三題噺「放課後」「エキセントリック」「消しゴム」

三木光

第1話 それだけである。つまりは平常通りだ。


 消しゴムのモノリスであった。

 モノリスは涅槃仏のようにその長辺を横たえて、しかしなお見上げるような威容を誇る。廟全体を燃え上がらせるような夕日の中でも、その表面は全てを吸収する黒のままだ。石でもなければ金属でもなく、しなやかで人の過ちを赦すことができる。今なお民衆の支持を得てやまないその材質は、紛れもない合成ゴムである。

 灰、白、黒の三色からなるつややかなカバーの中央には、不可侵にして神聖なる第一教義が刻まれている。

 「MONO」——すなわち、消しゴムこそが唯一神。

 その前の壇上には教室の学習机が、さながら祭壇のように鎮座している。岡田ともう一人を除くクラス四十人が、それを囲み、猛獣のように目を輝かす。

「みんな、準備はいいか」

 岡田が重々しく口を開いた。

「ああ」

「もちろん」

「ここまで長かったね!」

「そうだ、長かった。だがこれも、あと四回を残すだけだ」

 そう、あと四回。それさえ勝てば、この長く苦しい戦いも終わりを迎える。悲願が達せられる。

 クラスメイトたちは、じっと岡田の続きの言葉を待っている。

「……仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うては父母を殺し、消しゴムに逢うては消しゴムを斃す! いままでに見た消しゴムを消しゴムと思うな! これから見る消しゴムを消しゴムと思うな! 俺たちに必要なのは過去でなく未来、無様な敗北でなく輝かしい勝利だ! そのためには油断も慢心も必要としない! 俺たち遥喜屋高校は全国の頂点に立つ! いいな!!?」

「「「岡田! 岡田! 岡田! 岡田!」」」

「それでは、総員配置につけ! 場は開いている! 戦いはすでに始まっているぞ!」

「「「おぉぉー!」」」

 たった四十人とは思えない咆哮が、廟に万雷が落ちたかのようにビリビリと震わせる。

 クラスメイトたちの隊列を確認するのもほどほどに、岡田は一人、迎え撃つようにして廟の出入り口を見据える。相手クラスはそこからやってくる。

 そして。

 ——ズズズ、と石門が重厚な音を立てて動き出す。

(来たな、院喜屋高校理工科——)

 中から現れたのは、よれた白衣を紺の制服の上にまとい、揃いも揃って銀縁メガネをかけた理系高校生。ひょろく、生白く、金太郎飴のように同一の雰囲気の研究者の卵。その数、およそ50。理系を集めてクラスを編成しているため、こちらより若干人数が多い。

 院喜屋高校は遥か昔の時代から、遥喜屋高校の宿敵だった。

 宿敵、といっても利害対立があるわけではない。そもそも直線距離でみれば二キロほど離れている両校に、街中で見かける以上の接触は特になく、昭和時代に一方がもう一方に殴り込んだという記録もない。遥喜屋高校は運動系、院喜屋高校は文化系と、部活動同士での衝突すら観測されていない。

 だからそれは、単に反りが合わなかったというだけなのだろう。運動系の遥喜屋高校は院喜屋をガリ勉と揶揄し、一方の院喜屋高校は遥喜屋を脳筋と罵って反撃する。互いに互いを牽制し、舌戦だけで適当な距離を保っていた冷戦時代は長らく続いた——そう、この競技が開催され、彼らが直接ぶつかるまでは。

