第3話
「これより第二十三回『ムーア・リィクス』編集者会議を始める」
旧友は原稿用紙を広げて聖書を音読する牧師さんのように厳かに宣言する。ノートテキストペンホテルの地下四〇五号室の空気は張りつめている。
「『ムーア・リィクス』編集者会議は小説『ムーア・リィクス』の一層の発展と飛躍を目的とするものである。小説『ムーア・リィクス』は混迷の一途を辿っている。ひた走っていると言ってもよい。大筋は崩壊し起承転結は忘却され、幾度となくクライマックスが繰り返されることで既にクライマックスの意味は喪失している」
旧友は無念そうに首を振った。
「由々しき事態であると言わねばならないだろう」
「しかし、『ムーア・リィクス』編集者会議の参加者は小説『ムーア・リィクス』の一層の発展と飛躍を願う者たちで構成されています。ここに集まったものたちは等しく同じ思いを共有しております」
僕の提言は全体的にクレッシェンドするように為される。この部屋には僕と旧友の二人しかいない。
「この混沌とした状況から『ムーア・リィクス』を救い出す手立てがどこかにかならずあるはずです。本質を見ぬく深い読解と現状を一新させる鋭い批評。私たちにできることはそれしかありません」
僕の言葉に旧友はかすかに微笑み、そしてそれをすぐに削除した。
「よろしい。では、あらためて本会議における第二十三回編集者会議の役割を述べよう。『ムーア・リィクス』は完全に崩壊しており既に小説の体を保ってはいない。しかし、希望を捨ててはいかん。我々は全力をあげて小説『ムーア・リィクス』の統合と再構成を試み、そのきたるべき完全体の理想像の構築に全身全霊を捧げるものとする」
旧友はこの編集者会議の議長だ。僕らはこの手狭なホテルの一室で、三週間、ぶっ通し漬けで編集者会議を行っている。連日ほぼ徹夜だが苦しくはない。すべて『ムーア・リィクス』への情熱ゆえになされていることだからだ。
「早速ですが私から小説『ムーア・リィクス』のこれまでの物語と議論の争点を述べさせていただきます」
手短に頼む、と旧友は僕を促した。その様子はさながら村の安寧を一身に引き受けた長老のようだった。
「『ムーア・リィクス』は人探しの物語であります。主人公の「僕」と仲間のムーアとリィクスは家出中の友人を探すための旅を続けています。しかし、これまでの編集者会議においても幾度となく指摘がなされてきたように、彼らはいまや本来の目的である友人探しを完全に忘れ去ってしまっている。彼らは冒険を続けはていますが既にミイラ化したミイラであります。家出した友人の行方を探すという本来の目的を忘れてしまっているのです」
その忘却こそが論点となっている、と僕は続ける。
「『ムーア・リィクス』は立派な冒険譚として仕上がっています。しかし、この物語は今まさに本末転倒状態にあり、むしろすべては滑稽の域に昇華されようとしています。現在の状況及び文脈においては、いかなる活劇が起ころうとカタルシスは無効化されてしまうでしょう。お前たちは家出中の友人を探すんじゃなかったのか、と読者は考えるからです」
「今回送られてきた原稿にも家出中の友人についての言及はなかったのか?」
「ええ、隅から隅までチェックしましたが一度も言及されていません。むしろ悪化さえしている」
「悪化? 悪化とはどういうことだ?」旧友が訝しげに言った。
「またしても我々は失敗したということです。原因は執筆と読解の悪循環です。我々は問題の核心を見過ごしていたのです。こちらをご覧下さい。世界は二極化していたのです」
僕はノートテキストペンホテル地下四〇五号室の壁面にホワイトボードを掲げて言った。そこには徹夜して僕が下した結論が示されている。
「まさかこんなことが」
ホワイトボードを見るやいなや議長であるところの旧友から嘆息が漏れた。予想以上の結末に打ちのめされてしまったのだろう。無理もない。これまで繰り返されてきた議論のそのあんまりな結末が今まさに眼前につきつけられているのだ。
旧友は肩を落として呻いた。
「驚くべき事実だ。弁明の余地はないな。なんということだ、すべて我々の過失ではないか」
「残念ながらその通りです。すべての責任は我々編集者側にあります。問題の核心は我々が考えていたようにあるいは我々が拘っていたように小説『ムーア・リィクス』のテーマにはなかったのです。単刀直入に言いましょう。友人探しに回帰させようとする方法ではこの物語を完成させることはできない。むしろ小説『ムーア・リィクス』を混沌に陥れていたのは、いわば執筆と読解の分裂状態から導き出される友人回帰説そのものだったのです」
僕はホワイトボードを叩いて訴えた。
「我々が考えるべきは冒険の高揚感ではありません。我々が本当に考えなければならないのは彼らが危険な冒険を冒してまで探し出そうとする友人の、その像なのです。おそらくそれこそが『ムーア・リィクス』の真の姿でしょう」
旧友は深く同意し、熱いディスカッションが長時間にわたって行われた。
会議の最後に僕と旧友は冷蔵庫に残っていた炭酸飲料水で乾杯した。炭酸飲料水はちょうど一杯分ずつ残っていた。その味が葡萄だったか林檎だったか、あるいは別の果実だったのか、僕の記憶には残っていないけれど、頭が冴え渡るように美味しかったことだけはよく覚えている。
二十三日目の朝、旧友が姿を消した。それでも僕はいつもと同じように編集議事録をこしらえることにした。時間を区切るための枷が消えて室内には永遠が舞い込んだ。そして『ムーア・リィクス』は完成した。
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