第71話 お祝いと俺②
終業時刻を告げるチャイムが鳴ると、それまで張り詰めていた空気が一気に霧散した。
「駒村、お先ー」
片手を上げ、率先して経理部を後にする磯部。
これまでは「呑みに行こうぜー」としつこいぐらい誘ってきていたというのに、えらい変わりようだ。
いつになく足取りが弾んでいたし、おそらく佐千原さんと一緒に帰るのだろう。
真っ先にドアの向こうへと消えた磯部が信じられないのか、事情を知らない経理部の面々はポカンとした顔になっていた。
一人でエレベーターホールを抜けてエントランスへ。
会社の外へ出ると、道の向かいに見覚えのある女性が立っていた。
友梨だ。
「あ、かずき君。お疲れさま」
友梨の声かけに軽く手を上げて応える俺。
こうして会うのは久々な気がする。
友梨の手には、やはり紙袋が握られていた。
今日は何のお土産だろうか――と真っ先に考えてしまうあたり、俺も奏音のことを笑えない。
「これね、マドレーヌ」
「ありがとう。毎回すまない」
「謝らなくていいって。私が勝手にやってるだけなんだから」
紙袋を受け取った後、どちらともなく駅に向けて歩き出す。
友梨は普通に接してくるが、俺としてはやはり気まずさはあった。
今は意識しないように――と考えるほど、変に意識してしまう。
友梨は今、どういう気持ちでいるのだろうか。
「実はね、今日はかずき君に報告したいことがあって」
「報告?」
歩き出して間もなく、友梨が口を開く。
「うん。就職先が見つかったの」
「えっ!?」
突然の報告に俺は思わず高い声を出してしまった。
確かに友梨は喫茶店でバイトをしながら就職先を探していたけれど――。
なぜか俺は、もうしばらく友梨はあの喫茶店にいるものだとばかり思っていたものだから。
いや、決して友梨が簡単に再就職できるわけがないと思っていたわけではなくて。
何というか……店長が友梨のことをかなり気に入っているみたいだったから、人の良い友梨はその雰囲気に引き摺られるかも――と思っていたのだ。
「あ、もしかして信じてないの? 失礼しちゃうなぁ」
「いや、違うって。突然すぎて驚いただけだって」
露骨に眉を寄せる友梨。
俺は慌てて弁明する。
「かずき君が喫茶店に来ない間、私はずっと動いてたんだよ?」
「…………」
ちょっと不満そうな顔になっているのは、俺と会えなかったから――?
と考えてしまうのは
友梨の言う通り、前に顔を覗かせてからは喫茶店に寄っていなかった。
というより、朝食を家で食べるようになってから寄る必要がなくなったというか……。
「と、とにかく無事に決まって良かったな。おめでとう」
「うん。ありがとう」
ようやく見せてくれた笑顔にホッとする。
「そうだ。せっかくだし就職祝いに何か買ってやるよ。いつも俺の方が貰ってばかりだし」
「えっ!? それは大丈夫だよ。かずき君は奏音ちゃんとひまりちゃんのことで大変だろうし。さっきも言ったけど、私が勝手にやってるだけだから」
「でも一方的に貰ってばかりなのは、俺としてもスッキリしない」
俺が答えると、友梨はしばし黙り込んでしまった。
交差点で信号待ちのために立ち止まる俺たち。
周囲の喧騒が、この無言の隙間を埋めてくれるので助かる。
「それじゃあ、物はいらない。その代わり…………が欲しいな」
「え?」
タイミング悪く、大きな排気音を鳴らす大型のバイクが猛スピードで通り過ぎ、上手く聞き取れなかった。
既に信号は赤になっていたのに、なんて奴だ。
歩行者信号が青に変わり、立ち止まっていた人々が一斉に歩き出す。
でも、友梨は動かなった。
「ごめん。聞こえなかったからもう一度――」
「……連絡先」
俺はピクリと肩を震わせてしまった。
「かずき君の、連絡先を教えて欲しいな」
友梨の『欲しいもの』を聞き、俺はしばし固まってしまった。
それは、普通の人にしてみればなんてことのない、実に平凡なお願い。
仕事先の人間や知り合い、ましてや友達なら、当たり前のように交わすもの。
でも俺たちにしてみれば、それは当たり前ではなかった。
気恥ずかしさもあり、気付いたら疎遠になっていた中学生時代。
この時はまだ、自分用の携帯電話は持っていなかった。
高校生になってから、自分用の携帯電話を持つことを許可された。
友梨とも小学生の時ほどではないが、挨拶を交わすくらいの交流は再開していた。
この時に連絡先の交換もしていたが、結局一度もお互いに電話を使った会話はしていない。
通学路での会話で事足りたからだ。
さらに俺は卒業式を終えた一週間後に携帯電話を落としてしまい、番号が変わってしまった。
友梨とは大学は別だった。
それから新しい番号を友梨に教えるきっかけが掴めないまま、ずっと今に至っているのだ。
今思えば、臆病だったんだと思う。
このたった数桁の数字を教えることで、俺たちの関係がまた変わってしまうような予感がしていたから。
例えるなら、静かな水面に鉄球を落とした時のような。
そんな衝撃からの波紋が、じわじわと体に広がっていく。
「かずき君……?」
友梨に呼びかけられ、ようやく俺は我に返る。
歩行者信号は既に点滅しており、彼女の顔には不安が滲み出ていた。
「やっぱり、嫌かな……」
「いや、すまない。そういうわけじゃない」
俺はポケットからスマホを取り出す。
焦っていたせいか、取り落としそうになってしまい一瞬ヒヤッとした。
「その……気恥ずかしかったんだ」
俺が正直に言うと、友梨は一拍置いた後クスクスと笑い始めた。
「な、何だよ」
「ごめん。かずき君も私と同じだったんだなあって」
言いながら友梨も鞄からスマホを取り出す。
QRコードを読み取ると、一瞬で友梨の連絡先が俺のスマホの中に入った。
たったこれだけのことが、俺たちは長年できずにいたのだ。
「ありがとう。これから差し入れを持って行く時は事前に連絡するね」
「思えば会う手段が待ち合わせとか、時代遅れも甚だしかったよな……」
「そうだよ。私かずき君の会社の前で待つの、かなり勇気出してたんだからね」
友梨はそこでまた笑う。
長年俺たちの間にあった薄くて見えない氷が、ようやく溶けた気がした。
「ところで、新しい会社はいつから行くんだ?」
「正式な出社日は来月からだけど、その前に研修があるみたい。研修は来週からだって。せっかく連絡先を教えて貰ったけど、しばらくは会えないかも」
「そうか……。何にせよ頑張れ」
「うん。ありがとう」
再び歩行者信号が青になったタイミングで、俺たちはようやくその場から歩き出す。
嬉しいけど少し寂しいような、ちょっと複雑な感情を胸に秘めながら。
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