 先頭の異様に顔色の悪い男子生徒が、学習机を挟んで岡田の対面にやってきた。

「岡田大智だ。相変わらず陰気くさいやつらだな、ちゃんと運動はしているか?」

「心配されずとも君たちと違って頭の体操は欠かしたことがない。久しぶりだな、マェッド・ドクターの一山田高良だ」

「なるほど、口先だけ達者なところも進歩がないようだ。そんな頭でっかちで大丈夫か?」

「大丈夫だ、問題ない。科学に疎い君らにはわからないかもしれないが、僕たちは身体の外部拡張により前回よりもさらなる進歩を遂げた」

「ふん、言ってろ」

 二人が不可視の火花を散らす中、審判が我関せずの顔で机の横に立った。

「ルールは東西会制定条項にあるとおりとする。机、および会場に細工がないことは私が十全に確認した。それでは、これより試合を始める」

 岡田は身構えた。

「両者位置につけ」

 岡田と一山田が、それぞれ一歩づつ机に向かって踏み出した。

「所定の位置に消しゴムを配置せよ。先攻は一山田が行う」

「わかりました」

 一山田が何の工夫もなく消しゴムを置いた。その形状は図体こそ大きいが見事なまでの直方体。すなわち、MONO消しゴムだ。

 その余裕の態度。明らかに怪しくないMONO消し。岡田は確信する。

 これはやばい。改造されているのは当然として、その改造の痕跡がつかないことこそ、相手の桁違いの本気度を物語っている。しかし。

 いくら改造されてようと、壊してしまえば関係ない!

「うおおおおおらぁあああああああ!!!!」

 岡田も机に向かって消しゴムを置く、その瞬間に、彼の全身の筋肉が山の如く盛り上がる。怪鳥を思わせる絶叫が岡田の喉から発された。ダァン! という轟音とともに叩き付けられた消しゴムは、その衝突の際に特殊な衝撃波を形成し、机の上のMONO消しもろとも一山田を吹き飛ばし、彼の体を後ろのモノリスに叩きつけた。

「ぐはぁ!」

 口の端から血を垂らし、苦しげにモノリスの真下に倒れこむ一山田を前に、岡田は顔色一つ変えずにこう言った。

「失礼。置くときに、すこし力み過ぎてしまったようだ」




    ケシゴム大戦


 岡田と一山田が戦っている競技は何か?

 当然、野外競技でも、最新の電子ゲームでも決してない。そこは広大な面積を誇る廟の中であり、彼らが手にするのは紛れもない文房具——すなわち、消しゴム。

 では、「消しピン」なのか? 

 そう思った読者諸賢。その答えは、非常に惜しいが、明確に間違っている。

 君らは疑問に思わなかっただろうか?

 たかが消しピン程度で「廟」などといういかがわしい会場が用意されていることを。

 仮にも消しピンというのに、打ち付けた際の衝撃波で人が血を吐き吹き飛ぶことを。

 いくら消しピンをガチでやるにしても、余りにフィクションが過ぎるのではないか。

 これらを真実とするならば、そこには消しピンでないもっと別の遊戯、異なる原理原則が働く競技があると仮定せねばならない。それは何であろうか?

 そもそも消しピンとは、小学生の間で自然発生する原始的な卓上競技である。若き体力を持て余した小学生たちが雨や雪の日に行う、バトルロワイヤル形式の遊戯のことである。

 しかし、岡田たちは高校生だ。高校生の器に、ただの消しピンはせますぎる。

 もともと消しピンにはその競技性を高めるための様々なローカルルールが存在したが、それらは残念なことに競技性を高めはしても、高校生が全力を投じて楽しめるような自由度を獲得できなかった。これを解決するために、何か、もっと大規模な運営母体が求められた。

 かくして相撲道の奨励に努める東西会の下部組織、学生東西会が名乗りを上げた。彼らはルールを見直し、持ち前の経営ノウハウにより、問題の原因が実は多すぎるローカルルールにあるのだと看破した。縛りプレイを楽しめるのは上級者だけであり、それでは不満が出るのを防ぐことができない。すべての人が楽しむのに必要なのはシンプルさである。

 瞬く間に統一ルールが全国四十七都道府県の高校に制定条項として発布された。ルールでは現役高校生がプレイヤーとされ、一対一の勝ち抜きトーナメント式で勝者が決められる。試合が行われるのは何も祝日のない六月の頭から、すべてのトーナメントが決するまでのおよそ一ヶ月。時刻は各学校の放課後である。

 初期プレイヤー数はひと学年あたり百五十万人。これだけでも異常な競技人口となる。それが三学年だから、その人的規模・経済規模は計り知れない。

 この全国統一消しピンを、学生東西会は区別として「ケシピン」と表記した。そして大会のインセンティヴに、上位四人の要求を叶えることを約束した。在籍する自称進学校の授業システムに不満を抱いていた初代優勝者は、クラス全体の高三一年間の授業出席義務免除を要求し、見事叶えられた。

