第53話 漫画とJK

       ※ ※ ※ 


 駒村と奏音がいない1LDKの部屋が、いつもと同じはずなのにやけに広く見える。


「二人とも、いつ帰ってくるのかな……」


 ひまりは時計を確認してから一人呟く。


 とはいえ、口に出したところで即座に二人が帰ってくるわけもなく――。


 ひまりは再びパソコンの画面に視線を戻した。


 賞に絵を出した後も、ひまりは絵を描き続けていた。


「よし……できた」


 今回完成させたのはイラストではなく、4Pの短いオリジナル漫画だ。


 ひまりが憧れている同人作家は様々なオリジナル漫画を出してきていたので、ひまりもその影響を存分に受けている。

 実は『ひまり』という名前も、その同人誌に登場する人物の名前だ。


 とはいえ、漫画は難しいとひまりは痛感していた。

 1枚で終わるイラストとは、使う技術が全然違う。


 それでも短い漫画なら、見よう見まねで何とかそれっぽいものができるようになった。


「久々に投稿しよ」


 家出をする前から絵はSNSのサイトに載せていたのだが、家出をしてからは投稿できていなかった。

 少し離れていただけなのに、サイトのロゴを見るだけで少し懐かしい気分になる。


 投稿する前に、もう一度最初から読み直す。


 今回描いたのは、人魚姫をモチーフにしたファンタジーだ。


『人を好きになってはいけない』呪いを受けた少女は、ある日遊びに行った森の中で怪我をしてしまう。

 それを助けてくれたのは、猟師の青年。


 少女は青年の優しさに恋をしてしまうが、呪いのせいで気持ちを伝えることができない。

 しかし何度も青年と接触していくうちに、ついに少女は溢れる気持ちを抑えることができなくなってしまう。


 そして「あなたが好きです」と口にした瞬間。


 呪いのせいで青年はまばゆい星の欠片になって消えてしまい、少女は涙する。


 ――という悲恋の話だ。


 青年が消えるシーンだけ背景にカラーを入れたので、悲しみと美しさと残酷さが表現できた……とひまりは思う。


 人魚姫は自分が泡になってしまったが、この話で消えてしまうのは告白された側の青年だ。


「…………」


 自分で描いたものなのに、鼻の奥がツンとなる。


 理由はわかっている。

 自分を重ねたからだ。


 あの時、寸でのところで「好きです」の言葉は飲み込んだ。

 それで良かったと今は思っている。


 もう自分の気持ちはバレてしまったかもしれないけれど――。

 それでも言葉に出していないから、ひまりの中ではまだセーフだ。


 言ってしまっていたら、間違いなく駒村の存在が今より遠くなっていただろうから。


「……早く大人になりたい」


 ひまりは鼻を啜りながら膝を抱える。


 対等な立場で気持ちを伝えて、自分が消える側になるなら――悲しいけれど、それでもいい。


 でも、ひまりはまだ未成年。

 世の中にある色々な『責任』は大人に向いてしまう。


 告白しかけたことで、ようやく本当の意味でそのことに気付けた。


 困惑の色に染まっていた、あの目が忘れられない。

 罪悪感が胸に広がる。


 あの瞬間まで「私を見て欲しい、好きになって欲しい」としか考えていなかった自分は、本当に子供なんだなと恥ずかしくもなった。


 だからひまりは決めた。

 せめてここを離れるまでは、この気持ちは抱えたままでいようと。

 諦めるなんてことはできそうにない。でも、それくらいは許されるはずだ。許してほしい。


 そして、ここで暮らし始めて気付いたことがもう一つある。


 こうやってひまりが絵を描いていることを、批難することなくただ応援してくれる駒村と奏音――。


 自分が両親に心から望んでいたのは、この状態なのだと。


「…………」


 脳裏に両親の姿が浮かぶ。

 絵を描いているひまりに対し『そんなくだらないことはやめなさい』と言って批難してくる姿が。


 家を出てから、真っ先に思い出す両親の姿はこれになってしまった。

 

『お前は父さんと母さんの子供なんだから』

『それだけひまりに期待しているんだよ』


「…………」


 何度聞いたかわからない言葉は、ひまりにとっては呪い以外の何ものでもなかった。


 それ・・は別に嫌いなわけじゃない。

 両親が大切にする理由もわかる。

 でも、ひまりはそれ以上に絵を描くことが好きになってしまった。


 たまたまネットの海で見かけた素人の絵や話に、とても心を打たれてしまった。

 そして「自分も描きたい」と強烈に思ってしまったのだ。


 ただ――。


 ひまりは自分の手のひらを見つめる。


 村雲が勝手に家に入って来た時、奏音を守るために咄嗟に体が動いた時だけ――あの時だけはそれ・・に感謝した。


「……二人とも……まだかな」


 もう一度時計を見る。

 二人の帰りが待ち遠しかった。


 とはいえ、願えばすぐに帰ってくるわけでもない。


 ひまりは再度描き洩らしがないことを確認してから、開きっぱなしにしていたSNSに漫画を投稿した。


「はー疲れたな……。これを何枚も描ける漫画家さんって本当に凄いなぁ……」


 両腕を上げて伸びをしたところで――。

 玄関の鍵が開く音がして、ひまりは慌てて立ち上がる。


「ひまりただいまー!」

「晩飯買って来たぞ」


 買い物袋をぶら下げた二人の姿を見た瞬間、ひまりは心から安堵した。


「駒村さん、奏音ちゃん、おかえりなさい!」


 こうして笑顔で「ただいま」と「おかえり」を言い合える関係が、ただ嬉しい――。


 でも、現時点でそれを自分の両親には望めない。


 数ヶ月後に向き合ってみるとは決めたけれど、やはり不安は大きいままだ。


 玄関から風に乗って入ってくる外の匂いを感じながら、ひまりの心には鈍い痛みが広がっていた。

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