第76話 対話とJK

 叔母さんが買って来たのは、ペットボトルの水2本と麦茶2本。どちらも2Lで重そうだった。

 水は2本とも、麦茶は1本だけ冷蔵庫に入れた後、ガラスのグラスに麦茶を注いで俺たちの前に置く。


 8畳の和室は前回来た時には足を踏み入れていないので、俺は少し緊張していた。

 この和室は二人の本当の意味での『生活空間』だと思うので、男の俺が容易に入ってしまうのは申し訳ないなと感じていたからだ。


 大きな押し入れの前には、先ほど俺たちが置いた奏音の服が入った鞄がそのまま放置されている。

 テレビの他には折り畳み式の小さなテーブルと、奏音の私物らしき鞄や化粧品類が端の方に置かれているだけ。


 衣類含めて、他の生活用品などはこの大きな押し入れの中にほとんど入っているのだろう。


 俺と奏音と叔母さんは、小さなテーブルを挟んで向かい合う。

 正座で座ろうかと思ったが、後で足が痺れそうなので最初から胡座をかかせてもらうことにした。


 ひとまず俺は、出してもらった麦茶を手に取る。


 コンビニから外の熱気を経由してきたせいか、とても冷たいわけではない。

 とはいえ、ぬるいというほどでもない。

 口の中が冷えすぎないので、一気に半分以上飲んでしまった。

 自分で思っていたより喉が渇いていたらしい。


 奏音も俺につられたのか、同じく麦茶を半分ほど飲んだ。

 コトリ、とグラスをテーブルに置く音を響かせた後、奏音はいよいよ叔母さんを真正面から見据える。


「えっと、さ…………」


 先に切り出したのは奏音。

 しばし沈黙してから――


「今までどこにいたの?」


 その一言を発した瞬間、部屋の空気が変わった。

 痛くて、少しひりついたものへと。


「ん~~~~…………。色々」


 叔母さんは視線を宙に投げながら答える。

 今まで居た場所を思い出しているように見えた。


 人は嘘をつく時は想像力を働かせる右脳が活発になるので、視線を右上にやるらしい。

 でも今の叔母さんの視線は、ほとんど左上だった。

 つまり『色々』というのは嘘ではないのだろう。


 奏音もそれは感じ取ったのか、それ以上踏み込んで聞く様子はない。


「じゃあ、どうしていきなり家を出て行ったの?」

「それも色々……かな」


 奏音の眉が少し内に寄った。

 さすがにそこは、もう少しきちんと答えて欲しいと俺も思う。


 俺たちの考えを汲み取ったのかどうかはわからないが、叔母さんの表情が少し曇った。


「『ちょっと疲れた』って送ってきたじゃん。それは――私に疲れたってこと?」

「それは違うよ。だって奏音には疲れる要素なんて全然ないじゃん。文句の一つも言わないしさ。でも確かにあれは言葉足らずだったね……。ごめん」


「じゃあ、どういう――?」

「奏音を産んでからさ……ずっと働いてきたんだ。昼も、夜も」

「……うん」


「本当に、休みなく。ずっと働いてきて――。奏音の学校行事がある度に、見に行くことができない自分が嫌になってた」

「でも、それは――」


「仕方がなかった。わかってるよ。それでもやっぱり、我慢させちゃってる罪悪感は消えなくて。何より、そうやって奏音に『仕方がない』と思わせてしまってることが、辛かった」

「お母さん……」


 奏音の瞳が少し揺れる。

 叔母さんはさらに続けた。


「それで最近さ、今の職場の若い子から旅行のお土産を貰ったんだよね。私が奏音を産んだ時と同じくらいの年齢の子にさ。

 私は旅行に行ったことがない。行く余裕なんてなかった。むしろ旅行に行くのを、考えたことすらなかったことにそこで気付いてさ……」


 生活するのに精一杯で、『普通の家庭』がやっているような娯楽のことを考える暇もなかったのだろう。

 それは、このスッキリしすぎた畳の部屋を見るだけで何となく察しが付く。


「そしたら急に……何か、糸が切れちゃったんだ。突然、プツンと。これまでの全て――自分が我慢してきたこと、奏音に我慢させてきちゃったこと。そういうの全てを、一度全部まっさらに忘れたくなってしまって――」

