そのろく
そのろく
翌日。
アリスはまだ帰ってこなかった。当分帰ってこないらしい。そのほうが返って良いと蘭は思った。
午前中は、杉ちゃんも、こなかった。杉ちゃんは、水穂のいる製鉄所に行ってしまったのか。僕はどうせ、置いてきぼりか。
一人でお昼にカップラーメンを食べていると、蘭のスマートフォンが鳴った。
「蘭さん今日は、今、北海道新幹線に乗ったところです。多分三時くらいには東京駅に着くんじゃないかしら。東京駅からは、すぐにそっちにつけるように、ひかりに乗り換えるようにしますから。」
ああ、勝代さんからだ!多分蘭を待たせないために、東京駅でひかりに乗ってくれるということなんだろうが、
「すみません、ひかりは、新富士は止まらなくて。だから、東京駅からこだまで来て下さい。」
と、蘭は、メールを打った。するとすぐに返信があって、
「ああ、それはもうスマートフォンで調べました。幸いこだまがすぐに来ますから、三島駅から乗り換えるようにしますよ。」
と、書かれていた。これでは、勝代に先を越されたような気がしてしまう。でも、このときの蘭は、それは気にしていなかった。そんなこと気にしている余裕はなかった。
とりあえず、蘭は昼食を食べ終えて、急いで支度をする。アリスにばれてしまわないように、できるだけ、それまでと変わらないように昼食の片づけをしてスーツケースに着物をしまう事もなく、ただ、カバンと財布とスマートフォン、タブレットだけもって、家を飛び出すように出て行った。
新富士駅は、非常に近いところにあった。北海道から来るわけであるから、何時間もかかるのに、蘭は改札口で、勝代が来るのを待った。
「蘭さん、今東京駅につきました。これからひかりで三島駅へ向かいます。三島駅からは、こだま号に乗り換えます。そうしたら、新富士駅の改札口のところにいてください。」
そのメールが来たとき、太陽は、西に傾き始めていた。北海道から東京駅まで、少なくとも三時間はかかったのだろう。
あと一時間か。一時間で来てくれるんだ!そうすれば、勝代さんに会えるんだ。嬉しいのか、嬉しくないのか、なんといえば良いのだろう。そういう複雑なきもちである。その時が今か今かこないかと、蘭は、駅の壁掛け時計を、ずっとみつめていて、目が離せなかった。
やがて、蘭は疲れてきて、そろそろ待つのもつかれたなと思い始めてきたその時。
「蘭さん!」
と、後から声がした。
蘭が振り向くと、勝代その人が、後にたっていたのであった。
「勝代さん。」
蘭は、そのときだけはしっかりしているつもりだったのに、勝代の顔を見ると、涙が出てしまって、どうしようもないのであった。
「どうしたの。蘭さんは。挨拶するなら、涙ではなくて、こんにちはでしょ。」
「すみません。ようこそ北海道からはるばると。」
勝代にそういわれて、蘭は急いで顔を拭いて、にこやかに笑った。
「それでは、どこかで食事でもしましょうか。」
「そうね。」
と、勝代は言った。その言い方にあまり覇気がなく、疲れてしまっていることがよくわかる。
「蘭さん。ごめんなさい。電車にずっと乗りすぎて、ちょっと疲れてしまったみたい。」
これを聞いて、勝代をかわいそうにおもった蘭は、
「そうですか。じゃあ、ホテルに行きましょうか。もう三時は過ぎてます。駅前のホテルは、確か三時には、チェックインできると思います。昨日、電話番号お教えいたしましたよね。チェックインして、ラウンジかどこかで休みましょう。」
と提案した。勝代もそうね、それがいいわね、といい、二人は先日オープンしたばかりの、例のホテルへ移動していった。ホテルの玄関先へ行くと、勝代はフロントへ真っ先に行った。
「すみません。あの、電話いたしました、渡辺勝代ですが。」
勝代は、フロント係りに声を掛ける。
「はい、渡辺様。ご予約承っております。ツインの部屋とおっしゃっていましたよね。」
「へ?」
当然のように言うフロント係りに対して、勝代は目を丸くした。
「あたしは、シングルの部屋をお願いしたはずですが?」
「いえ、こちらに申し込まれたのは、ツインの部屋をお願いするプランになっております。」
「あら行けない。あたし、間違って、そのプランをクリックしてしまったのね。
急いでいたから、確認する暇もなくて、、、。」
「はい。お二人で見えたから、ツインの部屋でいいのかなと思ったのですが。」
全く融通の利かないホテルだなあと思いながら、蘭は、それを聞いていた。おそらく勝代は、インターネットで宿泊プランを探して、申し込んだのだろうが、急いでいたせいで、間違って、ツインのプランをクリックしてしまったのだろう。
「勝代さん、僕、泊まりますよ。どうせ、家に帰ったって、誰もいませんから。一人で、寂しく寝るのなんて、遠くの北海道から来たのに、嫌じゃないですか。」
