家族

第1話プロローグ 少年の目覚め

 目を開け、喉が渇いた、少しばかり二度寝したい気分の僕の傍らには、見たことも無い女医さんが座っていた。


「おはようございます」


「あ、おは……」


 思っていたよりも喉がカスカスで、声が思うように出ない。


「お水飲みますか?」


「ありがとう」


 紙コップに入った冷水を差し出され、僕は美味しく飲み干す。

 筋肉が弛緩し、勢いのあまり、水を口元から垂らす。あ、と気づくがその女医さんがティッシュを差し出してくれた。


「ご自分のことは、覚えていますか?」


 その女医さんが肩から提げているネームプレートには、「片桐透」と書かれていた。やはり、見覚えが無い。


「佐藤快」


「他には、何か?」


「母親がいた。父親は死んだ。妹がいた。彼女がいた。高校生だった」


 ぶっきらぼうに言い終えると、僕の頭に少し前のことを思い出すことが出来た。

 ズキズキと痛む頭を抱え、これくらいですか、と言う。


「大丈夫そうですね。じゃあ、ワクチンを打ちます」


「それは、病気の?」


「そうです。快君の」


 右腕を出すと、注射針がチクリと痛む。


「一時間ぐらいすれば、その斑点も消えるはずです」


 自分の左腕を見る。


 シャツを少し捲ったその下には、ピンク色の痣があった。


 これが消える。


 女医の机の近くの壁掛けのカレンダーを僕は見た。七月のページになっていることから、今は七月なのだろう。


「60年」


「はい。60年経ちました」


「60年もか……」


「はい」


 僕は、下を向いて、そっと鼻をすすった。


「移動しましょう。こんな診察室では、再会も嬉しくありません」


 女医に連れられて、僕は、長き眠りから覚めたボロボロの体を、ゆっくりと歩かせた。


「こちらです」


 女医が中へ入るよう促した、面会室01には、僕の家族がいた。


「兄さん」


「琴子?」


 掠れた声が、十畳ほどの部屋に響いた。


 僕の目に映ったのは、記憶からしたら想像もつかない老婆がいた。


「そう。私だよ。兄さん」

 

 僕は、椅子に座り、妹の顔を見るや否や、泣き出した。

 その嗚咽には、あまりにも時間の隔たりがあった。


「これ、母さんか?」


「そうだよ」


 知らぬ間に、遺影に収められた母の姿があった。


 笑ってはいたものの、その瞳の奥には、隠しきれない悲しみが浮かんでいた。


「母さん」


「あとで、墓参りに行ってやって。私はもう、いけないから」


 そういって俯いた先には、テーブルに掛けられた杖があった。


「わかった」


 僕は舌を噛みちぎるほどの思いで涙を止めた。


「それでね、兄さん。言いたいことが二つ、あるの」


「ああ」


「一つ目は、兄さんの家。睡眠病に罹った人には、その人の親族の、年の近い人が居る家で過ごすの。家族と一緒に過ごすケースもあるんだけど、私はもう長くは無いから……」


「そんな」


「安心して、兄さん。これから住むのは、私の孫の、家のところだからすぐ馴れるよ」

 

 黙って頷く。ただそれが、ただの事後処理としても、ありがとうの言葉が出てこない代わりに、頷くことしか出来なかった。


「ああ。わかった」


「タクシー呼んでるから、あとは車で」

 

 妹の婆臭い立ち上がり方に、目を背けて、続いた。


「片桐さんも、土曜日なのにありがとう」


 入口付近に立っていた片桐さんに妹は零を言う。


「いえ、吉野さん」


 その女医の言葉に、ピク、と僅かに震える。


「琴子―――」


「兄さん。私もここまで生きてきたんだよ」


 僕の胸には、不思議な言葉が、重く締め付けられた。


 自分の存在が、と窮屈になりそうなほどに。


 文句の言い方も忘れてしまったのか、何も発すことはなかった。しかし、口を閉じることもなかった。


*


「私の孫も、結構色々あってね」


 タクシーの中、妹ははじめにそんなことを言った。


「でも、離婚して、再婚相手の連れ子の娘さんと仲良くやっているようだから」


「孫は、女の人?」


「ん?そうそう。でも何で分かったの?」


「いや、なんとなく」


「最初の夫の人は、酒癖が悪くてね」


「いいよ。聞きたくない」


「そうね。ごめん」


 その家に着くまでの長い時間、僕は見たことの無い街を、ただ黙って、込み上げるものを押し込めて、見ていた。



*


「兄さん、最後に。もう一つの話」


 降りるときに、妹が、一枚の便箋を差し出した。とても達筆な字で書かれていた。


「わかった。あとでね。ありがとう、琴子」


 妹に別れを告げ、出迎えた家族に挨拶した。


「初めまして、佐藤快です。お世話になります」


「どうも」


 応えてくれたのは、気の弱そうな件の再婚相手の旦那さんだった。

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