ムーア・リィクス

淀之直

第1話

 先日、手紙が届いた。古い友人からだ。

 どうということのない喫茶店の店先で久方ぶりの再会は果たされた。旧友は店先のメニュースタンドの前に立って右手に赤い傘をさしていた。梅雨が訪れようという時期で街には雨が降り続いていた。僕らは席に着いて二人分の飲み物と二人分のアイスクリームを注文した。旧友のホットコーヒーが先に届けられた。

 「きみの症状は、重い」

 旧友は重々しくも簡潔にそう言った。

 予想はしていたことだったが僕は少なからずショックを受けた。

 「それじゃあ、僕は助からないのか?」

 平静を装って僕は尋ねた。

 「きみの行動次第だ」

 旧友の回答は早かった。

 「放置すれば二十を超える可能性がある」

 「二十? 二十だって?」

 予想以上の数字に僕は驚きを隠すことができなかった。二十。それが確かなら僕はほとんど死を宣告されたようなものだった。

 「あくまで最悪のケースを考慮した場合の数値だ」旧友は淡々と言った。「通常、人間はそれほどの進行を放置することはできない。安心して。きみの完全なる分裂体は現状二体しか確認されていない」

 二体だよ、たったの二体。旧友はピースサインを作って振ってみせた。僕にとってその数値の持つ意味は漠然としか理解されなかった。二体であれば安全なのか、二体といえども十分危険なのか僕には判別がつかない。

 「それじゃあ、やはりきみは僕が拡散しているというんだね?」

 「拡散じゃない。分裂だ」

 「分裂」

 「分けられ裂かれると書いて分裂だ。きみは末期分裂症患者なのだ。きみは三人に分裂しており、分裂した二体は既に確固たる自我を獲得している」

 「そんな馬鹿な」

 「気づいていなかったなんて言うつもりならよしたほうがいい。これだけ分裂しておきながら症状を見過ごせるわけがないのだから」

 「待ってくれ、すまない。分裂症状については僕にも少なからず自覚はあるよ」

 「あたりまえだ」

 僕のことなどなにもかもお見通しなのだと言うかのように旧友は言う。僕はまるで曰くつきの占い師のような旧友の眼差しに捕らえられている。

 「でも、そうだとして僕は、僕はいったいどうすればいいんだ?」

 「行動するしかないだろう。分裂症は然るべき処置をとれば完治する。治療には痛みがともなうだろう。しかし、きみにその気があれば完治させることは不可能ではない」

 「覚悟はできている。僕はどうすればいい?」

 「まあ、待て。まずはアイスクリームだ」

 僕の覚悟は旧友によって実に悠然といなされた。旧友の提案を見計らっていたかのように、ウェイターがアイスクリームを盆に載せて運んできた。テーブルには合計四つのアイスクリームが並んだ。旧友はチョコとバニラ。僕はブラッドオレンジとモンブラン。しかし、僕はアイスクリームどころではなかった。

 「支離滅裂人間」

 旧友は僕のことをそう呼んだ。

 「この三ヶ月のあいだに強いストレスを感じた心当たりはあるかな。急激な環境の変化があったとか、根本的に価値基準が変動するような大きな事件があったとか。なにかそういう心当たりが」

 「引越しはしたけれど」

 「いつ?」

 「一週間まえくらい」

 「一週間まえの引越か。その可能性は薄い。もっとこう、なにか根本から自分が揺るがされるような強烈な経験をしなかった?」

 僕は恐る恐るこの三ヶ月ばかしの出来事を思い出してみることにした。この頃、なにか強いストレスを感じることがあっただろうか。それも自我に障害を来たすほどのストレス。しばらく記憶を探ってみても、しかし、心当たりはなかった。この頃は稀に見るほどの平穏無事な日々が続いていたのだ。強いて言うなら今この瞬間こそかつてないストレスを感じている。

