そのご

そのご

蘭は、その日だけ、気分がよくなったような気がした。いや、本当にその日だけであった。というより、気分が良かったのはそのときだけである。そのあとときたら、まさしく最悪だった。

「ただいま。」

夕方、太陽の光も消えうせようとしていたとき、杉三が帰ってくる音がした。

いい気分になっていた蘭は、すぐに隣の杉ちゃんの家に行った。

「あ、おかえり杉ちゃん。」

と、蘭は、声をかけたのであるが、

「あーあ、つかれたぜ。」

と、杉ちゃんは声を上げた。

「おい、杉ちゃん、疲れたって何に疲れたんだ?」

蘭は、明るくそう聞いたが、杉ちゃんは、ため息をついて、苦笑いするだけである。

「杉ちゃん、みんな元気か?」

蘭は、杉ちゃんに聞いた。

「元気なわけないでしょう。水穂さんは咳き込んで辛そうだった。もうちょっとしたら、帝大さんに見せなきゃいけないな。また、叱られるぞう、こりゃ。」

嫌そうな顔をして、杉三はボソッという。まるで、蘭にそのことを聞かれるのが、本当にいやそうな顔をして。

「杉ちゃん、そんな顔しないでくれよ!なんでそんなこと黙ってたの!」

蘭は、でかい声でそう言った。

「何でそのこと、話してくれなかったんだよ。杉ちゃん、時折で良いから、水穂のこと、こっちに報告するようにって、言っておいたじゃないか!」

「馬鹿だなあ。報告なんかできるもんかよ。お前さんに話したら、またでかい声出してワーワー騒ぎ立てるじゃないか。そうなると迷惑だから、それは、言わないでおいたの!」

と、杉三は又言った。

「杉ちゃん。とにかく水穂の事をちゃんと教えてよ。」

蘭は、もう一回杉ちゃんに聞く。

「そうだなあ、教えれば、また、お前さんは騒ぐからなあ。」

杉三はわざととぼけた。

「杉ちゃん、僕の質問の時も、ちゃんと答えを言うようにしてくれよな。いつも杉ちゃんは、いちいち答えが出るまで質問を続ける癖があるが、それでどのくらい僕が迷惑しているか、これでわかるだろうからな!もう、同じ気持ちになって考えてみてくれ!お願いだからあ!」

「わかったよ。それならしょうがないな。もう、水穂さんも、あれじゃあだめだよ。もう体が、疲れ果ててしまっている見たいで、起き上がるのも、ご飯を食べるのも、一苦労している。」

杉三はボソッと答えた。それを聞いて蘭はまた、杉ちゃんにはめられてしまった自分を情けなく思った。

「何でそんなこと、はじめに言わないんだよ。そこまで悪いなら、僕が、病院に連れて行くとかそういうことしてやれるのに。少なくとも、こっちにいるよりは、病院で静かにさせてやるほうが、喜んでくれるんじゃないのか?少なくとも、急に悪くなった時だって、すぐにお医者さんがいるし、看護師さんもいるはずだし、ずっと楽にしてくれると思うけど、、、。それに、そういうところにいさせてやったほうが、水穂だって、安定した状態を保ってくれる。というか、保つようにしてくれるじゃないか。そうだろう?だから、そうすることが、水穂にとってもいい状態につながるんだよ!」

「果たして、水穂さんは喜ぶかなあ?水穂さんは、前に病院に行ったとき、明治時代からタイムスリップしたのかって、医者にからかわれたんだぞ。看護師だって、水穂さんの出身階級がばれちゃったら、きたない奴を看病するなんて、あたしたちしたくないわって、次々に逃げていくだろうよ。それを言われたときの事を、考えてみろ。かわいそうだろ。又同じ事を言われたら、どうするの。そんなこと言われたらかわいそうだから、僕は、そういう事はさせたくありません。」

杉三の話ははっきりしていて、蘭は、反論することができなかった。

それでも、、、。

「いや、僕は水穂をどうしても救いたい。僕は何とかしたいんだ。それではいけないのか!そう思うのはいけないのか!」

「いや、無理な物は無理という言葉もあるよ。それに、善意の押し売りは、かえって当事者にとっては迷惑極まりないこともある!蘭がしていることはその善意の押し売りだ!そういうことされたってな、水穂さんはうれしいとも何とも思わんよ。また、差別的に扱われたりされて、嫌な目に会うだろうなっていうことしか、思わないだろう!」

杉三は、はっきりといった。そういわれて蘭は、もう自分は役に立たなくなってしまったのかと、もし歩けたら地団太を踏んで悔しがった。僕にはどうしても水穂を救う方法はないのか!