 消しピンならぬ「ケシピン」。

 その高校生用全国統一卓上格闘技は、その後五回にわたる開催の中でルールを微弱に調整しながら、今に至る。

 以下にそのルールを示す。


会場規定

1、試合進行は大会本部より派遣される審判に従うこと。

1、上位二百五十六人の試合は各地にある廟で行う。それ以外は各教室で行う。


消しゴム規定

1、いかなる登録された消しゴムも、規定の濃さの鉛筆の線を消せなければならない。

1、大会が終わるまで全て同一の消しゴムを用いなければならない。


進行規定

1、攻撃ターンを迎えたプレイヤーは、六十秒以内に自分の消しゴムを動かさなければならない。空振り、あるいは粘着により移動がなかった場合は失格となる。

1、試合が決するまで、相手および相手の消しゴムに触れてはならない。

1、試合中は、審判とプレイヤーを除く何人も、フィールドの三メートル以内に近寄ってはならない。

1、審判とクラス構成員を除く何人も、会場にいてはならない。


勝利条件

1、自分より先に相手の消しゴムをフィールドの外に落とすこと。


 当初は会場規定、進行規定、勝利条件のみを定めていたルールも、本当に要求が叶えられることがわかった二年目以降からは抜け道が模索され始め、三年目には事実上の不正が横行することとなった。学生東西会はこれに対処するため、条文を精査し、シンプルさを損なわないよう細心の注意を払いながら条文を追加していった。中でも重要だったのは消しゴム規定であり、明らかに送風機とわかる代物を消しゴムと言い張ったプレイヤーの出現により、ケシピンといえども消しゴム競技であることは最低限死守されるべきこととの認識が深まった。

 しかし上に政策あれば下に対策ありで、その後もルールとプレイヤーの間で一進一退のイタチごっこは続いている。

 それが、今、岡田の放った衝撃波をもって次なる段階を迎えていた。



 岡田は顔色を変えなかった。だが、それはブラフ、言ってしまえば強がりだった。衝撃波を飛ばすくらいのエネルギー、消しゴムを打ちつけた彼の掌底が痛まないはずがない。しかも衝撃波は無指向であり、発生地点から同心円状に被害を与える。当然岡田にもそのダメージは蓄積されている。

 ヒョロガリの一山田は吹き飛ばされた。バスケ部で鍛えている岡田だからこそ踏ん張ることができたが、それでも一山田に与えたダメージも相当のはず。そのまま戦闘不能になることを願った、が。

「い、今のは痛かったぞ……」

「ほう、あの攻撃を受けてなお立ち上がるか。後ろの消しゴムに助けられたな」

「審判、一応今の行為の正当性を伺いたい」

「いや、衝撃波を出して失格になるなどという規定はない。進行規定第二則、試合が決するまで、相手および相手の消しゴムに触れてはならない。衝撃波はこれに抵触しない」

 審判は頷く。頷きながら黙考する。

 はて、衝撃波で相手を攻撃したプレイヤーはいままでにいただろうか?

 相手プレイヤーとの精神的な駆け引きを認めるために、大会では接触行為以外の干渉は原則容認されている。それに従って、騒乱試合も認めるし、以前は強烈な異臭を発する消しゴムの使用も許可した。だが今回の衝撃波。明らかに妨害の意図があり、なおかつれっきとした非接触行為。これまではこのような超能力じみた現象を仮定していなかった。しかしもはやその次元ではないのではないか。

 審判の脳裏に、ふとした可能性がよぎる。

 願いとそれを得るための競争により、全国の高校生たちは進化しているというのか——。

「遥喜屋高校代表、岡田の主張を認めます。一山田選手は早く位置に戻ってください。六十秒以内に戻れなければ、貴君はこの試合を棄権したものとみなします。しかしながらこの行為は、場合により一種の妨害となりえます。今後は衝撃波の使用を禁じます」

「了解しました」

 一山田がようやく位置に戻った。

 ずれた眼鏡をかけ直し、恨めしげな目をしながら笑い出す。

「さすが脳みそ筋肉な遥喜屋高校、やることなすこと野蛮にすぎる」

「挑発なら意味はない。減らず口を叩いている暇があるなら早く攻撃を済ましたらどうだ。あと三十秒もないだろう」

「だがあと二十秒はあるさ。それさえあれば、君の消しゴムを落とすことなど造作もない」

「ならばやってみたまえ。俺たちがここまで勝ち上がってきた理由、しかとその目に焼き付けよ!」

「同じ台詞を返してあげよう! 僕たちが勝ち上がってきた理由、科学の力を思い知るがいい!」



 一山田は白衣のポケットからスティックを取り出すと、それを独特の構えで消しゴムの尻につけた。競技名、ビリヤード。球のトルクと壁での反射角度をコントロールしながら、盤上の球を四隅の穴に突き落とす遊びである。その繊細なコントロール術のみを活用する。

