第4話


 正午くらいが頃合かと考えていたものの午前中の早い段階でホテルを引き払うことにした。僕は荷物をキャリーバッグに詰めてノートテキストペンホテルを後にした。

 喫茶店の窓際の席に座って午後から面会を予定している人物の到着を待った。どうやら既に梅雨は明けていたらしかった。喫茶店の窓からはそれと分かる夏の空が見えていた。

 「友人が行方不明だ」

 約束していた時刻通りに到着すると彼は開口一番にそう言った。彼が不健康な状態にあるということはひとめで分かった。青白い顔に無精ひげが伸び、肩からかけた灰色の鞄を外敵から守るように大事そうに抱えていた。とりあえず席に座るのがよろしいのでは、という僕の遠まわしの催促に従って彼はまるで落下するように着席した。そして同じ言葉を繰り返した。

 「友人が行方不明だ」

 「なるほど」

 僕は慎重を期して頷いた。重々しく深々と可能な限りおおらかに頷いたが、彼の言葉は正常な処理が下されないまま僕の頭を通り抜けていた。ものの見事に僕の頭は彼の言葉を理解することができなかった。僕は慌てて意識を集中させて今度は然るべきリズムで彼の言葉を反芻した。

 「友人が、行方不明?」

 「何度も言わせるな」

 「失敬」

 なるほど。どうやら彼の友人は行方不明なのだそうだ。つまり、彼と交友関係にある人物の行方が彼の予期しない形で分からなくなってしまったと、そういうことだ。なるほどなるほど。僕は極々簡単な読解を終えて答えた。

 「奇遇だ。俺も同じ状況にある」

 「は?」

 「俺の友人もお前と同様に行方不明なんだよ」

 「ほほう」

 今度は向かいの席の彼が頷いた。しかし、彼が僕の言葉を理解していないだろうことは一目みて明らかだった。どうやらお互い正常な意思疎通の回路が上手く作動していないようだ。

 これ以上ちぐはぐなやり取りを交わしていても仕方がない。僕は本題に入ることにした。

 「『ムーア・リィクス』読んだぞ」

 向かいの席の彼は僕の言葉に苦笑して応えた。

 「ああ、あれね。どうだった?」

 「まるで頭に入ってこなかったな」

 僕は答えた。

 僕の回答に向かいの席の彼は肩をすくめてみせた。どうやら彼も同意見らしかった。

 それにしても。

 「一ヶ月か、早いな」

 「依頼をしたのはお前だろう?」

 「違う」

 「ああ、『あいつ』か」

 「『あいつ』だよ」

 「なんだ、そういうことか」向かいの席の彼は口を尖らせてそう言って小さく頷いた。「まあ、妥当な結論か。お互い厄介な友人を持ったものだ」

 「バカらしい。バカらしいことこの上ない。となると、この一ヶ月の苦労はなんだったんだ」

 「そそのかされた俺たちが悪い。自我統合なんてさ」僕は両手を上げて降参のポーズを取った。「こちらからは手の施しようがない」

 「手の施しようがなくても足蹴にすることはできるぞ」

 そうでなくとも愚痴くらいは吐いておかないと腹の虫が収まらん。向かいの席の彼はそう言って『あいつ』に関する愚痴を並べ立て始めた。それには僕も快く協調することにした。僕と彼は、まるで除夜の鐘を力任せに叩きまくる坊さんのように手を変え品を変え『あいつ』の愚痴を述べ合った。しばらくのあいだは僕らは喫茶店の客らしく、共通の知人の愚痴に花を咲かせた。カップが空になり手持ちの愚痴を消費し終えると、ではそろそろ行きましょうかと立ち上がって喫茶店を出た。僕らは夏の日差しの下を歩いていくことにした。

 「『ムーア・リィクス』はノンフィクション小説だという意見もある」

 赤信号を待っているときに僕らのうちのどちらかが言った。この際、どちらが言ったかなんてどうでもよいだろう。どちらかの発言にどちらかが応えた。

 「あんなノンフィクションがあってたまるか」

 「で、結局のところ最初に分裂を起こしたのは誰なんだ?」

 「俺じゃないぞ」

 「俺でもない」

 「我こそオリジナル、我こそ統合者なり、なんて息巻いていたんじゃないの?」

 「お前こそ」

 「ま、いいじゃないですか」

 「それにしても暑いな」

 「いやあ、ほんと暑いな」

 しかし、会話は長くは続かなかった。信号が青に変わり、僕らは一時的にせよ通行人たちの波の中をすり抜けて歩くことに意識を割かなければならなくなったからだ。横断歩道を渡り終えてみると僕らのうちのどちらかがいなくなっていた。振り返って辺りを探してみてもやはりどこにもいない。きっと夏の暑さに溶けて消えてしまったのだろう。僕は気にせずひとりで歩いていった。

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