第7話 そして、隣の彼女
「何してるの?」少し棘のある言い方に、雫さんは顔を向ける。
「何もしてないよ」彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいた。大雨の中、彼女が泣いてるとわかるほどだった。
「帰ろ」
「うん」
僕は、傘を雫さんの頭上に持っていき、隣で歩く。全身びしょ濡れになった彼女の制服が、僕に触れる。冷たい。肌で感じると、彼女の体が凍っているということが実感できた。インターフォンを押すと、誰が押したのか確認もせずにドタドタと玄関から葉摘さんと徹さんが心配して出迎える。先日もらったスマホを僕はなんとか使えている。
*
翌日、葉摘さんと徹さんの結婚記念日で二人は朝早くから出かけていた。昼頃、僕たちは惰眠を貪るのを止め、冷蔵庫にあった焼きそばをもそもそと食べ始めた。
今、僕と雫さんが会話をすることは殆どなくなってしまった。仔細を語ると、学校へ行き始めて二日目、もともとよく話すことはなかったが、すれ違えば、言葉を交わすぐらいはしていた。だがそれからだんだんと気まずそうにこちらを向いてくれることもなく、避けられてしまうようになった。
食器を片して、二階の自室へ籠もる。雫さんはまだリビングにいる。尋常じゃない暑さにクーラーをがんがんにつける。風鈴も風流とは名ばかりで、大して涼むこともできない。
僕はベッドに寝そべりながら、課題を中途半端に放り出して、スマホを弄る。
それから少しして、ドアをノックされた。
「あのさ、入っていい?」
雫さんの声だ。
「うん」
僕はそれだけ言うと、身を起し、ドアを引いた。
「何?」結構無愛想な言葉を発して、すぐに雫さんは僕から目を逸らす。
「話したいことがあって」
僕は部屋に彼女を招くと、彼女は困惑しながら部屋の隅に座った。
僕も適当な場所に腰を下ろす。
「あのさ、」彼女は重々しい口を開いた。乾いた声が、僕の鼓膜を震わす。
「ん」
「あのときはありがとう、助けてくれて」
「そんな。全然」
「私は、助けられたと思ってる。けど」
あの後、いじめっ子グループは雫さんにしていたことが全てバレ、一学期を終えることなく退学処分になった。傲慢にも、それだけで彼女を助けた気分になってしまう自分がいる。彼女の心の傷は、彼女にしかわかり得ないほど深いというのに。
「退学になったあの人たち、そうとう鬱憤溜まってるみたいで、昨日会ったんだけど」
なぜ会ったんだ、と残念に思う気持ちを余所に僕は雫さんとあいつらを繋ぐ鎖の頑丈さを思い知らされた。
「酷いことされなかった?」
「昨日は、ね……」
その間の空け方が心臓に悪すぎて、僕は少し息を躊躇いがちに吸う。
「前に助けてもらったときは、私の裸を撮る予定だったの」
裸。
「裸って?」
「私の裸」
それ以外にないでしょ?と彼女ははっきりと言う。ベッド座っていい? と僕はそれをOKする。そして僕は彼女の隣に座らされる。
「それでそれが潰れたから、今度はヤレって」
「ヤる……」
簡単にそう言った彼女を僕は軽蔑しかける。だけど。
「だからさ、快。私とヤってよ」
彼女は僕と距離を詰めると、紅潮した頬は徐々に僕の口元に近づき、妙に紅く綺麗なその唇が僕の視線を奪う。一瞬のその動作に僕は息をするのを忘れる。慌てて僕はそれがイケナイコトだったことに気づき、不自然に僕は自分の口元を触る。
次の瞬間、彼女はよれよれのシャツに手を掛け、脱ぎ始めた。すぐに露わになるお腹に僕は目を逸らすどころか、見入ってしまった。臍やくびれ、血が繋がっていないからこそ感じる美しさというものがあった。
うっ、とか細い声を発しながら、彼女の上半身は、僕の目を通して像を結ぶ。綺麗だとか、美しいとかそれだけで終らしたくないものだった。それは人間の汚さも兼ね備えていたし、女としての魅力も十分にあった。
彼女は脱ぎ終えると、自身の髪をさらさらと梳かしながら、作為のあるうっとりとした目をこちらに向けた。
「快、お願い」
彼女はそれだけ言うと、僕の胸へ顔を埋めた。
「雫さん、」
「雫っていって」
籠もった声が、吐息と共に僕の胸を熱くさせる。彼女は僕の背中へ手を回し、僕の肩へ顎を乗せた。
「雫」
僅かに感じる胸の感触を誤魔化しながら、壁掛け時計の秒針の揺れるのを眺めていた。そこから大分落ち着いた雫は、僕を少し押しのけるようにどけた。
「ん」
「好き」
「うん」
彼女は分かっていたとでも言うように安心した顔で微笑んだ。そして彼女は下着のホックに手を掛ける。
「はじめてだから」そう言いながら。
はじめてはあなたとがいい、元カノが昔そんなことを言ってくれた覚えがある。
雫は恥ずかしげに下着を外し始めると、傍らにそれを置いた。
また、彼女は僕に近づいた。おろおろと肌に密着していた手をベッドに置き、重心を預ける。
隠されていた肌に見覚えのある痣を見かける。刹那、僕は跳ね起き脱兎のごとく自室を飛び出した。
その痣は、それは、これまでもこれからも一生見たくなかったものだった。
心臓がバクバクと音を立てる。
「どうしたの?」
他の部分を隠すようにドアから顔を覗かせた雫が心配そうに言った。
「なんでもない」
確か彼女は僕の病気について詳しく知らなかったはずだ。これが最後か、と僕は昔の僕を思い出した。
またこの部屋に入ったら、僕は二度と戻れなくなる。そんな思いを抱えたまま、僕は世界を恨み部屋へ入った。今日のことは全て隠そうと思った。病気のことなど、彼女に告げる必要もない。
それから一時間、僕たちは部屋から出なかった。それは最後、僕の心に、後悔と安堵を残した。
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