第26話 風邪とJK

 とある休日の朝――。


 いつもは真っ先に起きて朝食の準備をしている奏音が、リビングに敷いた布団の中から出ていなかった。


「駒村さん……」


 その隣に座っていたひまりが、不安そうに俺を見上げてくる。


「奏音ちゃん、体調が悪いみたいで……」


 俺はすぐに奏音の枕元にしゃがむ。


 うっすらと目を開けた奏音の表情は、明らかにいつもと違うものだった。


 額には汗がにじみ、顔全体が紅潮している。


「あ……おはよう……。朝ご飯……作らなきゃ……」


「いや、明らかに熱があるだろ。そのまま寝てろって」


 布団から這い出ようとした奏音を慌てて止める。


 こんな状態の人間に料理を作らせるほど、俺は鬼畜ではない。


「でも……」


「あのなぁ……。俺だって大人だからご飯くらい何とかできるわ。いいから、今日は気にせずゆっくり休んでろ」


「うん……」


「てことでひまり。奏音に水を持って来てくれるか?」


「はい! 任せてください!」


 俺が頼むと、ひまりがキッチンに飛んで行く。

 脱水症状には気をつけないといけないしな。


 俺はその隙に自分のベッドの近くに置いてある、体温計を取りに行った。






「37度9分か……」


 奏音から体温計を受け取った俺は、思わず眉間に皺を寄せる。


 それなりに高いが、今日は病院が休みだ。


 休日診療をやっている病院をネットで探してみたのだが、ここからはかなり遠い。


 移動時に奏音にかかる負担を考えると、外に出るという選択肢はやめた方が良さそうだ。


 俺、家に風邪薬とか置いてないんだよな。後で買ってくるか。


「奏音ちゃん。何か食べた方が良いと思うんだけど……。ご飯は食べられる?」


 ひまりが聞くと、奏音は力なく首を横に振った。


「今は……何も欲しくない……」


 奏音の返事に、俺とひまりは眉を下げながら顔を見合わせる。


「困ったな」


 気持ちはわかるが、やはり何も食べないままだとマズイだろう。


「じゃあ奏音ちゃん。食べられそうな物は何ですか? アイスでもゼリーでもいいから。私買ってくるよ」


 ひまりの提案に、奏音の表情が少しだけやわらいだ。


「じゃあ……アイス……。イチゴ味のカップのやつがいいな……」


「ん、わかった。駒村さん、いいですよね?」


 俺は頷いてから立ち上がる。


「とにかく俺たちもまず食べよう。食パンでいいか?」

「はい。食べたら私、すぐ買いに行ってきます!」


 拳を握り、いつになくやる気のひまり。

 本当にひまりは奏音のことが好きなんだろうな。


「買い物なら俺が行くけど」


「いえ……。駒村さんは奏音ちゃんの側にいてあげてください。こういう時って、やっぱり大人がいた方が安心すると思うから――」


 そう言うひまりの顔には、少しだけ寂しさが漂っていた。


 そういうものか。

 いや、たぶんそうなんだろう。


 小学生の時に風邪で寝込んだ時のことを思い出す。

 やはり、親が近くにいるという安心感はあった気がする。


 しかし、料理を任せている奏音が倒れることになろうとは――。


 今日はいつもの休日と違う日になりそうだ。






 簡単な朝食を食べ終え、俺はひまりに金を渡す。


 奏音が言っていたアイスと、風邪の時の強力な助っ人であるポカリスエット、そして他にも奏音が食べられそうな物なら何でも買ってきて良いと告げる。


 あと、ついでに俺たちの昼飯も。


 駅前のスーパーは薬局も併設されているから、そこで風邪薬も買ってくるように頼んだ。


 俺はすぐに皿洗いを済ませてから、奏音の寝ているリビングへ。


「かず兄……」

「どうした?」


「私の上の服、持ってきてくれる……? 何でも良いから……」

「着替えるのか?」


「汗……いっぱいかいたから……」

「わかった」


 奏音の服を仕舞ってあるチェストを引き出す。


 ここは締め付けるような服ではなく、Tシャツの方が良いだろう。


 派手な色の花がたくさんプリントされた白色のTシャツを手にリビングに戻ると、奏音が布団からのそのそと這い出たところだった。


 いつもセットされている明るい色の髪が、今は寝癖もそのままに無造作な感じだ。


「かず兄……タオルを濡らして持って来てくれる?」

「わかった」


 汗を拭きたいのだろうな、と瞬時に判断した俺は、言われるがまま洗面所に行きタオルを濡らす。


 そしてタオルを硬く絞ってからリビングに戻った俺は、思わず目を疑った。


 奏音が、上の服を脱いで下着姿になっていたのだ。


「なっ――!? いや、すまん! すぐに――」


「あ、かず兄……。背中、拭いて……」


 奏音は驚いた様子もなく、俺に背中を見せて頼んできた。


 とろんとした目付きから察するに、奏音は今、判断力がいちじるしく落ちているらしい。


 ――どうする?


