第2話 電車のJK
午後5時。
終業を告げるチャイムが会社内に響き渡る。
既にデスクの上を片付けていた俺は、チャイムが鳴り終わると同時に席を立った。
「なあ
同僚の
「いや、帰る」
予定がなかったら行っていたかもしれないが、既に奏音が家で待っているはずだ。
今日は終業と同時に帰宅するのだと、朝の時点で決めていた。
「だろうな。何か既に帰る気満々だもんな。お疲れさん」
椅子の背もたれを利用して伸びをしながら、磯部はヒラヒラと手を振る。
特に理由を追求されないのは、今まで何度か誘われても断ることが少なくなかったからだ。
向こうは俺のことを気分屋だと思っている可能性が高い。まぁ事実、そうかもしれないが。
だが、今日は気分が乗らないから断ったわけではない。
その理由をわざわざ言うつもりもない。言ってしまったら絶対に面倒なことになるだろうし。
俺は振り返ることなく、足早に会社を後にした。
夕方の電車の中は、朝とは違う混雑をしていた。
どうやら人身事故で、数本前まで電車が止まっていたらしい。
そのせいか、いつもの夕方より乗車率が高い。
朝の寿司詰め電車ほどではないが、前後左右の人と体が触れる程度には人が多い。
社内は雑談をしている人が多く、それなりにザワザワとしていた。
出入り口近くのつり革に捕まりながら、壁に貼られた頭痛薬の広告をぼんやりと眺めていた、その時。
ゆらり、と車体が大きく左右に揺れた。
その衝撃で前にいた中年男性の頭が俺の眼鏡に当たり、眼鏡が少しずれた。
すかさず片手で眼鏡を直すが、中年男性は俺の方を振り返る気配もなく、謝る素振りも見せない。
少しムッとするが、いちいち気にするほどでもない。
余計なことを言って、変なことに巻き込まれる可能性もある昨今。面倒なことに関わるのはまっぴらゴメンだ。
気を落ち着かせ、再び目の前の広告に視線を戻そうとしたのだが――。
(――――ん?)
そこで俺は違和感を覚えた。
常時なら見過ごしていた、ほんの些細な、そして根拠のない違和感。
俺の眼鏡に頭突きした中年男性の前に、若い女の子が背を向けて立っている。
出入り口に手と体を密着させ、少し窮屈そうな雰囲気を醸し出す彼女。
混雑時によく見る、何てことのない光景だ。
しかしガラス窓にうっすらと反射して見える彼女の表情が、少し強張っているように見えたのだ。
(まさか――)
改めて頭突きをしてきた中年男性を見る。
何となくだが、その女の子との距離が近い気がする。
混雑しているから互いの距離が近いのは仕方がないのだが、それでもこの違和感の正体は――。
(痴漢、か?)
だが、俺の位置からは中年男性の手までは見えない。中年男性の隣にいる大柄な男の体が、絶妙な壁となっているのだ。
どうする?
……いや。
どうするも何も、ただの勘違いの可能性もある。その場合、俺がこの中年男性の社会的地位を終わらせることにもなりかねない。
逆上して暴力を振るわれる可能性だってある。
そうだ。このまま何も見なかったことにして――。
だが、そのタイミングで目が合ってしまった。
出入り口のガラスの窓越しに、女の子と。
やはり彼女の顔は強張っていた。そして、何か訴えかけているように見えてしまったのだ。
その時、なぜか脳裏に浮かんだのはぶっきらぼうに返事をする奏音の顔。
目の前の女の子も、奏音と同年代のように見える。
………………。
5秒か10秒か、はたまた30秒か。どれくらいの時間かはわからないが、俺は悩んだ。
時間が経つにつれて、なぜかこのまま彼女を放っておけない気持ちが強くなる。
もし彼女が奏音だったら?
