第20話 名前とJK
奏音はひとしきり泣いた後、洗面所に顔を洗いに行く。
しばらくしてタオルを手に戻ってきた奏音は、既に落ち着きを取り戻していた。
「私が泣いたこと、ひまりには言わないでよ……」
睨みながら言われたが、まだ赤いままの目では怖さも何もない。
「言うわけないだろ」
「それなら……いいけど……」
奏音は俺に、弱みを握られたと思っているんだろうか。
さすがに事情が事情だし、今後奏音に腹が立つことをされても、これを脅しの材料として使うつもりは一切ないのだが。
「じゃあそろそろ戻るか」
時計を見ると、既に11時を回っていた。
ひまりも待ってることだし、買い物をして帰らなければ。
奏音の赤い目も、歩いている内に戻るだろう。
「うん。ひまりにはお昼までには帰るって言っちゃったしね……」
「あ。その前に振り込み用紙を預かっておくわ」
「でも期限切れてるよ」
「期限が切れてても払えるかもしれないし。一応物は試しってことで。ダメだったら携帯ショップに行けばいい」
奏音はおずおずと振り込み用紙を渡してきた。
「コンビニに寄らないとな。昼飯もついでに買おう」
「あの…………ありがとう。かず
「え――――」
俺は思わず固まってしまった。
奏音が家に来てから、一度も名前を呼ばれたことがなかったからだ。
「…………突然どうした?」
「えっと、昔そういう呼び方をしていたなって急に思い出したから」
「あぁ……。確かにそうだったな」
実家に奏音が来た時のことをぼんやりと思い出す。
確かあの時は、奏音はまだ小学校低学年だったか。俺と弟と一緒にゲームをやったっけ。
よっぽど楽しかったのか「もう1回。もう1回やろうかず兄」と何度も催促されたんだよな。あの時の奏音は可愛かった。
いや、今は今で可愛いんだけど。
「と、とにかくひまりが待ってるから早く行こう」
気恥ずかしいのを誤魔化したいのか、俺の方を見ずに玄関に向かう奏音。
俺は苦笑しつつ、彼女の後に続いた。
「かず兄はさ……」
コンビニに寄る道すがら、急に奏音が俺の名を呼んだ。
奏音の家に行くときは先導していた彼女だが、今は俺の横に並んで歩いている。
「何だ?」
「昔よりちょっとだけ、大きくなったよね。その――お腹が」
「言われなくてもわかっとるわ」
「胸から上は普通っぽく見えるのに。ビール腹ってやつ?」
「いや、ビールというか発泡酒なんだが……」
まぁ、奏音からしてみればどっちも同じようなものだろうけど。
やっぱり味は違うんだよなー。
もっと気軽に買える値段だったら嬉しいんだが、年々値上げされるばかりで安くなる気配はない。
くそっ。酒税め。
あと腹が少し出てきたのは、発泡酒よりツマミの方に原因があると思う。
寝る前に食べてるわけだしな。
うん、体に悪いとはわかってはいるんだ。わかっているが、簡単にやめられたら苦労しない。
「昔はシュッとしてたのにね」
「昔は今より食べる量も多かったんだが、その分運動していたからな」
「へえー。何かやってたの?」
「柔道」
「意外――なような、そうでもないような。イメージ通りといえばそうかもしれないし、でも何か違うような気もするし……」
何だそれは。
そういう反応をされると、こっちも困るんだが……。
運動をやめてから、筋肉が一気に脂肪に変化したことに一番驚いているのは、俺だからな?