蘭は、困っている勝代に静かに言った。
「いいんですか、蘭さん。奥さんに怒られたりしないの?」
「ええ、大丈夫です。忙しすぎて、僕の事を叱るような暇もない女ですから。」
なぜか、そんな台詞が出てしまった蘭だった。
「じゃあ、お願いしようかな。」
勝代は、静かに言う。
「すみません。私達二人で利用しますので、部屋の変更はしなくて結構です。」
「わかりました、部屋は、305号室です。エレベーターでどうぞ。」
フロント係りは、勝代にカードキーを渡して、また別の人の受け答えを始めてしまった。どうやら、このホテルは、最小限のサービスしかしないらしい。まあ、それはあってもなくてもいいことなので、二人は、そのままエレベーターの前まで移動していった。
エレベーターで三階まで行って、二人は部屋に入った。まあ、可もなく不可もない、平凡な二人部屋。車いすでも、充分に移動できるスペースはあった。
「よかったわ。フロントは冷たいけど、ルームサービスはあるみたい。ほら、ここにメニューがある。」
勝代は、テレビ台の引き出しを開けて、ルームサービスのメニューを取り出す。
「これでお食事、頼んじゃいましょ。なんだかレストランに行くのも疲れて面倒なのよ。」
「わかりました。そうしましょうか。もうすぐ、晩御飯の時間になりますから、頼んでしまいましょうか。」
「いいわ。じゃあ、何を食べたいかおっしゃって頂戴。私、フロントに電話します。」
勝代は、メニューを蘭に見せた。蘭は、少し考えて、パスタのセットをお願いすることにした。勝代も同じものを食べることにした。同じものを食べる何て本物のカップルみたいと勝代は笑った。すぐに勝代は電話をフロントにかけてルームサービスをお願いした。小一時間ほど二人は黙って過ごしたが、しばらくして、ホテルマンがやってきて、二人分のパスタセットを持って来てくれた。二人は、テーブルの上にパスタの皿を乗せて、パスタを食した。
「勝代さん、先日のメールで。」
蘭はやっと本題を言う。
「確か、御主人が大変だって、おっしゃってましたよね。こんなところで、話をするのも、嫌ですか?」
「そうね。」
勝代は少し涙を浮かべて言った。
「もう、私は、完全にさらし者になっちゃったわ。看護師さんに言われちゃったの。私たちがご主人の看病をしますから、もう、入れ墨をした奥さんは、来ないでくださいって。それを、姑たちが見ていて、ほら見なさいって、騒ぎ立てて、、、。」
そうか、勝代さんもそういうことで悩んでいたのか!自分と同じことで悩んでいる人が目の前にいて、蘭は、よけいに勝代が愛しくなった。同じことで悩んでいるのなら、勝代さん、僕にできることはないですか?
「一生懸命主人の事見ているつもりなのに。刺青をしているっていうことは、そんなに悪いことかしら。だって、家庭内暴力で苦しんできた人たちは、皆、それによって、救ってもらったと、口をそろえて言うのよ。」
勝代は、そういっている。僕も、同じ気持ちだ。リストカットをどうしてもやめられないと言って、悩んでいる女性たちに刺青を施してやったことで、彼女たちは見違えるように明るくなった。それを蘭はすごいことだと思っている。誰でもが、傷跡を除去する手術を受けられるはずがない。それをできないのなら、刺青はすごく役に立つと、蘭は確信しているところがあった。事実、切りたいという衝動に駆られても、腕に彫られた花を見ればその気持ちも和らぐようになったという、手紙をたくさん受け取っている。それを、ただ極道と同じことをしているとか、そういう風に解釈してもらいたくないのだが、どうもそれは、日本にいる限り避けられないもののようだ。
「私のところにやってくるのなら、結局、その本元を作っているのは、日本の社会じゃないの。本来、健康な夫婦であれば、家庭内暴力なんてありえないでしょう。最近では、子供さんからの暴力に悩むお母さんにも依頼をされたこともあるのよ。それで受けた傷跡をあたしは消してあげているの。いいえ、そうじゃなくて、別の柄を入れて、もう暴力を受けないようにしているのよ。その、どこが悪いというのかしら。」
話が進むにつれて、勝代の声は泣き声になってきた。蘭は、それを見て、なぐさめてやらねばという感情だけではなく、別の感情がわいた。そう、これである。抱きしめたいと。
勝代は、蘭が注いだワインをがぶ飲みした。でも、本当は酒に強い人ではないようで、ワーッとなきながら、テーブルの上にふさってしまう。蘭は、そっと、音を立てないように車いすを動かして、勝代にストールを掛けてやったのであった。
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