スプーンを咥えたまま、なぜか固まってしまうひまり。


「どうした?」

「……何でもないです」


 そう言うひまりの目から、静かに涙がこぼれ落ちる。


「――――!?」


 俺と奏音は思わず顔を見合わせる。

 絶対に何かあっただろ――。


 喉まで出かかったその言葉を、しかし俺は飲み込んでしまった。

 そしておそらく、奏音も。


 どうしてなのか自分でもよくわからない。

 ひまりの表情から、悲しみなどの負の感情が見えなかったからもしれない。


「アイスクリームが、とっても美味しくて」


 涙を手の甲で拭うひまり。

 俺は咄嗟に、ひまりが母親について喋った時のことを思い出した。


「うん。とっても美味しい。やっぱり好き」


 もう一度呟いたひまりの表情は、満面の笑顔だった。

 目の端に涙は残っているのに、それを感じさせないほど朗らかな笑顔。


 ひまりに何かはあったのだろう。

 バイト先でのことなのか、それともそれ以外の場所でのことなのか――。


 いずれにしても、本人が俺たちに話すつもりがないのなら、無理やり聞くのは何か違うと思った。


「ひまり――」

「駒村さんも奏音ちゃんもアイスありがとう。それで奏音ちゃん、いきなりだけど明日ついてきてもらいたい所があるんだけど、良いかな?」


 もどかしそうに奏音が名前を呼ぶが、それと重なるようにひまりが口を開いた。


「え……? うん。別に予定ないし大丈夫だよ」

「良かった。じゃあお願いね」


 もう一度にっこりと笑ったひまりは、何かが吹っ切れたような顔をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る