そのなな

そのなな

蘭は夜半にふっと目を覚ました。

頭上でスマートフォンが鳴っているのだった。もう、こんな時間に誰だよ!

と、蘭は、眠いのをこらえて、スマートフォンを取った。

「もう、何だよ。こんな時に!」

というと、電話の奥で、何かきこえてくる。それは次のように聞こえてきた。

「水穂さんの様子が、なんだかおかしいんだよ。」

電話の相手は間違いなく杉ちゃんのはずなのだが、ちょっと声色が違うよう

な気がする。

「おかしいってどんな?」

思わず、蘭は聞いた。

「晩御飯を食わせようと様子見に行ったら、ずっと咳き込んでさ、又いつも

のパターンかと思ったんだけど、咳き込んだまま、何も反応もしないので。」

杉三はそんなことを言っている。

「おい、杉ちゃん、もうちょっと詳しくそっちの状況を教えてよ。」

「だからあ、ずっと咳き込んだままなんだよ。呼んでも叩いても、何も反応

しないんだよ。」

蘭は、これは事だと、すぐに眠気が覚めて、すぐに製鉄所に行かなければな

らない!と思った。隣で寝ていた勝代を起こして、

「御免なさい。水穂の様子がおかしいので、急いで帰ります。」

と勝代の反応も聞かないで、すぐに寝たまま着物を着替え、手で張って移動

して車いすにのりこんだ。こういうときに、立って歩いて移動ができたら、

どんなに楽だろうと思った。でも、自分にはそれはできないのだった。

「蘭さん、あたしも手伝うから。」

いつの間にか、勝代が、車いすに手をつけている。勝代は、カードキーで部

屋のドアを開けて、エレベーターのあるところまで、車いすを押して行って

くれた。そして、エレベーターのスイッチを押してくれるところまでやって

くれたのだが、蘭は、勝代にお礼をいう事もできなかった。

「気をつけてね蘭さん。このホテルの支払いはしておくわ!」

勝代はそう言っている。

フロントに出ると、人はいなかった。蘭は大急ぎでタクシー会社に電話して

こんな時間で申し訳ないが、一台よこしてくれと頼んだ。タクシーは、深夜

なので、料金が二割ほど高くなるとかそんな事を言っていたが、蘭はそんな

こと気にしなかった。

眠そうな顔をして、タクシーがやってくる。蘭は、あくびをこらえている運

転手に介添えをしてもらいながら、タクシーに乗り込んだ。

「どちらまで?」

運転手はもう一度聞いた。

「えーと、大渕の製鉄所に!」

「はいよ。毎度あり。」

寝ぼけた顔をして運転手は走り始める。蘭も、急いで急いでと催促する。な

ぜか普通の車なのに、ものすごく遅く感じられた。

「もう速くしてくれ!本当に!もう大変なことになっているんだから!」

思わず、蘭は、そういってしまったのだった。運転手は、制限速度を守らな

いといけないんだが、と言ったけれど、蘭にはそんなこと聞こえなかった。

「お願いだ、速くしてくれ!でないと、本当にたいへんなんだよ!」

「わかりましたよ。お客さん、じゃあ、高速道路を利用しましょうね。有料

道路名なので、一寸、料金割増になりますが、よろしいですね。」

「おう!そんな事はどうでもいい。すぐに走らせてくれ!」

誰も走っていない、田舎の高速道路を、とにかく蘭は、一生懸命飛ばしても

らった。高速道路を走ってもらったおかげで、蘭は、予定していた時間より

早く目的地に着くことが出来た。料金は、現金では足りなかったので、クレ

ジットカードで、支払った。カード払いができるタクシーでよかったと蘭は

思った。

蘭は、運転手にタクシーから降ろしてもらって、すぐに製鉄所に直行した。

「水穂、水穂はどこに!」

車輪を拭くのも何もかも忘れて、四畳半に飛び込む。四畳半には杉ちゃんと

帝大さんこと、沖田先生がいた。

「水穂、水穂!」

水穂は、布団に寝ていたが、肩で苦しそうな息をしている。もう咳き込んだ

りはしていない。けれどそれは回復したわけではなく、咳きこみ続けて力つ

きてしまったということを示しいていた。

「あの、やつはどうして。」

蘭は、声を高く上げた。

「ああ、先ほどまで咳き込んでいましたが、数分前からもう喀出できなくな

ってしまったんでしょう。今はもうごらんのとおり、意識もありません。そ

れでは、もう、彼にとって、最後の時間といわざるを得ません。」

と、帝大さんは説明した。それではもう、助からないという事だ。

「おそらく詰まった血液を吐き出そうとして、それで咳き込んだんでしょう。

それが、余りにも大量過ぎて、自分ではできなかったんですな。」

「つまりこれは、吐瀉物を吐き出そうとして、その吐瀉物がのどに詰まった

事による、、、。」

