第3話 家出JK

 駅から出ると、空はすっかり薄暗くなっていた。


 帰宅を急ぐ俺の斜め後ろには、先ほどの女の子がちょこちょこと付いてきている。

 結局あれから、上手いこと撒くことができなかったのだ。


 俺の利用している駅は他の駅よりも利用者が少ないので、人混みを利用して去るという手は使えなかった。

 途中走ってもみたのだが、瞬発力はあっても持久力が続かず結局追いつかれてしまった。


 大学生の時から運動らしい運動をしていなかったとはいえ、自分の体力の衰えに軽く絶望感を抱いた。


 こんなに走れなくなっているなんて。まあ最近、ちょっとだけ下腹も出てきたもんな……。少しずつおっさん化しているのをしみじみと感じる。


 悲しい現実を振り払うように、俺はもう一度彼女に振り返った。


「なぁ、やっぱり家に帰った方が――」

「それだけは絶対に嫌です」


 彼女は表情を固くして答える。


 ……めんどくさいな。


 既に何回か同じようなことを言っていたのだが、彼女の返答は最初からまったく変わらない。


 交番に連れて行こうとも思ったのだが、「痴漢されそうになった」「援交に誘われた」「この人嘘ついてます」などの虚言を吹聴ふいちょうされた挙げ句、俺があらぬ疑いをかけられる状況が簡単に想像できたのでやめた。


 今のところそういうことを言う雰囲気は感じられないが、人は見た目ではわからないしな。いつ豹変してもおかしくはない。


 俺と若い女の子。


 どちらの言い分を警官が信じるのか、よく考えなくてもわかる。

 日本社会はもっと男に優しくしても罰は当たらないと思うんだが、現実は非情だよな。


 しかし困った。どうやって撒こうか。もう一度全速力で走ってみるか?


 考えたその時、ポツリポツリと頭に冷たい感触が走り、思わず空を見上げる。

 そういえば、今日は夜から雨の予報だった……。


「……仮に聞くけど、俺と会っていなかったら今日はどうする予定だったんだ?」


 ふと気になり聞いてみる。


「うーん。公園かどこかの橋の下で寝ようかなぁって」


 あっけらかんと言い放つ彼女。


「他の奴に声をかけるつもりじゃかなかったと? じゃあどうして、俺にはそんな頼みをしてくるんだ」


「だって、電車で目が合ったし、助けようとしてくれたじゃないですか……。だからこの人は良い人だって直感が働きました。見た目も眼鏡かけてるから真面目そうだし」


「いや、それは眼鏡をかけている人間に対する偏見だって。眼鏡をかけた大人なんて、俺以外にも腐るほどいるだろう。真面目も不真面目も関係ない。普通にクズな人間もいるし」


「そ、それは確かにそうかもしれないですが――。でも何というか、あなたは違うなって感じたんです」


 俺は小さくため息を吐く。

 実に呑気というか、甘いというか。


 まあ、女子高生から「良い人そう」と言われて悪い気はしないけど、それはそれとして。


 未成年の女の子が被害に遭った事件のニュースとか見ていないのか?

 いつ事件に巻き込まれてもおかしくないのに、そういう考えにまったく思い至らないことに対しては少し目眩めまいがする。


「ちなみに年齢は?」

「私? 16。高2です」


 俺が高2の頃はもう少し――――いや、今は思い出すのはやめよう。


「高2で家出か。反抗期にしては少し遅いな」

「そうかも……しれません。でも、ずっと耐えてきて――もう我慢できなくなっちゃいました……」

「何か言われ続けてたとか?」

「私にとって大切な物を、夢に繋がる物を――捨てられてしまいました……」


 口元に自嘲的な笑みを浮かべて言う彼女。

 その瞬間、なぜか心がざわつく。

 胸の奥の方に仕舞っていた、触れたくないものに触れられた気がして。


 そのタイミングで、マンションの前に着いてしまった。

 雨は肩を濡らすほどには強くなっている。


「あの、玄関でいいです。私、玄関で寝ます。だから今日一晩だけでも――」

「名前は?」

「へっ?」

「名前」


『君の名前』と言うと対等な立場にさせたようで気に入らないし、かといって『お前の名前』と呼ぶのは年下にマウントを取っているようで気に入らなかった。

 ので、結局そこは省略してしまった。


「え、えっと、ひまりです」

「じゃあひまり。今晩だけうちに泊まっていい。でも今晩だけだからな。そう、今晩だけだ。このまま雨が降る中外に放り出して、公園でびしょ濡れになりながら寝て肺炎にでもなったりしたら、俺の目覚めが悪いから泊める。それ以外の理由はない。だから今晩だけだ」