「……それで、家を出たの?」


 叔母さんは無言で頷き、奏音の言葉を肯定した。


 生活するために働く。

 それは当たり前のことで。当たり前すぎるほどに当たり前で。


 自分が働き始めてから嫌でも実感した。

 一人でただ暮らしていくだけでも、お金は結構かかってしまうことを。


 俺が今奏音とひまりを家に置いておけるのは、これまで自分にかけるお金があまりなくて、コツコツと貯金をしてきたからだ。

 そして二人が既に高校生という、ある程度自立している人間であったからこそ。


 これが赤ちゃんや幼児だったら、とてもではないが俺一人ではどうにもならなかっただろう。


 でも、叔母さんはずっと奏音を一人で育ててきた。


 俺の母親や叔母さんの実家――俺から見ての祖父や祖母――にも頼っている様子はなかった。

 その辺の事情は詳しくは知らないが、もしかしたら未婚のまま子供を産んでしまった後ろめたさのようなものがあって、実家には頼れなかったのかもしれない。

 そして、叔母さんの心はついに限界を迎えてしまった――ということか。


 それでも……やっぱりそれは――もう少し別の方法がなかったのだろうか、どうにかすることはできなかったのだろうか、と思ってしまうのは俺が当事者ではないからだろうか。


「それで……忘れられた?」


 奏音の問いに、叔母さんは自嘲気味に笑ってから首を横に振った。

 

「無理だった。どこに行っても何をしても誰といても、忘れられなかった。奏音の顔がすぐ思い浮かんできた」


 叔母さんの目にじわりと膜が張っていく。


「………………そっか」


「ごめん……。奏音。勝手なことをして、本当にごめんね……」


 叔母さんは下を向き、静かに涙を流す。

 奏音も目に涙を溜めたまま、しばし叔母さんを見つめていた。

 そこに怒りの感情はうかがえない。


 確かに生活は大変だったのだろうと思う。

 それでも奏音が叔母さんに対して不満を漏らしていなかったのは、大変ながらもその日々の生活が楽しかったからではないだろうか。


『勝手に家を出てったことに対しては怒ってるけどさ……私、どうしても憎めないんだ……。だって豪華なプリンを買ってきて、私よりはしゃいでたような人だよ?』


 前に奏音が言っていたことを思い出す。

 その言葉を聞いた時、叔母さんは何でもない日常を明るく過ごしていたのだろうと容易に想像がついた。


 もしかしたら、それは奏音に気を遣ってそう振舞っていた可能性もあるけれど。

 それでも奏音にとって叔母さんは『無邪気で憎めない性格』だった。


 静かな部屋にしばらく嗚咽が響く。

 俺たちは叔母さんが落ち着くまでただ待ち続けた。






 5分か10分か――詳しい時間はわからないが、大体それくらい経過した頃。

 だいぶ落ち着きを取り戻し、ティッシュで鼻をかむ叔母さんは、ポツポツと言葉を零し始める。


「すぐに帰ることができなかったのは、ちょっと事情があって……。思い込みが激しいお客さんに異常に気に入られちゃってさ。もうほとんどストーカーっぽいというか……。それで何とか適当に撒いて逃げたんだけど、ほとぼりが冷めるまでは帰るのやめた方が良いなって」


 俺と奏音はそこで顔を見合わせる。


「それって、まさか……」

「その人物に心当たりがあるな」


「え? どういうこと? あの人まさか、奏音の所に行ってたとか!?」

「そのまさかだと思う」

「………………」


 家に乗り込んできた村雲について俺が説明をすると、叔母さんは目を見開いたまましばらく絶句していた。

 この反応を見るに、どうやら村雲と叔母さんの間で、二人の関係に対する認識の齟齬があったらしいことは明白だ。


 しかしそうとわかっていたなら、あのまま警察に連れて行っていた方が良かったのかも……って、だから警察は俺もヤバいからやめたんだった。


「まさか、和輝君の所までいきなり乗り込んで行くなんて……」

「って、お母さん。それだったらすぐに鍵変えなきゃ! あいつここに入って来てるよ!」

「――――っ!?」


 泣いたせいで少し赤かった叔母さんの顔が、一瞬で蒼白になった。


 俺も『叔母さんが見つかったら連絡する』と村雲の連絡先を聞いているが、このまま闇に葬りたくなってきた。

 とにかく、俺の方からあいつに連絡をすることは今後一切ないだろう。


「鍵をすぐ変えるのは確定として――。仮に村雲がまたここに来たら、一切対応をせずに警察を呼ぶのが良いと思います」

「うん……。そうするね。ありがとう和輝君」


 礼を告げる叔母さんの顔は、家に入った時より少しやつれて見えたのだった。

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