と、蘭は言った。その続きを口にすることは、蘭にはできなかった。

「窒息死だ。」

と、杉ちゃんが代わりにいった。

「なんで、、、。」

蘭は、そういわれると怒りがこみあげてくる。

「なんで、杉ちゃんも沖田先生も、救命病院に運ぼうという発想は思いつか

ないんだよ!」

「だから言っただろ。歴史的な事情があって、病院をたらいまわしされるの

が、いやだったから。其れじゃあ、水穂さんも可哀そうだろ!」

杉三がいつも通りの答えを出した。

「バカ!そうじゃなくて、救命措置をしてもらえば、助かったかもしれない

んだぞ!なんで通報しなかったんだ!救命救急という物は、そのためにある

んじゃないのかい!」

蘭は、もう怒りに任せて、杉三を責め立てたが、杉三は、返事をしなかった。

「おい、杉ちゃん!それに沖田先生も!今からでも遅くないよ。すぐに119

番通報して、、、。」

「いや、もう遅すぎます。それでは無理です。おそらく搬送する前に、息絶

えるでしょう。」

と、沖田先生は答える。

「なんだ、もう遅すぎるなんて!何とかして奴を助けてやれる方法は何もない

のですか!」

蘭は沖田先生にくってかかったが、

「はい、何も在りません。」

と、沖田先生はピシャンと言った。

「多分搬送しても無駄でしょう。それなら、この製鉄所で静かに最期を迎え

させてやりましょう!」

「それでは、放っておくしかないというのですか!アンタたちはその歴史的

な事情に甘えて、水穂を放置して死なせようというのですか!それこそ、究

極の人種差別だ!おい、こうなれば僕がよんでやる!」

蘭はスマートフォンを取り出して、ダイヤルしようとしたが、スマートフォ

ンの電池が切れていて、電話をすることが出来ない。杉ちゃんのスマートフ

ォンを借りようと試みたが、杉ちゃんはスマートフォンを持ってくるのを忘

れていて、電話をすることはできなかった。沖田先生は、スマートフォン自

体を持っていなかった。

水穂さんの吐く息が、次第に荒くなっていく。苦しそうだ。蘭は、いそいで

水穂に、

「おい、もうちょっと頑張ってくれ!おい、もうちょっとだ。頼むから。今

利用者さんか誰かにスマートフォン借りて、お前を救急車で運んでやるから

な!お願いから、もう少し頑張って、お願いだ!」

といった。隣で杉ちゃんが合掌しているのが見える。蘭は、其れが嫌で仕方

なかった。水穂の息継ぎが、荒くではなくて次第に弱くなっていくのも確認

出来た。これでは、もう、救急車を呼んでいる暇もないのかもしれない。そ

れでは、どっちもできないじゃないか!パニック状態になりながら、蘭はこ

う叫んだ。

「おい、水穂、しっかりしてくれ、お願いだ、目を開けて。水穂、水穂、水

穂ってばあああ!」

「蘭さんどうしたの?すごくうなされてたわよ。」

ふいに女の人の優しい声。

誰だろう、と思って蘭が周りを見渡すと、そこはホテルの一室で、製鉄所で

はなかった。

「どうしたの?悪い夢でもみたの?」

となりにいたのは、勝代だ。

あれれ、僕は製鉄所にいたのではないだろうか。

「あれれ、、、。」

蘭は、思わずぽかんとしてしまう。

「蘭さん、夢見ていたの?水穂水穂と叫んでいたけど、水穂さんの夢だったのではないの?」

「ああ、ああ、ああ。そうかもしれない。」

蘭は、顔中に流れ出ている汗をタオルで拭いた。

「もうすごい汗だわ。其れ、ふかなくちゃ。そのまま放置していると、風邪をひきますから、拭いて差し上げるわ。」

勝代は、風呂場からタオルを取り出して、蘭の浴衣を脱がせ、肩や首を拭く。それでは、まるで蘭が病気になって、勝代に清拭してもらっているようだ。

「ありがとうございます。」

蘭は、申し訳なさそうに言った。

「もうすごい汗よ。それでは、浴衣を新しいのに変えたほうがいいんじゃないかしら。それでは、私、フロントに電話して差し上げるわ。ちょっと待ってて。」

勝代は、きびきびとホテルの内線電話を出して、電話をかけ始める。

「もしもし、あの、フロントさん、同室の人が寝汗をすごくかいてしまったの。すぐに新しいお寝間着持ってきてくださらない?ああ、本当。じゃあお願いしますね。」

勝代は電話を切った。

「すぐに持ってきてくださるって。しばらく、待って。蘭さん、今、水穂さんの夢を

見ていたの?」

勝代はまた蘭に言った。

「ああ、そうです。」

と、今度は、蘭ははっきりと言った。

勝代は、何か寂しそうな顔をして、蘭を見た。


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