 しつこいほどに『今晩だけ』を主張してしまったが、これで俺の言いたいことは間違いなく伝わるだろう。


 ひまりは面食らった顔でしばらく固まっていたのだが、やがて花のような笑顔で勢い良くお辞儀をした。


「今晩だけでもいいです! 本当にありがとうございます! 助かります! えぇと、お名前は――」

「駒村だ」


 俺の名前を聞いたひまりは、なぜかそこでふふっと小さく笑った。


「……何がおかしいんだ」

「いえ。やっぱり私の勘は当たっていたというか。駒村さんは良い人だなぁって」


 たぶんこの時の俺は、生まれて初めてゴーヤを食べた時のような苦い顔をしていたと思う。






 俺とひまりは、玄関に立ったまま石像のように身動きできないでいた。

 今日この時ほど、自分の迂闊さに嫌気がさしたことはない。


 どうして俺は、奏音とひまりがバッティングすることを考えなかったんだ……?


 いや。今日一日、あまりにもイレギュラーなことが起こりすぎた。

 だからところてんのように、押し出し式で朝の出来事を忘れても仕方がな――くはないかも、な……。

 そもそも、一度駅で奏音のことは思い出しているわけだし。


 奏音も俺たちと同じようにしばらく硬直していたのだが、やがて怪訝な顔で俺の目を見つめながら、ポツリとひと言。


「もしかして彼女? …………ロリコン?」


 そのひと言は、思いのほか俺の心をえぐった。


「違う、彼女じゃない。あと絶対にロリコンでもない」


 だが追い打ちをかけるように、さらにひまりも口を開く。


「もしかして彼女さんと同棲しているんですか? え? でも制服だし……高校生? え? 駒村さんて、そんな趣味が……? え?」

「だから彼女じゃない。いいか、二人とも落ち着いて聞いてくれ。お前らは俺の彼女じゃない。本当になりゆきで、仕方なく、何かこんな状況になってるだけだ。だから落ち着け。いいな?」


 いや、俺が一番落ち着いてねえな。

 でもロリコンだと疑われて落ち着いていられるか。


 俺の好みは、黒色のストッキングが似合いそうで色気が漂っている大人の女性だ。甘やかしてくれそうな雰囲気を出してたらなお最高。


 でも二人はまったく真逆だ。いや、若さが嫌いな要素かと言えばまったくそういうことはなく――って違う! 俺は何を考えてるんだ?


 そもそもどうしてこんな、浮気がバレてしまった男の修羅場みたいな状況になっているんだ。

 ていうかなぜ、俺は焦っている。


 ……ああもう、よくわからん。


「とりあえず中で説明して……?」


 俺が本気で困惑しているのが通じたのかはわからんが、奏音が少し呆れながら家の中に入るよう促す。

 俺が家主なのに、この瞬間だけ奏音と立場が逆転しているような錯覚を覚えたのだった。






「………………」


 朝からの経緯の説明を終えると、狭いダイニングキッチンに静寂が下りた。


 ちなみに3人分の椅子がないから全員立ったままだ。

 自分の家なのに立ったまま他人と会話するというのは、なかなか変な感じがする。


「つまり私のこと、忘れてたと」


 奏音がむくれながらぼそりと呟く。


「その、本当にすまん……」


 こればかりは謝るほかなかった。

 自分の存在を忘れていたと言われて、良い気分になる奴なんていないだろう。


 しかも、奏音は今朝来たばかり。彼女にしてみれば、まったく違う環境に飛び込んだ初日なのだ。

(俺にとっても初日なのだが――。)

 それなのに従兄弟から「忘れていた」なんて言われたら、怒りたくもなるだろう。


「あの……すみません……。私、やっぱり――」


 居心地が悪くなったのか、ひまりが静かに後退あとずさりを始めた、その時。


 ぐううぅぅぅぅぅぅ。


 ダイニングに響く、とても大きな腹の音。

 音の主はすぐにわかった。奏音が顔を真っ赤にさせて俯いたからだ。


 そういえば腹が減ったな……と、俺も自分の空腹を思い出したのだった。

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