 「ま、一時的な忘却はよくあることだ。すぐに思い出せなくても心配はいらないよ」

 旧友が宥めるように言った。

 「大丈夫だよ。統合作業さえしっかりやれば、きみは元通りのきみに戻ることができる」

 「統合作業?」

 「そう、我々がすべきは統合作業だけなんだ。そして統合作業には物資と空間と時間が必要だ。それじゃあ、早速出かけよう」

 旧友はそう言うと颯と立ち上がりカウンターで支払いを済ませて喫茶店を出て行った。僕は慌ててアイスクリームの残りを食べて旧友の後を追いかけた。

 最初に百貨店で矢継ぎ早に買い物がなされた。原稿用紙、筆記用具、そして高級な便箋。旧友は有無を言わせぬまま購入した品々をキャリーバッグに押し込んで、僕にそれを引かせた。

 次に僕らは奇抜な装飾が施された建物に入って行った。看板にはソフトクリームのような形状のフォントで館の名前が示されていた。

 「ここはノートテキストペンホテルだよ」

 赤い絨毯が敷かれた上昇中のエレベーターの中で旧友が言った。

 「地下五階、地上二十階建、創業百五十年。で、部屋は七〇二号室」

 七〇二号室には小奇麗な調度品一式が揃えられていた。値の張りそうなホテルだった。

 旧友によれば統合作業には物資と空間と時間が必要らしい。物資と空間と時間を必要としないものを僕は想像できないけれど、そういうものらしい。しかし、そもそも統合作業って具体的になにをするのだろうか。僕には分からない。

 「現在きみの分裂体は二体。分かりやすくするために一方をブラッドオレンジ、もう一方をモンブランと呼ぶことにしよう」

 僕の分裂体は昼のアイスクリーム二種になぞらえて、勝手にそう命名された。

 「分裂体というのは精神的には斥力を持つが地理的には引力が働く。だから彼らを誘き寄せることは簡単なんだ。撒き餌をまけば分裂体はすぐに群がってくるだろう。例えばブラッドオレンジは気難しいやつだが彼は地下四〇五号室に。モンブランはやや思い込みが激しいところがあるけれど彼は地上一九〇五号室に。いずれもこのノートテキストペンホテルに宿泊させよう」

 「分裂体みんなで統合作業の会議を催してディベートでもするのか」

 「そんなことをしたらきみは破滅するよ。分裂体同士の接触は非常に危険だ。ゆえに統合作業は非同期で行う。つまり文通。だがただの文通では統合は難しい。きみはこれから分裂した精神を統合しなくちゃならないんだからね。文通は文通でも生々しい文通が望ましい」

 それが今回の統合作業計画。通称『ムーア・リィクス』計画だと旧友は言った。

 「『ムーア・リィクス』計画」

 それは聞き覚えのない言葉だった。ムーア・リィクス。響きはなめらかなものだが、意味は分からない。もしかしたら暗号だろうか。旧友に尋ねてみても「ま、せっかく再会したことだから」と簡単に済まされてしまった。再会したことと『ムーア・リィクス』に何か関係があるのだろうか。僕が腕を組みながら『ムーア・リィクス』とはなにかと考えていると、旧友がカーテンの隙間から窓の外の一点を指さした。

 「ほら、見て。ブラッドオレンジだ」

 旧友によって示された方向を見てみると僕の背格好とちょうど同じくらいの一人の男が向かいの通りで赤信号が変わるのを待っていた。信号が青に変わるとブラットオレンジと呼ばれた男は横断歩道を渡って、僕らのいるこのノートテキストペンホテルに入っていった。

 「もしかしてあれは僕?」

 「そう。で、もう少ししたらモンブランが現れる」

 数分後、また一人の男がノートテキストペンホテルに入っていった。男は、ちょうど僕がいつも着ている紺色の上着を羽織っていた。独立した意志の獲得された分裂体。生身の分裂体。僕から分裂した僕。僕は唖然としてしまって、窓の外からしばらく視線を動かすことができなかった。

 旧友はベッドの端に腰かけて、楽しそうにしていた。

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