第74話 帰宅とJK

 7月も下旬に入った、ある日の夕方。


「あ、ひまり。次の日曜日はバイト休み?」


 奏音がひまりに尋ねたのは、炒めていた青椒肉絲チンジャオロースをフライパンから皿に移した時だった。


 既にキッチンには青椒肉絲の良い匂いが充満している。

 俺は風呂から出てきたばかりなのだが、体に青椒肉絲の匂いが染みついてしまいそうだ。


「えっ?」


 突然でビックリしたのか、茶碗を並べる手伝いをしていたひまりは、小さく声を上げて固まってしまった。


「春服を置きに家に帰るんだけどさ。バイトがなかったらひまりも一緒にどうかなって」

「あぁ……えっと、来週の日曜日は確か、あの――」


「ん、バイトあるの?」

「は、はい。確かそうだったと……」


「そっか。それなら仕方ないね」

「奏音ちゃんのおうち、行ってみたかったけど……ごめんね」

「ううん。そんな大した家じゃないしさ。むしろしょぼいし。また別の機会にね」


 奏音はキッチンペーパーでフライパンを拭き取ってから、流し台に置く。

 俺は水分補給のため冷蔵庫を開けながら、今のひまりの返事に違和感を抱いていた。


 今までひまりは、自分のバイトがある日を正確に把握していた。

 だから奏音や俺が予定を聞いても、すぐにハッキリとした返事をしていたのだ。

 しかし今のひまりの返事は、やけに曖昧というか……自信がないものだった。


 とはいえ、だから何だというわけでもない。

 ひまりだって、たまには忘れることもあるだろう。


「あ、かず兄。ついでにかにかま取って」

「わかった」


 要望通り、冷蔵庫からかにかまを取り出して奏音に渡す。


「それは何だ?」

「冷製中華スープ」

「へえ……」


 冷たい中華スープか。見るのも食べるのも初めてだ。

 鶏ガラスープの素を湯と氷で混ぜ、その中にレタスとさっき渡したかにかま、そしてコーンを入れてあっという間に完成してしまった。


 奏音がこうして俺の知らない食べ物を作ってくれると、毎回新鮮に思うしちょっと楽しい。

 自分の人生の経験値が、少し上昇した気分になるから。






 奏音と約束していた日曜日がやって来た。


 ひまりは俺たちより先に家を出た。

 いつもより出る時間が早かったが、今日はそういうシフトだったのだろう。


 部屋の電気とエアコンの電源を切る。

 帰ってきたら灼熱地獄になっていそうだが、電気代は無駄にはできない。

 二人が来てから、ただでさえ電気代が上がっているのだ。


「よし。じゃあかず兄、これ持って」


 俺の前にボストンバッグとスーパーの袋を二つ置く奏音。

 スーパーの袋の中には、長袖の服がギュッと詰められている。

 ボストンバッグの中にも結構ぎっしり入っていそうだ。


「量多いな……」

「ここに来てから買った服もあるし。あとパジャマが割とかさばってるのが原因かも」


 ボストンバッグを肩にかけ、もう片方の手でスーパーの袋を持つ。

 まぁ、見た目ほど重さはそこまででもないから良いか。

 もう一つのスーパーの袋は奏音が持った。


「よし、行くか」

「はーい」


 こうして俺たちは、奏音の家に向けて出発したのだった。






 奏音の地元の駅に着いた。

 この駅で降りる人、今日は前回よりも少し人が多かった気がする。

 夏休みに入ったからだろうか。


 前の時と同じように奏音の先導で向かう。

 夕方だった前回と違い今日はまだ明るいので、見える景色の印象がちょっと違う。

 小さな坂道が多く細い道が多いので、俺の家周辺より落ち着いた雰囲気に感じる。


「ねえかず兄。お昼ご飯はどうする?」

「昼飯か。そういえば考えてなかったな」


 正直、服を置きに行くだけなので時間はかからない。

 帰りに買い物をしようか――とぼんやりと考えていただけだった。


 でも奏音のこの眼差し……。

 これは十中八九、外食を期待しているな。


「この辺でおすすめの店とかあるか?」

「ん、この辺のお店? えぇと、知らないかも。見た通り、この辺てそういう店がまず少ないし」

「確かに……」


 閑静な住宅街、としか表現しようがない場所だもんな。

 たまに見かける店も、小さめのスーパーかコンビニくらいだ。

 駅前にあるのも、チェーン店の喫茶店やラーメン店だし……。


「じゃあ帰りにA駅で降りてみるか。あそこなら駅前に飲食店が多そうだし」

「了解ー」


 昼の予定を軽く決めてから、俺たちはしばらく無言で歩く。

 そして見覚えのある、白いアパートに到着した。


 早速ポストの中身をチェックする奏音。

 やはりほとんどがポスティングのチラシだ。


「ちょっと待ってね。今鍵を出すから」


 鞄の中をゴソゴソと漁る奏音。

 中身が多いのか、見つけるのに苦戦している。


「あれ? どこいったんだろ」

「おいおい。まさか鍵を忘れて来たとか言わないでくれよ」

「それはないって。だってずっと鞄の中に入れてたもん。どこかにあるはずなんだけどなー」


 奏音はアパートの廊下から離れ、こちらに背を向けた。

 少しでも明るい場所で探したいのだろう。


 ふと、人の気配がした。


 振り返ると、ポストの横に明るい髪色の女性がいた。

 女性の垢抜けた外見とこの古いアパートの雰囲気が、あまり合っていない気がする。


 女性は立ち止まったまま、俺たちの方を凝視している。

 不審者と勘違いされているのだろうか。そうだったらまずいな……。


 俺は奏音の連れということをアピールするため、奏音に少し近寄って――。


 ………………ん? あれ?


 あの女性、どこかで見たことがあるような――。


 俺が自分の記憶の糸を手繰り寄せようとした、次の瞬間。


「奏音…………」


 女性が、奏音の名前を呼んだ。

 奏音はハッと顔を上げる。


 そこで俺はようやく思い出す。

 この女性は――。


「お母……さん…………?」


 呆然と呟く奏音と、彼女の母親――翔子叔母さんの視線が交差した。

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