第79話 会話とJK
美実の指示通り、ひまりはホールの端で着替え始める。
目を向けなくても、視界の端に鏡に映った自分がチラチラとするので少し落ち着かない。
予想する間でもなく、ここの主な目的はダンスの練習なのだろう。
そういえば夕方からの使用者の欄には『〇〇フラメンコ部』と書かれていたのをひまりは思い出した。
道着を身に着けるのは久々だ。でも、手順を確認しなくても体が覚えていた。
幼い頃から体に染みついた習慣というものは、そう簡単には消えないらしい。
(剣道をやめていた時間よりも、続けてきた時間の方がずっと多いんだよな……)
ひまりは着替えながらそんなことを思った。
道着に着替え終えたひまりは、正座を続ける美実の正面に少し離れて座った。
二人共に、防具はまだ身に着けていない。
針の落ちる音さえ聞こえてきそうな静寂。
緊張感にひまりは息が詰まりそうになる。
それでも意を決して口を開く。
「あの……終わりました」
ひまりの呼びかけに、美実は静かに口を開いた。
「まずは……来てくれて、ありがとう桜花」
「それは――約束しましたから」
「でも……このまま逃げることもできた……」
「…………」
それは、ひまりもまったく考えなかったわけではない。
『このまま約束の場所に行かなかったら』というのは、やはり可能性の一つとして考えた。
でも、その考えはすぐに自分で打ち消した。
美実がなぜここに呼び出したのか――その理由が知りたかったのもあるし、何より自分のことを捜しに来てくれた美実に、これ以上心配させたくなかったのだ。
「私は……会話が苦手」
「……はい」
よく知っている。
美実が饒舌に話をしているところなんて、一度も見たことがない。
「でも、剣道なら得意……。だから、剣道でなら……全部受け止められる」
――そういうことか。
ようやく合点が付いた。
この場所をわざわざ借りたのは、『話し合い』という名の剣道をするため。
そしてひまりに馴染みのない場所にしたのは、地元に帰って来ても両親に見つかってしまう可能性を低くするため。
不器用な美実らしいやり方に、口の端が小さく上がる。
なんにせよ、美実はひまりのことを考えてくれていたということだ。
美実は
ひまりも少し遅れてそれに
面をかぶった時の、頭部を圧迫するこの感覚も懐かしい。
二人とも竹刀を手に取り、互いに距離を開ける。
面を付けたことにより、この距離では美実の表情がほぼ判別できなくなった。
今目の前にいるのは『対戦相手』。
これまでの経験により、ひまりの脳が自然とそう識別する。
「……桜花」
竹刀を両手で握った美実が静かに呼びかける。
二人きりのホールに、張り詰めた緊張感が漂う。
否が応でも速くなっていく鼓動とは反比例して、なぜか心は落ち着いていく。
「私は、全部聞く。全部受け止める。だから――」
美実はそこで小さく深呼吸をして、息を整えてから続けた。
「すべてを、出して。聞かせて」
(……すべてを)
そう言われて、頭だけでなく、体全体がスッと冷めていくような感覚を覚える。
ひまりはゆっくりと息を吐き、呼吸を整える。
頭で考えるのはやめよう。
ただ、自分の感覚のままに。
今までの剣道の試合でそうしてきたように――。
軽く頭を下げて一礼する。
竹刀を構えた次の瞬間、腹の底から燃え上がるような衝動がせり上がってきた。
「――私はっ!」
ひまりは竹刀を振り上げたまま素早く美実に接近する。
試合開始の合図もなく突然始まったひまりの攻撃に、しかし美実は全く動揺せず、咎めることもしない。
これは『試合』ではなく『会話』なのだから。
「自由になりたかった!」
ひまりの竹刀を美実の竹刀が受け止める。
バチンッ、と小気味よい音が響いた。
竹刀を払われたひまりは、一度離脱してから再び構え直す。
「もう縛られたくなかった!」
胴を狙った素早い打ち下ろし。
しかし寸でのところで、これも美実の竹刀が弾いた。
「私が大事にしていた物を捨てられて悲しかった! ほんとにほんとに悲しかった!」
言葉を吐き出すたびに、その時の感情も思い出して涙が溢れてくる。
視界が滲み、目の前に立つ美実の姿も揺らぐ。
でも、涙は拭えない。
突如、手の甲に鋭い衝撃が走った。
美実が小手を打ってきたのだ。
「……終わり?」
ふるふるとひまりは首を横に振る。
再び竹刀を構え直し、大きく振り上げる。
「みんなと普通に遊びたかった!」
咆哮と共に放った面が、綺麗に決まった。
「……うん」
何に対しての頷きなのか、ひまりにはわからない。
でも、それで良かった。
心の中の『何か』が、少し軽くなるのを感じた。
その後もひまりは、足も手も、言葉も止めなかった。
決壊したダムのように、次々と溢れてくる言葉。
綺麗な姿勢、綺麗な太刀筋ではなかった。
まるで初心者のような、荒々しい打ち込み。
それでも美実は何も言わなかった。
ひまりもずっと竹刀を振り続けた。
濁流のように溢れてくる感情を、言葉を、激しく、ひたすら出し続けた。
ひまりは床にぺたんと座った状態で、激しく肩を上下させていた。
手に力が入らない。意思とは関係なく、指が震えている。
もうしばらく竹刀は握れないだろう。
汗も涙も出しつくしたのではないかと思うほど、ひまりの体はカラカラになっていた。
でも、それが妙に心地良いと感じる。
美実がひまりにペットボトルのスポーツドリンクを差し出す。
公民館の外にある自販機で買ってきてくれたらしい。
ぺこりと小さく頭を下げてから、ひまりは力の入らない手で何とか受け取った。
頬にペットボトルを当て、しばらくひんやりとした感触を堪能する。
「……私、ここまで自分の心と正直に向き合ったの、初めてかもしれません」
文字通り全部出し切った後とあって、ひまりの心は随分と軽くなっていた。
「桜花は……溜め込みすぎだったんだと思う……。色々と……」
「はい……」
返す言葉もない。
だから両親に対する初めての反抗が、家出というとても大きなものになってしまった。
ペットボトルの蓋を開け、一気に半分ほど飲み干す。
喉が冷却されていく感覚が気持ち良い。
「それで……今後のことは決めた?」
「…………はい」
それに関しては、当初の予定と変わりなかった。
「前に言った通り、来月の半ばには帰ります」
「…………そうか。それで、大丈夫……?」
「正直に言うと、わかりません……」
両親に対する感情は複雑だ。
嫌いではない。
かといって好きでもない。
だから先ほどのように、正直な気持ちを両親に伝えられる自信はない。
それでも一度ちゃんと向き合わなければならないと、改めて決心できた。
「美実さん」
ひまりは名前を呼んだ後、ペコリと頭を下げる。
「ありがとうございました」
「…………うん」
今日気持ちを発散させていなければ、このまま両親に会ってもまた感情的になってしまっていた可能性が高い。
これまでの不満を包み隠さず言語化できたことは、ひまりにとってとても大きかった。
美実はひまりの頭に優しく手を置く。
言葉はなかったが、美実の雰囲気は優しい。
ひまりは美実の手の感触を実感して、自然と口の端が上がった。
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