第55話 給料とJK②

「駒村さん」


 マンションのエレベーターのボタンを押して待ち呆ける俺を、よく知る声が呼び止める。

 振り返ると、ひまりが小走りで俺に近寄ってくるところだった。

 どうやらバイト帰りらしい。


 ひまりはいつにも増してニコニコと笑顔だった。


「どうした。何か嬉しいことでもあったのか?」

「えへへ。それはまた後で」


 ひまりはそう言うと、マンションの端にある階段に向かう。

 他の住民と極力会わないために、ひまりはずっと階段を利用しているのだ。

 今声をかけてきたのも、周囲に誰もいなかったからこそだろう。


 いつもはなかなか下りてこないエレベーターにもどかしい思いを抱くのだが、今日はひまりとの帰宅時間をずらせるので気にならなかった。






「ただいま」

「おかえりなさい」

「おかえりー」


 玄関を開けると同時に二人の声が響く。


 奏音はキッチンに立ち玉葱を切っている。

 ひまりはというと、鞄の中をゴソゴソと漁っていた。

 そして間もなく――。


「駒村さん、さっきの続きです。はい!」


 ひまりがそう言いながら出してきたのは、茶色の封筒だった。


 封筒を受け取った俺はすぐに中身を確認する。

 万札が三枚入っていた。


「これは……」

「今日は給料日だったんです。これまでの食費とか服代とか――ようやくお渡しすることができました」


 ふわりとした笑顔で答えるひまり。

 なるほど、給料日は今日だったのか……。


 俺はひまりが「バイトを探す」と言った日のことを思い出す。

 最初はどうなることかと思ったが、何とか無事に最初の給料を貰うところまでいけたことには安堵する。

 それにこのアルバイトの体験は、今後のひまりの人生においても何かしらの役には立つだろうし……と考えたところで。


「そういうことならわかった、受け取ろう。ただし半分だけな」

「えっ?」


 俺は封筒の中から一万円だけを抜き取ると、そのままひまりに返した。


「え、あの……」

「これだけで良い」


「でも――」

「食費はこんなにかかってないだろ」


「食費以外にも、服代とか……」

「それはまぁ、俺からの奢りだ」


 困惑の表情を浮かべるひまり。


 確かに俺としては、金を出してもらえたらかなり助かる。


 今までボーナスの5割から7割は貯金専用口座に入れて貯めてきているので、金銭的余裕は結構あるのだが――。

 ただ、そろそろ貯金専用だったその口座から金を引き出さないといけないかもしれない。


 一人暮らしの時のみならず、弟と暮らしていた時とも比べると、出費は確実に増えているからな……。

 やはり『年頃の人間が三人で生活』というのは、なかなか家計を圧迫する。


 とはいえ、この生活がずっと続くわけではない――と割と楽観的に見ているので、そこまでの危機感は今のところないけれど。


 というわけで、俺は最初から食費以外の金を受け取らないと決めていた。


 これはひまりの未来に対する、俺の勝手な投資でもある。

 本当に、自分勝手な想いだけれど。


「そういうわけにはいきません。私は――」

「まあまあ。かず兄がこう言ってんだし、自分用に使いなよ」


 双方の意見が平行線になる予感がしたが、意外なところから助け舟が出た。


「奏音ちゃん……」

「お金貯めてから両親に会うんでしょ? だったら少しでも貯めてた方がいいじゃん」


「奏音の言う通りだ。せっかくのアルバイト代、どうせなら自分のために使ってくれ」

「…………」


 ひまりはしばらくの間困った表情を浮かべていたが、やがて程なく。


「わかりました。ありがとうございます」


 ペコリと丁寧に頭を下げたのだった。


「あ、そうだ。奏音ちゃんにはこれあげる」

「へっ?」


 ひまりは鞄からラッピングされた小さな袋を取り出して奏音に渡す。

 奏音がすぐに袋を開けると、中から出てきたのはふわふわの毛玉のキーホルダーだった。


「わ、可愛い。ありがとうひまり。でも何で?」


「給料を貰ったら奏音ちゃんにもお礼をするって決めてたんです。でもお金だとちょっとアレだし……。だからこれにしました」

「そうなんだ。別に気を遣わなくても良かったのに」


「そういうわけにはいかないよ。毎日美味しいご飯を作ってくれてありがとう、奏音ちゃん」

「いや、えーと、うん。こっちこそありがとう」


 ひまりの真っ直ぐなお礼に照れてしまったのか、奏音は視線を斜め上方向に逸らせつつ答える。


「でも、何でこれ?」

「えへへ。実はそれ、お店のポイントと交換できるうちの店のグッズ『猫の毛玉』だよ。店長にお願いして購入してきちゃいました」


「へー……」


「ふわふわだけでなく弾力もあってムニムニしてるんだよ。つい触りたくなっちゃうんだよね」

「確かにこれは、無限にムニムニできる……」


 ムニムニムニムニ――と一心不乱に毛玉をムニムニし始める奏音。


「そして私とお揃いです」


 と、自分の鞄を見せるひまり。

 そこには色違いの毛玉が付いていた。

 奏音はそれを見て「えへへ」と嬉しそうに笑う。


「俺もちょっと触っていいか?」


 ふわふわ具合に少しそそられてしまった。


「はい、もちろんです」


 許可を貰い、ひまりの鞄に付いている毛玉に触れる俺。

 これは確かに程よい弾力だ。

 それでいて指の間を優しく撫でるふわふわの毛――。


 奏音が無限にムニムニできる、と言った理由がよくわかった。

 俺もちょっと欲しくなってしまった。


 まぁ、俺が会社の鞄にこれを付けていったら磯部にツッコみまくられるだろうしな。

 やっぱやめておこう。

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