彼女

第6話 病院の彼女

  七月も半ば、学校の終業式の一週間前、僕はあることを思い出した。

  妹――琴子からもらった手紙のことだ。


  僕は、夏休みが始まってから、実行に移した。学校の補習が終り、それから冷房の効いたバスで病院に向かう。本を読むと、面会の緊張感を感じなくてよかった。何を言うか迷うから、何を言えばいいかわかんないから、ギリギリまで考えないでおきたかった。

 最近夕立が酷く、念の為傘を携えて終点でバスから降りる。

 そういえば、雫さんが朝早く出かけて行ったな、とできるだけ余計なことを考えていく。


 駅前の総合病院は、その駅よりも大きく、高さにして六階分ぐらいある。周りのビルに比べるとやや低い。年季が入ったその建物はとても目立つ。

 夏だからか、駅のロータリーにはスプリンクラーが水を散布している。じめっとした空気が通行人の身を纏う。あまり暑くない日のそれが、無駄だとかそういうものではなくて惨めに思えてくる。


 病院の葬儀じみた静けさが、エアコンの効いているのを抑制しているように思えた。

 院内に小動物型のロボットが闊歩している。患者はときどき精神安定剤のロボットを胸に抱いていた。その人たちは大方下を向いているか、そのロボットに話しかけているかのどちらかだった。自分の痛みを簡単に解って欲しくはないのだろう。

 受付で手続きを済ませ、、十分ほどで個室に行き着く。


「やあ」適当な挨拶を飛ばし、明るく振る舞うべきか気まずそうにするべきか思案しながら、読書する女性に近づく。


「来たのね。大分遅かったじゃない。もう忘れてるかと思ったわよ」


「梨子。忘れるわけないじゃん」


 当然のように、そこには僕より何十年も年をとった彼女がいた。だが妹よりもその顔の皺は少なく、若作りをしているのがわかった。


「病院、ここだったんだね」


 僕が、多少の驚きも含めて言うと、


「琴子ちゃんに頼んで教えておいたはずなのに、今さらそんなことを言うの?」


「いや……」


「あえて見なかったんでしょ」


 僕の心臓がドク、と脈打つ。冷や汗が頬を垂れ、胃がキリキリと痛む。違うよ、と言うが声が掠れて音にならない。違う。違う。


「私は、知ってるよ。何で来なかったのか」


「言うな!」


 個室に僕の怒号が、ビシッ、と響く。張り詰めた空気が、喉を渇かせる。


「私がこんなにしわくちゃになってるのが嫌だったんでしょ?私がここにいるのが嫌だったんでしょ?私が、生きているのが嫌だったんでしょ?」ベッド付近の棚には、封の切られていない煙草があった。


「キスしてよ」 その言葉から、僕は彼女の口許を注視する。ヤニのついた前歯が嫌らしく燻んでいた。


「して。してよ!」


 彼女はヒステリックに叫ぶ。


「来て」


 骨と薄皮一枚の手は、僕の腕を掴み、ベッドに引っ張る。煙草の臭いはしなかった。禁煙でもさせられているのだろう。


 僕は、その弱々しい手を振り切れなかった。ここで力を加えると彼女を殺す気がした。


 キスは、初歩的な償いに過ぎない。


 僕の顔と梨子の顔が、五センチまで近づく。彼女の双眸には、深い靄がかかっていた。


 梨子が僕の背中へ手を回した。


 コンコン、と来訪の合図を知らせる音も彼女は無視をする。ぴと、と粘膜とおよそ粘膜とは呼べない何かが一瞬触れあう。


「衛藤さん。お風呂の時間―――え? 何してるんですか?」


「片桐さん」そう言ったのは、僕の方だった。



 ウィーン、と自動ドアが僕を認識して開けてくれる。ぽつぽつと雨が降って来て、早く帰らなきゃな、と思う。

 あれから少し、片桐さんに怒られて、帰宅を促された。だが、僕はその場にもう少し居させてくれることをお願いし、梨子ももう少しだけ、と言った。察した片桐さんは、時間をずらしますね、と言って部屋を出て行った。


『あんな別れ方をして、他の人を好きになれると思う?無責任にもあなたは、私の心に深い傷を残したのよ』


『ごめん』


『この六十年間、私の心にはずっとあなたがいたのよ。一人、残された私が、六十年後独りになるあなたを忘れられると思うの?』


『ごめん』


 僕は、自ら死を選ばなければいけないこの病気に腹立たしさを改めて感じた。六十年前の僕の未熟さと、死ぬときの痛みを知らない彼女にとてつもなく腹が立った。


『もう帰るよ。多分、二度と会うことはないだろうね』


 チッ、と梨子は舌打ちをする。


『セックスぐらいしてよ』


 僕はその言葉にはっとさせられる。


『ごめん』


 傘を差して駅前のバス停まで向かう。このまま濡れてっても良かったが、そうするとバスに乗れない。


 四、五十分して家の近くのバス停へ下りる。既に雨脚も強まり、傘を差さなければ、びしょびしょになってしまう。


 家までのちょっとした一本道を歩く。そこから見える、申し訳程度に作られた公園の遊具の中、ベンチに座り傘も差さず項垂れる雫さんがいた。びしょびしょなのは明白で、なぜそこにいるのかが疑問だった。


 

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