第50話 幼馴染みと俺②

 今日は定時で仕事を終えた。

 そのまま流れるように会社を出ると、友梨が外で待っていた。


 この光景も数回目になる今はすっかり慣れてしまった。


 とはいえ、磯部や他の経理部の人にはあまり見られたくないなというのはある。

 彼女と勘違いされそうだし。


 ともあれ、また二人のために差し入れを持ってきてくれたのだろう。

 それは単純に助かる。


「かずき君。お疲れ様」


 予想通り、友梨の手にはお洒落な紙袋が握られていた。


「今日はマフィンを買ってきたよ」

「香ばしい匂いが洩れてきてる」


「でしょ? 私も匂いに釣られて買っちゃったんだよね」

「夕飯前にこの匂いは確かに反則だな」


 どちらともなく俺たちは駅に向けて歩き出す。


 歩き出してからしばらくしたところで「そういえばね……」と友梨が少し重ために口を開いた。


「私、来週面接を受けることになったんだ」

「お、ついにか」


 友梨は現在喫茶店でバイトをしているが、そのかたわらで就職活動もしていた。


 元々いた会社が倒産してからすぐに転職活動は始めていたみたいだが、なかなか要望に合う所が見つからなかったらしい。


 で、ちょっと心が折れかけていたのと、ひとまず少額でも良いからすぐにお金が欲しいという理由から、今の喫茶店でのバイトを始めたようだ。


「一次審査からいきなり面接なんだよね。緊張するよー……」

「上手くいくといいな」

「うん……。ありがと」


 心からそう思ったので素直に伝えると、友梨は少しはにかみながら答えた。


 角を曲がると、子供のはしゃぐ声が聞こえてきた。

 会社のビルは大通りから少し中に入った道沿いにあるので、マンションも結構立ち並んでいる。

 マンションに併設された小さな公園で、小学生くらいの男の子たちが走り回っていた。


 その中の二人に、俺は咄嗟に目を奪われる。

 二人は白い道着を着ていたのだ。


「あれは柔道かな。空手かな」


 気付いた友梨がポツリと洩らす。


「道着を見ただけではわからんな」


 一人は白帯、もう一人は黄色帯だ。

 二人は始めてからまだそこまで経っていない――。

 わかるのはそれだけだ。


 習い事の帰りに遊んでいるのだろうか。


「汚れるから道着のまま遊びに行くのはやめなさい!」と母親に怒られていた小学生の時のことを思い出し、口の端が上がる。


 あの二人もきっと、今は向上心を溢れさせ稽古に励んでいるのだろう。


「頑張って欲しいな」


 小さく呟いた瞬間、胸にチクリと刺さるような痛みを感じた。


 俺たちは立ち止まることなく、その公園を通り過ぎる。


「俺はダメだったから」

「かずき君……」


 思わず自虐してしまった。

 ずっと胸に抱えてきた想いを、初めて外に出したかもしれない。


 そう、俺はダメだった。


 たくさん稽古をして、練習して、耐えて、希望を持って――。

 それでも特別な人間になれなかった。


 俺は、元々『持ってない』人間だということがわかってしまった。


 本来なら武道を通して、精神も鍛えるものなのだろう。

 俺はそれすらもダメだった。

 簡単に折れてしまった。


 それに本当に好きなら、自分の限界がわかっても続けていたはずだ。


 しばらくの間、アスファルトに二人の靴音だけが響く。


 俺は言葉に出してしまったことを悔やんだ。

 友梨がどういう反応をすればいいのか、困惑している空気が伝わってきたから。


「すまん。もう昔のことだしな」


「……私は知ってるよ」

「え?」


 突然意味不明なことを言われ、反射的に俺は目を丸くする。


「かずき君がどれだけ頑張っていたか、本気だったのか――私は知ってる」


 俺の目を見つめてくる友梨の顔は、とても真剣で――。

 なぜか、彼女に見つめられて俺は胸が少し苦しくなった。


 稽古に行く時、玄関を出たら外で遊んでいた友梨と目が合った。

 そして「いってらっしゃい」と手を振って見送ってくれていた姿を思い出す。


 それに試合がある時は、わざわざ見に来てくれていた。


「ずっと、見てたから……」


 そう言った直後、友梨の目から一筋の涙が落ちる。


 俺は焦った。


 どうして今、友梨が泣くのかわからなかった。


「友梨……?」


 指で涙を拭いながら友梨は続ける。


「かずき君はダメなんかじゃないよ。ダメだったなんて言わないで」


 若干怒っているように見える。


 俺は益々わからなくなった。

 彼女の心の動きが理解できない。

 数字と違って、全然明確じゃない。


 友梨の目から零れ落ちる涙は止まらない。

 それでもその潤んだ瞳で、友梨は真っ直ぐと俺の目を見据える。


「私にはかずき君のように打ち込めるようなことがなかった。だから、柔道を一生懸命やっているかずき君が羨ましかったし――」


 友梨はそこで鼻をすすってから、さらに続ける。


「カッコイイて思ってた」


 思いもよらない言葉だった。

 まさか友梨がそんなふうに思ってくれていたなんて、本当に知らなかった。


「その……ありが――」

「好き」


 俺の言葉を遮り、友梨は力強く言った。


 時が止まったように感じた。


 風が吹き、友梨の髪が無造作に舞い上がる。


「――――え」


「ずっと、好きだった。かずき君のこと」


 2回目の『好き』は、声が震えていた。


 俺は頭の中も心も、白紙に近い状態だった。

 何を言えばいいのかまったくわからなかった。


 それは、俺にとって本当に青天の霹靂で――。


「友梨…………」


「……ごめん。今日は行くのやめとくね」


 友梨は俯いたまま、持っていた紙袋を俺に押し付ける。


「……いきなりごめんね」


 そして消え入りそうな声で囁いてから、駅の改札へと走って行った。


 俺はしばしその場で立ち尽くしていた。


 自分の中に渦巻き始めたこの感情が何なのか――。

 情けないことに、今は全くわからなかった。


 速度を上げた心臓の音だけが、頭の中に響いていた。

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