第2話

 ノートテキストペンホテル一九〇五号室にはタイプライターの打鍵音が鳴り響いている。

 「調子はどう?」

 夕方ごろ一九〇五号室に帰ってきた旧友が言った。

 「峠は超えた。残り二十五枚だ」僕はタイプライターの打鍵を止めずに答える。

 「順調だね。今から出かけるけど、なにか食べたいものはある?」

 「サンドウィッチ」

 「分かった」旧友はそう言うと、またすぐに街へと出て行った。僕はタイプライターを叩き続ける手を止めることなく、じゃあねとだけ言った。

 僕は小説『ムーア・リィクス』を書くこととなった。

 僕は一日に四百字詰め原稿用紙五十枚を書き上げる。文字数にして二万文字。書くのは小説の文章だが、もちろん筋書きの作成や文章校正などを平行していては不可能だから分業が行われている。毎朝、僕はノートテキストペンホテルのフロントに赴き『ムーア・リィクス』のプロットを受け取る。今後の展開はどうだとか、登場人物たちの生まれ故郷がどうだとか、ここに伏線を張っておけだとか、プロットにはそのようなことが事細かに記されている。タイプライターを打つこと以外に僕が考えることはなにもない。「登場人物は動物園に向かう」とあれば僕は登場人物を動物園に向かわせるし「植物園に向かう」のなら植物園に向かわせる。「動物園に向かった理由」を僕は考えないし「どのような植物園に向かったのか」を考えなくてもよい。僕はタイプライターを叩いて「翌朝早くに彼らは動物園に向かった」という文字列を打ち込めばよいのだ。

 『ムーア・リィクス』には語り手とその仲間のムーアとリィクスという三人の子どもが登場する。僕の仕事は登場人物が主語に据えられ適当な述語と結びつくあいだに幾つかの品詞が挟みこまれた文章を連続的に作成し続けることだ。すべての文章は心理描写・会話表現・風景描写の三つのパターンに分類されており、僕はある程度まとまった文章をこの三つのパターンに即して作成する。思考放棄、思考停止、そんな感じ。そもそもなにかを考えるための考え方すら考えなくてよいのだから楽だ。

案外、この仕事は僕の性に合っていたらしい。これまでに締切に間に合わなかったことは一度もない。

 僕は要請文と文法に従って文章を完成させていく。自分の思考よりも他人の思考を利用したほうが物事はスムーズに流れるというのは不思議なものだ。僕は長雨のように淡々とタイプライターを打ち続ける。

 「調子はどう?」

 夜になって買い物袋を提げた旧友が一九〇五号室に帰ってきた。

 「快調だ」この作業にも慣れてきたのかもしれない。残り二時間もあれば作業は終わるだろう。「お腹が空いた。サンドウィッチは?」

 「ろくな食事してないね。今日はなにか作ろうか?」

 「いやサンドウィッチだけでいい」僕はタイプライターを打つ手を休めることなく言う。「寝ても覚めても『ムーア・リィクス』だ」

 「打つのをやめないと食べられないよ」

 そういえばそうだった。僕は手の打鍵運動を小休止させて旧友がさしだしたサンドウィッチを受け取った。

 予想通り数時間後には仕事は完了して僕らは真夜中過ぎに映画館へ向かった。映画館には毎日欠かさず通っている。寂れた深夜営業の映画館。「おとなにせんえん」。チケット係がやけにはきはきと金を徴収する。明け方頃にホテルのフロントでその日の執筆要請文を受け取る。そしてまた淡々とタイプライターを打ち続ける。そんな日々が繰り返し続く。


 二十三日目の朝、旧友が姿を消した。それでも僕はタイプライターを叩き続けた。時間を区切るための感覚がすっかり失われてしまっていた。僕は『ムーア・リィクス』を書き続けた。

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