「ちなみにかず兄は、もう運動するつもりはない?」
「何だ? 俺に痩せろって?」
「うーん、何というか、もったいないなぁって」
「………………どういう意味?」
「えっと――――秘密」
そう言うと、奏音はかろやかに走り出した。
「おい、走るなって。俺はもう若くないんだぞ!?」
俺も慌てて後を追うが、なかなか奏音に追いつけなかった。
走りながら、昔のことを思い出す。
学生の頃、柔道をしていた時の俺は本気だった。
…………本気だったんだ。
「ただいま~」
「あ、おかえりなさい」
家に帰ると、俺の部屋からひまりが出てきた。
ひまりは寝間着のまま着替えていなかった。完全に休日モードだ。
まぁ、ひまりは毎日が休日のようなものなんだけど。
いつもはちゃんと着替えているので、今日は心が緩んでいるのだろう。
「少し遅くなった。すまん」
「いえ、大丈夫です。それで、奏音ちゃんのスマホは――」
「お金は払ってきたから、その内使えるようになると思うよ」
「そうなんだ。良かった……」
心から安堵した様子のひまり。人の心配をしてやるとは、やはり良い子だな。
「コンビニに寄ったついでに弁当とデザートを買ってきたぞ。ひまりの分はミートドリアだ。選んだのは奏音だから、俺に文句は言わないでくれ」
「いや、デザートを選んだのはかず兄でしょ」
「いいじゃないか。好きなんだよ。『クリームがたっぷり乗ったチーズケーキ』。最近出た新作デザートの中では、ダントツでこれが美味いな」
俺は甘い物も結構好きなのだが、ケーキ屋に行くにはちょっとハードルが高い。
だがコンビニだと気軽に買えるのでありがたい。
たぶん俺のような甘い物が好きな男は、割といると思う。
「名前だけでカロリーの暴力って感じだよね。しかも結構デカイし」
「あはは……。でも私、チーズケーキ好きなので嬉しいです」
「お、良かった。じゃあ早く食おう」
改めて俺は、袋の中から3人分の弁当とデザートを取りだすのだった。
※ ※ ※
ひまりはパソコンの画面を注視した状態で固まっていた。
ペンタブを持つ手は、数十秒の間まったく動いていない。
そして彼女の目も、画面を見ているようで見ていなかった。
ひまりが見ていたのは、今よりちょっと前の風景――。
和輝と奏音が帰って来てから、ひまりは胸の内がずっとザワザワとしていた。
それは、奏音が放ったひと言にある。
『かず兄』
今まで和輝のことを名前で呼んだことなどなかったのに、急に名前で呼び始めたからだ。
奏音の家で何かあったのだろうことは、容易に想像できた。
でも、それを聞くことなんてできない。
だって、二人は従兄同士。
そこに部外者の自分が踏み込んでいく勇気などなかった。
そうだ。二人は血縁関係なのだ。
ひまりはどうしようもない孤独感に襲われた。
二人の間には、自分には入っていくことなどできない絆がある――。
考えなくてもわかることだった。
わからなければいけないことだった。
でも、見ない振りをしていた。
そのツケが、今来てしまっただけのこと――。
「――――っ」
ひまりは頭を振る。
考えてはいけない。
今、自分がやらないといけないのは、賞に出す絵を完成させること。
ひまりがここにいる理由は、諦めきれない夢のためだ。
自由課題の1枚はできた。でもまだ、テーマが決まっている課題の絵が終わっていない。
だから――。
ひまりは手を動かそうとする。
でも、無理だった。
頭の中が二人のことでいっぱいになってしまう。
大人の男性に助けてもらって、言いようのない胸のときめきを覚えた。
眼鏡は分厚いし、ちょっとだけお腹も出てるし、見た目は冴えないかもしれない。
でも、和輝はとても優しい人だ。
それだけで、ひまりの心が惹かれるには十分な理由だった。
奏音のことも好きだ。
明るいし、絵のことも偏見の目で見ることなく、普通に接してくれる。
そもそも彼女が、ひまりをここに置いてくれるように進言してくれた。
だから感謝しているし、悪い感情など抱けない。
それでも。
二人のことが大好きなのに。
ひまりは今、とても胸が苦しかった。
こんな感情を抱いてしまう自分が、酷く醜く思えてしまった。
※ ※ ※
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