第22話 気付きとJK

 ひまりのバイトは週に2回か3回。

 バイトに精を出しすぎて絵が描けなくなったら本末転倒だと、最初からそのように決めていたようだ。


 ひまりは外出する時に住民に会わないようかなり気を遣っているらしく、マンションから出る時もエレベーターを使わず、階段を使っている。


 俺の部屋が3階にあって良かった。

 これが7階や8階だったら大変だっただろう。


 そんな調子で、しばらくは平和な日々が過ぎていった。






 ある日俺が帰宅すると、ひまりが玄関に立っていた。


 そういえば今朝、今日はバイトが休みの日だと言っていたな。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


 ふわりとした優しい笑顔で、そして両手を腹の前で合わせた良い姿勢でひまりは言った。

 声も普段より少し高い。


 ショートパンツから伸びる脚は何度見ても長く、良いスタイルだよな――と咄嗟に感心してしまう。


 ――じゃなくて。


「何やってんだ」


「えへへ。私がバイトでやってることを、駒村さんにも体験してもらおうかと」


「いや、それは別に――」


「えー。いいじゃないですか。せっかくなので何か注文してくださいよー」


 ひまりは珍しく、頬を膨らませて抗議する。

 怒った顔もちょっと可愛いと思ってしまった。


「注文といってもなぁ……」


 今は奏音がキッチンで夕食を作っているから、その邪魔になるようなことはできないし。


 ちなみに今の俺たちのやり取りも、奏音はニヤニヤしながら見ている状態だ。


 俺はしばらく悩んだ末――。


「じゃあ、肩を揉んでくれるか?」


 メイド喫茶でお願いするようなことではないかもしれないが、肩が凝っているのは本当なので試しに言ってみた。


「――――っ!? あ、はい。喜んで!」

「え? 本当にいいのか?」


 試しに言っただけなのに、アッサリと承諾されてしまった。


「駒村さんがやって欲しいんですよね? 良いですよ。では椅子に座ってください」


 促されるままに椅子に座る俺。


 まぁ、たまにはこんなのもいいか。


 何か、メイド喫茶というよりは父の日のイベントっぽい気もするけど……。


「じゃあ、えっと……か、肩に触りますね」

「あ、あぁ……」


 何でひまりはいきなり緊張しているのか。こっちまでつられてしまうじゃないか。


 ふぅ、という小さな息の後、ひまりの手が俺の肩に触れた。

 そして優しく肩を掴み、ゆっくりと揉み始める。


 人に肩を揉んでもらうのは、昔行っていた整体の時以来かもしれない。


 ひまりは力加減をさぐっているのか、かなりソフトな感じの揉み方だ。


 ただパソコン作業で凝りに凝った俺の硬い肩には、ちょうど良く感じる。


「駒村さん……。私、あまり人の肩の硬さとかわかんないんですけど、たぶん硬いですよね?」


「そうだな。なにぶんデスク作業だからな」


 しばらくはひまりにされるがまま、優しい肩揉みを堪能する。


 ……………………。


 いや、何も考えられなくなるな。


 凝りが酷い時は自分で自分の肩を揉んだりしているが、人にやってもらうとやっぱり違う。


「あー……ひまり。もう少し力を強くしても大丈夫だ」

「あっ、はい。わかりました!」


 返事は良かったものの、ひまりの手の力はあまり変わらない。


 もしかしなくても、かなり握力が弱いのかもしれない。

 まぁ、これはこれで良いか。


「ふーん……。随分と気持ち良さそうじゃん?」


 鍋にニンジンを投入して蓋をしてから、奏音が俺の近くに寄ってくる。

 少し不機嫌に見えるのは気のせいだろうか。


「あぁ。かなり凝ってるからな」


「じゃあ私もやってあげる」

「え?」


 奏音は俺の前にしゃがむと、問答無用で靴下を脱がしてきた。


 自分から脱がしたくせに、汚い物を触るようにつまんで横に置いたのはちょっと納得がいかない。


「いや、ちょっと待て。まさか――」

「ひまりが肩だから、私は足ツボ押してあげる」


 ニッコリと笑いながら、ギュッと俺の足裏を一押し。


「ぐあああああああ⁉」


 その瞬間、俺の悶絶する声がキッチンに響き渡る。


「え、痛がりすぎ。内臓どっか悪いんじゃない?」


「笑いながら言うなああぁぁいい⁉」


「駒村さん……」


 心配するような素振りで俺を呼ぶひまりだったが、俺は彼女の笑いをこらえるような吐息を聞き逃さなかった。


「いや、ひまりも笑うなよ⁉」