 数秒葛藤かっとうしたのち、彼女の要望を聞き入れることにした。


 相手は病人だ。頼みを無碍むげにすることはできない。


 ここは奏音が正気に戻る前に、サッサと終わらせてしまおう。


 俺は背中を見せる奏音の前に座り、肩から順に拭いていく。


「あ……首も……」


 奏音は髪を手で一つにまとめ、首筋を晒した。


 ………………うなじ。


 いや、凝視するな俺。だから相手は高校生だって。


 自分の中に生まれかけた何かを必死で無視して、俺はサッと首筋を拭いた。


「ありがと……」


 と奏音は言うが、それで終わりではなかった。


 なんと奏音は流れるような手付きで、ブラジャーのホックをパチンと外したのだ。


「――――!?」


 奏音は何も言わない。

 さもそれが当然だと言うかのように。


 脇から覗く豊かな膨らみを見ないよう、俺は必死だった。


 必死すぎてちょっと手に力が入っていたかもしれない。


 ――これは何の修行だ?


「ん、ありがと……」


 ようやく謎の修行の時間が終わった。

 モソモソとブラジャーを付ける奏音から背を向け、俺はタオルを洗うべく急いで洗面所に向かう。


 熱があるせいとはいえ、奏音の判断能力バグりすぎだろ……。


 この一連の出来事、覚えてなかったら良いんだが……。


 心拍数が上がった心臓の音を聞きながら、俺は蛇口から水を出した。






 ひまりが買い物から帰ってきて、奏音は早速アイスをちびちびと食べていた。

 だが本当に食欲がないらしく、半分ほどは残してしまった。


 その後はひまりと二人で交代しながら、奏音の看病をした。


 奏音の熱は、なかなか下がる気配を見せない。


「う……」


 布団の中で苦しそうなうめき声を出す奏音。


 彼女の頭に乗せていた、濡れたタオルをひっくり返す。


 そういえば頭に貼るタイプのジェルシートを、ひまりに頼むのを忘れていた。


 今度買って家に常備しておこう。


 他人と一緒に暮らすということは、こういう病気の時の備えも大事なのだなと改めて考えたのだった。






 昼食は、ひまりがスーパーで買ってきた総菜を食べた。


 鶏の唐揚げと野菜サラダだったのだが、唐揚げは衣がベチャッとしており、サラダからはなぜか油の匂いがした。


 ピンポイントでハズレな総菜を食べてしまった俺とひまりは、しばらく意気消沈してしまった。


「奏音ちゃんのご飯と、比べるまでもないですね……」


 ひまりはしょんぼりと俯きながら、「早く奏音ちゃんのご飯が食べたいです」と呟く。

 それには、俺も全面的に同意するのだった。






 そして、今度は夕食の準備――。


 今日は奏音が以前に買っていた、冷凍のエビフライを揚げることにした。


 そういや、揚げ物って家でやったことないな。まぁ何とかなるだろ。


 氷と霜が付いたカチコチのエビフライを眺めながら、俺はフライパンに並々と注がれた油の様子を観察する。


 そろそろ油の温度は大丈夫な気がする。


「駒村さん。私がやってみても良いですか?」


 隣からひょこっとひまりが顔を出す。


「あぁ、それは構わないが――」


「では遠慮なく――!」

「いや、ちょっと待て!」


 止めるのが間に合わなかった。


 ひまりは氷と霜が付いたままの、冷凍エビフライをフライパンに投入してしまったのだ。


 途端に四方八方に勢い良く弾ける油。


「わっ!? 氷ごと油の中に入れるやつがあるか!」


「わーん!? ごめんなさーい!」


 飛び散る油に右往左往する俺たち。


 これはマジで熱い! フライパンに近付けない!


「……何やってんの?」


 奏音の冷静なひと言に、俺とひまりは同時に振り返っていた。


「奏音!?」

「奏音ちゃん、起きたらダメだよ!」


「いや。これだけ大騒ぎしてたら寝てられないし……。それに、いっぱい寝たおかげでだいぶ良くなったよ」


 言いながら奏音は、平然とコンロに近付き一旦火を止める。


「あ、ありがと奏音ちゃん……」


「もう。やっぱり料理は私がやらないとダメみたいだね?」


 呆れながら言う奏音の顔は、柔らかな笑顔だった。


「とにかく、まずはエビフライに付いた氷を落とそう」


「私、床に散った油を拭きます……」


 ひまりはティッシュを取るため、小走りでリビングに向かう。


「あの、さ……」


 そのタイミングで、奏音が小声で話しかけてきた。


「ん?」

「えっと、あの……。朝のことは、忘れて……」


 顔を真っ赤にして俯く奏音。


 覚えていたのか――。

 つまり、うなじやブラジャー……って、だから思い出すなって俺!


 俺は「わかった」と返事をするのが精一杯だった。


「ティッシュ持ってきました――って、奏音ちゃん本当に大丈夫? まだ顔赤いよ?」


 リビングから戻って来たひまりに指摘されると、奏音は慌てて手をパタパタと振る。


「ほ、本当に大丈夫だから! あの、ひまり。今日は色々とありがとね」


「ううん、私こそ。やっぱり奏音ちゃんが作る料理は美味しいんだなぁと、今日だけで良くわかったよ」


「それには同意だな」


「もう……そんな褒めても何も出ないから。とにかく、滑るから床に散った油を拭くよ」


「はーい」


 奏音の号令の後、次々と動き出す俺たち。


 やっぱり奏音はこうでないとな――と思うのだった。

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