第56話 準備とJK

 6月も終わりに近付いてきたある日の夜。


 ひまりが風呂に入っている時に、「かず兄……」と奏音が近寄ってきた。

 テレビを見ながら発泡酒を飲んでいた俺は缶を置く。


「どうした?」

「ちょっと頼みがあるというか……。今度の休みの日に、ひまりのバイト先に一緒に行って欲しいなって……」


「…………へ?」


 奏音の言ったことがすぐに理解できなかったのは、たぶんアルコールのせいではない。


「それは、客として行きたいってことか?」

「うん……」

「でも奏音、前に言ってたよな? バイトをしているひまりを見に行くのは迷惑だって」


 ひまりの様子が心配だから見に行こうか――と言った俺に、奏音がそう言って強く止めに入ったのはよく覚えている。


「いやぁ。あの時とは状況が違うっていうか……」


 奏音は頭を掻きながら目を逸らす。


「どんな状況?」

「文化祭でコスプレ喫茶をやるって言ったじゃん。だから参考になるかなって。実はクラスでも『コスプレ喫茶』がどういうものかよくわかってない人が、意外と多かったことが判明してさ」


「高校生の文化祭だから、自由にやればいいんじゃないのか?」


 ゆるい感じというか、ちょっとくらい適当でも許されるのが高校生の文化祭だと俺は思うのだが。


「私もそう思うんだけどね。お金を貰う以上ちゃんとしたい、って意見がここにきて出てきたんだよ」

「なるほど……」


 確かに、こういうのでクラスの意見を一つにするって難しいよな。

 真面目にやりたい奴と適当に済ませたい奴が混在していると、特に。


 ――と、既に遠くなった日の記憶の糸をたぐり寄せる。


「で、奏音はちゃんとやりたい側ってことか」

「まぁ……。かず兄とひまりが来てくれるなら、やっぱそれなりにやってるところ見せたいじゃん」


 ちょっと照れくさいのか、ふいと顔を逸らしながら言う奏音。

 その奏音の心は素直に嬉しかった。

 同時に、自分の中からすっかり消えてしまったその純真さが少し眩しい。


「だから実際にメイド喫茶に行って様子をみたいんだけど。んでも、私そういう所に行ったことないからちょっと怖くて……。だから一緒に付いてきて欲しいなって」

「そういうことならわかった。でも、わざわざひまりの店に行かなくても良いんじゃないのか?」


「そこはほら。ひまりのメイド姿を見てみたいという好奇心というか? ぶっちゃけ見たいじゃん? かず兄は見たくないの?」

「見たいか見たくないかで言ったら、見たいかな……」


 決してやましい意味ではなく、単純な興味でだ。

 あと、前にひまりの接客の練習の手伝いもしたからな。あれから上手くやれているのか気になるのも事実だし。


「よし。それじゃあ明日、かず兄の仕事が終わったら早速行こう。ちょうどひまりは明日夜のシフトみたいだしね」


 というわけでひまりには秘密のまま、俺と奏音はメイド喫茶に突撃することとなったのだった。






 仕事を終えた俺は、時計を見ながら急いで帰り支度をする。

 今日はすんなりと仕事を終えることができなかった。

 他部署に不備領収書の聞き取り調査をしに行ったのが、思いのほか時間を取られてしまったのだ。

 おかげで定時を少し過ぎてしまった。


 奏音が待ってるから急がないと。


「なぁんか急いでんな駒村。今日も誘っても断られるパターン?」

「あぁ。ちょっと用事があってな。すまない」


「ふーん。急いでるって、デート?」

「だから違うっての」


 女子高生と二人きりで出かけるのは、他人から見たら確かにデートに見えるかもしれないが……。

 奏音はあくまで従妹。今日もただの付き添いだ。


「ま、今度時間がある時に付き合ってくれよ。ちょっと相談したいことがあってさー……」

「……わかった」


 軽く返事をしてから、俺は早足で会社を後にする。

 しかし磯部がテンション低めで相談を持ちかけてくるとは、かなり珍しいな。

 いつもの笑い話になりそうな軽い恋愛相談とは、雰囲気が違う。


 考えながら、俺は奏音と待ち合わせをしている駅へと向かった。






 奏音は既に駅前で待っていた。

 植木の前のレンガに腰掛け、退屈そうにボーッとしている。

 会社を出てすぐに連絡していたとはいえ、やはり申し訳なくなった。


「すまん。ちょっと遅くなった」

「あ、ううん。別に大丈夫だし。お仕事おつかれ」

「ありがとう。それじゃあ行くか」


 俺は早足で奏音の前を歩く。

 制服姿の女子高生と待ち合わせしている姿を誰かに見られたかもしれない――ということをなぜか強く意識してしまったからだ。


 この間奏音の家に行った時も、奏音は制服だったけど。

 前回より強く意識してしまったのは、行き交う人が多いせいかもしれない。

 好奇の視線をたくさん感じてしまったのだ。


 スーツ姿のサラリーマンと制服姿の女子高生の組み合わせは、やはりちょっと目立つよな……。

 血縁だから何もやましいことはないのだが。


「かず兄。そっちじゃなくてここ左だよ」

「お……?」


 後ろから奏音に声を掛けられ、俺は慌てて振り返る。

 奏音はスマホを俺を交互に見ながら、「こっち」と指差している。


 ひまりが履歴書を書いた時に店の情報は聞いていたので、地図アプリで確認しながら進んでいたのだが――。

 どうやら少し考えごとをしている間に、曲がる道を過ぎてしまっていたようだ。

 俺は慌ててUターンをする。


「かず兄、もしかして方向音痴?」

「そんなことははい。ちょっとボーッとしていただけだ」

「ふーん……?」


 にやにやしながら何か言いたげな目をする奏音だが、俺は本当に方向音痴ではない。

 ……たぶん。


「あ。ここみたいだよ」


 道を曲がってすぐ、奏音は立ち止まって目の前のビルを指す。

 灰色の6階建てのビル。

 エレベーターへと続く狭い入り口脇に、店舗名が書かれたプレート一覧が貼られている。

 その店舗名一覧を確認するまでもなく、ひまりのバイト先はすぐ目の前――1階にあった。


 お洒落なカフェのようなガラス張りの壁なので、外から店内の様子がよく見える。

 店内の壁にはピンクやオレンジ色のハートやら星やら、可愛い装飾がたくさん並んでいる。

 そして店内を歩き回るメイドは、黒色を基調としたフリフリのメイド衣装に、猫耳と尻尾を付けていた。


 ここから見える範囲にひまりの姿はない。

 今は裏にいるのだろうか。


 独特の雰囲気に、俺と奏音は思わず顔を見合わせる。


「……入ろうか」

「う、うん」


 意を決し、俺は重たいガラス扉を押し開けた。

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