「悔しいのはわかるけどさ、それ、いい加減に受け入れた方がいいよ!もうね、何とかしようなんて、考えられる状態じゃないんだ。それだけは、きっと確かだぜ!」

そうか、そうなってしまったか。

蘭は何もいえなかった。

「さて、僕も晩御飯食べなくちゃ。水穂さんにご飯くれて、すごく疲れたよ。もう、何回も吐いちまって、こっちがご飯を食べるの忘れるくらいだ。でも僕は出来合いとインスタントは大嫌いだから、作らなきゃいけないな。さて、魚でも焼くか。」

と、杉三は冷蔵庫の方へ移動していった。暫くして、冷蔵庫のほうから、炭坑節を口笛で吹いている音が聞こえてくる。何とも明るくて陽気な口笛だ。まったく杉ちゃんときたら、なんでそんなに明るいままでいられるんだ。そんなに明るいのなら、もっと前向きに、水穂を何とかしようと思わないのか。本当に杉ちゃん、君という人は、ちょっとおかしいのでは?蘭は、嗚咽しながら、静かに杉三の家を出て行った。

自宅にかえっても、電気すらつける気にならない。そういえば今日はアリスも妊婦さんのお宅に泊まりこみで、帰ってこないんだった。最近、そういう泊り込みが増えている。妊婦さんがいろいろ問題があって、出産が近づいて来ると、不安で仕方ないので、助産師さんにそばにいてほしいという人が多くなっている。最近の若い女性は、出産というものが、非常に怖いものになっているのだろう。昔の女性だったらそういう人は少なかった。いたとしても、家族がサポート役をちゃんとした。今は、家族というものがてんでばらばらで、金を払って他人にやってもらうほうが、正統派になっている。それについて、偉い人達は、善という人もいるし、悪という人もいる。

「あいつは、すごく楽しい生き方をしているよ。僕は、そういう事は何もできないなあ。水穂ばかりか、杉ちゃんにまで必要とされていない。」

やっぱり、医療関係の仕事という物は、必要とされる確立が高くなるらしい。僕は、何もできないんだろうな。杉ちゃんは、食べ物を作ることで、水穂にかかわりが持てるが、僕は何もないもの。そう思いながら、蘭はそうつぶやいて、やけ酒でもしようかと思った時。

不意に、真っ暗な部屋の中で、メールを受信した音が入った。

誰だろう?と電気をつけて、パソコンの方へ向かう。パソコンを見てみると、差出人は、あの、渡辺勝代だ。

「蘭さん、御免なさい。明日、貴方に会いに行ってもいいですか?今日、北海道新幹線の切符を買いました。それで東京まで行って、東京から、新富士まで、東海道新幹線で行きます。もし良かったら、どこかでお食事でもさせてください。」

と、書いてあった。蘭の目に間違いがなければそう書いてある。蘭は返事を書こうとパソコンに手をかける。すると、すぐにまた受信音が鳴って次のようなメールが入ってきた。

「あ、御免なさい。蘭さん、馬鹿なことを書いてしまいました。本当に、もうどうしようもなくて、明日の切符を買ってしまいましたけど、蘭さん迷惑なだけですよね。ごめんなさい。明日の切符はすぐに捨てるわ。今の話は、思わず衝動的に書いてしまっただけなんです。それでは、気にしないで下さい。」

蘭は、それではいけないと思い、急いでメールを打ち始める。

「まって。まだ捨てないで下さい。切符は、捨てないで下さい。明日何時の新幹線にのる予定ですか?東京駅に着いたら、連絡下さい。新富士で待っていますので。」

暫く沈黙が続く。

「勝代さん、、、。」

彼女も悩んでいるんだろうな、という事がわかったので、蘭は、彼女の申し出を受ける事にした。昨日のメールに書いてあった事が本当なら、勝代は、相当悩んでいるだろうから、僕が何とかしてやらなければ。

「良いんですか?だって、蘭さんは奥さんもいるでしょうし、他にもいろいろ用事もあるでしょうし。そんな迷惑かけたくありません。だから、この切符は捨てます。」

と、勝代の返信メールにはそう書いてあった。

「いえ、本当に大丈夫です。妻も、暫く仕事で帰ってこないし、ほかの事でも、僕は完全に不用品ですから、一日ぐらい時間は作れますよ。駅は近いから、すぐにいけますし。ホテルは大丈夫ですか?駅前にすごく大きなホテルが、先月オープンしたんです。もしよければ電話番号送りますから、そこでゆっくりして下さればいいじゃありませんか。」

とにかく、蘭は、できる限りの持てなしの言葉を、一生懸命書き出した。

「是非、北海道から、静岡に来て下さい、北海道新幹線の切符だってお高かったんじゃないですか。それでは、無駄にしてはいけません。会いに来てください。明日東京駅に着いたら、連絡下さい。僕は新富士駅で待機しています。新富士は、小さな駅なので、迷う心配はありませんから。」

「そうね。」

勝代は、ようやく決心してくれたようだ。

「じゃあ、お会いしようかしら。」

蘭は嬉しくてとびあがりたい気持ちだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る