俺は
もう一度ガラス窓に目をやると、彼女は何かに耐えるようにギュッと目を閉じていた。
これはもう、ほぼ痴漢で間違いない。
意を決し、中年男性の肩を掴んだ。
「――――っ!?」
大きく肩を震わせ、俺の方を振り返る中年男性。
驚愕に見開かれた目と俺の目が合う。
怯えた顔に見えるのは、まさかバレるとは思っていなかったからだろうか。
が、その時。
ガクン、と前につんのめるような形で電車が止まる。その揺れで倒れそうになり、俺は咄嗟に中年男性の肩から手を離してしまった。
しまった。駅に着いてしまったか!
間もなくドアが開くと、弾かれるように女の子がホームに降りる。
続けて中年男性も逃げるようにホームに降りた。俺もその後を追いかける。
だが、夕方の駅のホームは多くの人でごった返していた。
中年男性は人の波を簡単にすり抜け、あっという間にホームの向こうへと姿を消してしまう。
俺も慌てて後を追おうとするが、ちょうど反対側のホームに到着した電車から水が流れるように多くの人が出てきてしまい、思うように進めなくなってしまった。
この人の多さでは、走って追うことなど到底できない。
「くそっ」
悔しさで思わず声が洩れる。
逃がしてしまったか……。
しかしなんだよあの素早さ。相当慣れているってことか?
そこではたと思い出す。女の子の存在を。
女の子はホームの真ん中で呆然と立っていた。
その青い顔から察するに、やはりさっきの中年男性は『クロ』だったのだな、と確信した。
ショートパンツから伸びる健康的な太腿が眩しいが、だからといって当然触っていいものではない。あのおっさんに対する嫌悪感がさらに増す。
「その、大丈夫か?」
声をかけると、女の子はピクリと肩を震わせて振り返る。
「あっ!? あ、は、はい」
「もしかしてだけど、触られてた?」
「触られて……ました……。本当に痴漢っているんですね……」
途端に罪悪感の波が俺を襲う。
俺がちゃんと掴んでいたら、現行犯で駅員に突き出せていたかもしれないのに。
「あのおっさんの特徴を駅員に言いに行くか? 証言くらいなら俺もできるが」
「えっ!? いえ、それは大丈夫です」
「でも――」
「あの、気付いてくれてありがとうございます。その、こういうの初めてなのでびっくりしちゃったんですけど……つ、次はちゃんと声を出しますから!」
「いや、次も被害に遭ったらダメだろう」
「そ、そうかもしれないですが……。あの、でも本当に駅員さんには言わなくて結構ですので! 本当に本当に大丈夫ですので!」
なぜか
この子が良くても、これからこの駅を利用する他の女性にしてみればかなり良くない気もするのだが――。
とはいえ、無関係な俺がそこまで親切心を発揮する理由もない。
ここは彼女の要望通り、駅員に報せることはやめておくか。どうにもスッキリしないが。
「そこまで言うならわかった……。それじゃあ俺はこれで」
まぁ、あのおっさんに天罰が下る時はいずれ来るだろう。
後のことを神頼みにしたところで、俺はホームに並び直す。
当然だが、今のやり取りの間に俺が乗っていた電車は行ってしまっていた。次の電車を待たなければ。
というか早く家に帰らないと。奏音が待っていることをすっかり忘れていた。
「えっ、あの、もしかしてこの駅で降りる予定じゃなかったんですか?」
「そうだけど」
「じゃあ、ガラス越しに目が合ったの、気のせいじゃなかったんですね……。その、わざわざ私のために、ありがとうございました」
ペコリと頭を深く下げる女の子。肩まで伸びた髪が、サラリと前に落ちる。
結局助けられなかったので礼を言われるほどではないのだが。
俺はなんとなく居心地が悪くなり、無意味に首筋を触ることしかできない。
「それで、あの、本当に図々しいんですが、一つだけお願いがありまして……」
「何だ? やっぱり駅員に言いに行く?」
「いえ、そうではなくて……」
そこで彼女は胸の前で手を合わせ――。
「その、今日だけでいいので、今晩泊めてもらえないでしょうか……?」
潤んだ瞳で、理解不能な頼みをしてきた。
「――――――――はぁ?」
思わず俺は、おもいっきり顔をしかめてしまったのだった。
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