「ごめんなさい。だって駒村さんのこんな声聞いたの初めてで――くっ――ふふっ」


「人の悶絶する姿で笑うとか、たちが悪いぞお前ら!」


「女子高生二人からマッサージされてるんだから、文句言わなーい」


 そして奏音はさらにギュッと一押し。


「足の小指はやめろおおおお⁉」


 俺が声を出すと笑う二人。


 その後しばらく、俺は地獄の時間を味わったのだった。






 ひまりもかなりバイトに慣れてきたある日。


 彼女は見るからに落ち込んだ様子で帰宅した。


「ひまりどうしたの? 大丈夫? 体調でも悪いの?」


 奏音がひまりの元へすっ飛んで行く。

 その様子はまるで母親だ。


 もしかして、女性だけの職場にありがちな陰湿なイジメでも始まってしまったのだろうか――。


 俺も心配でひまりにそのようなことを聞いてみたが、ひまりは「バイトの人たちはみんな良い人だよ」と一貫して答えるばかり。


 じゃあ元気がない理由は何なのかと尋ねても、それについては苦笑してはぐらかされてしまった。




 その後もひまりはバイトに精を出しつつ、帰ってきてから絵を描く生活の繰り返し。


 ただ、以前よりひまりの顔が真剣になったというか、集中する時間が増えた。


 俺と奏音は、そんなひまりをただ見守ることしかできなかった。 






        ※ ※ ※ 


 ひまりは、言いようのない無力感にさいなまれていた。


 バイトは順調だった。


 陰で悪口を言うような人たちはおらず、むしろちょっと面倒な客に対して、あーだこーだと言って気を晴らす程度だ。


 そのバイト仲間たちが、ひまりにはとても大人に見えた。


 実際、ひまり年上の人たちが多い。ほとんどが20代前半の人たちだ。


 だが、年齢だけが原因ではない。


 ひまりはあらゆる面で、自分は彼女たちと比べて未熟だと感じることが多くなっていたのだ。


 ひまりのように、目標があってお金を貯めている人。

 親元から自立して生活している人。

 世の中の流行、情勢に詳しい人。


 バイト仲間と接する内に、ひまりは自分がいかに子供で世間知らずだったかを痛感していた。


 そして何より、奏音の存在。


 同じ高校生なのに、しっかりと家事ができて、ひまりの知らないことも知っている。


 最近、気付かぬ内に奏音と自分を比べていることが多くなってしまった。


 それは、和輝に対する気持ちも大きく影響しているのだろうけど。


 最初の頃に比べて、和輝に対する奏音の態度は、目に見えて軟化なんかしていた。


 慣れたから――というのが理由だろうが、ひまりはそれ以外の影響もあるのでは、と思っていた。


 もしかしたら、奏音も自分と同じように、和輝のことを――。


 そこまで考えて、ひまりはいや――と首を横に振って強引に頭から追い出した。


 それを考え始めてしまったら、出口のない思考の迷路に入り込んでしまうことが明白だったから。


 気を取り直し、パソコンの画面を注視する。


 アップになった描きかけの線画が、ひまりの次の挙動を待つかのように表示されていた。



 具体的なお金の試算もなく、まっすぐに夢だけを見ていられたのは、自分が親に守られた未成年だったから。


 そのことは認めた。悔しかったけれど。


 でもやっぱり、今は家には帰りたくなかった。


 自分が今やっていることは、世間で言う『悪いこと』だと理屈ではわかっている。


 和輝や奏音にも迷惑をかけてしまっているのだから。

 そんなことは当にわかっているのだ。


 それでも両親にされたことを、ひまりの感情が認めない。


 家に、帰りたくない。


 ――私は、どうしたらいいんだろう?


 胸が苦しくなって、悩んで、でも結局たどり着く答えは『今できることをする』というものだった。


 今、ひまりにできること。


 賞に出す絵に全力で取り組み、完成させること以外にない。


『とにかく、俺はお前に何も要求しない。強いて言うなら、きちんと絵を描いている姿を見せてもらうことくらいか?』


 以前、和輝に言われた言葉をひまりは脳内で噛みしめる。


 そしてひまりは、ペンタブを持つ手に力を込めた。



 ふと思う。


 和輝はいつまでひまりを家に置いてくれるのだろうかと。


 いや、今は考えないようにしなければ――と、ひまりはそれについては目を逸らすことにした。


        ※ ※ ※ 

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