 消しゴムが進行方向に滑るような角度を目分量で合わせる。背後で分度器を構える班員たちが、より正確な位置どりを指示してくる。

「一山田会長、角度四度右へ! そこです!」

 一山田の目線の先には、グライダーのように緩やかなV字を描く奇妙な物体がある。スティックを構え、視線の高さを学習机の表面にほとんど合わせている一山田の目にも、その厚みがやっと確認できるかどうかの形状。一山田は、岡田たちの戦略を半ば見切っていた。

 薄っぺらいグライダー型の物体は相手の消しゴムだ。おそらく向こうの戦略は、敵の攻撃をそもそも喰らいにくくするやり過ごし型。それも、万一ぶつけられた時にはその運動エネルギーを瞬時に回転に費やすようになっている高性能。

 だが——

(回転で力を逃すなら、回転しないよう重心をぶち抜いてやればいい話だ!)

 一山田の細い腕に緊張が込められる。

 ケシピン。高校生用の消しピンが、さらに独自の進化を遂げた競技。そのあまりの競争率ゆえに、消しゴムはもはや消しゴム以上の何かであり、大きく攻撃側に攻守バランスが傾いた結果として、試合ターンが三を数えることすら稀。

 ゆえに、ついた格言は「三歩必殺」。

 三ターン目までに全てが決する。毎ターンが大技の応酬となる瞬き厳禁の時代がやってくる。

「——はぁっ!」

 研ぎ澄まされた一流のコントロールで、一山田のMONO消しが一切の角度変化なしにグライダーの懐に飛び込んでいく。

 


 岡田は突然ビリヤードを始めた一山田のことを、半ば気色悪いと思って眺めていた。

 何をいまさら。打ち方を変えたところで、グライダーの動きが変わるものでもない。コネとツテと七光りを駆使して国立科学研究所航空力学第二班に依頼したこの消しゴム。両翼にはしなりのあるバネが施され、わずかな空気摩擦だけでももれなく回転を始める。さらに回転時に発生した揚力でグライダーは限りない滞空時間と、ブーメランのような回帰性を獲得する。

 突き落としても必ず帰ってくる。それはこの消しピン、いやケシピンの試合にとって、まさしく無敵の性質ではなかろうか。

 一山田が突いた。MONO消しが対角線をなぞりグライダーに直撃する。余すところなく運動エネルギーを受け取ったグライダーは、岡田の期待を裏切り、なんと無回転で机の上を滑りだした。

「な……!」

「ふふふ、さあ早く墜落するんだ」

 岡田は焦りながらも、しかし対処を忘れない。

「くそっ、しょうがない、合唱部、よーい!」

 グライダーが机の端から飛び出した、その瞬間。

「歌えぇー!!!」

 いままで石像のごとく立っていただけの観衆が突然の教会旋法を紡ぎ出す。戦いは試合の前から始まっていた。所定の位置から発された声帯の震えは空間中で重なり縒り合わさり一帯の大河のようなうねりとなってグライダーを包み込む。グライダーが、まるで命を吹き込まれた鳥のように羽を震わせた。左右の力学均衡が崩れたことでグライダーは回転を始める。そしてトビのように机上を優雅に旋回したかと思うと、再び学習机の上に降り立った。

「どうだ一山田。そしてここからは、俺のターンだ!」

 ただでさえ回転数の多いグライダーを、今は机の端近くにいるMONO消しに向けて発射した。ただしグライダーは極度に軽いため、真っ向からぶつかれば、その回転エネルギーはそのほとんどを跳ね返されてしまう。だから岡田のとる戦術は、移動ではなく回転にエネルギーを使うこと。グライダーの羽の端で、何度も何度も、削るようにして多段ヒットでMONO消しを移動させていく。

「回れ! 回れ! スピン! スピン!」

「くっ、耐えるんだ僕のMONO消し! 信じろ! 僕は強い!」

 威力が足りないとみるや、岡田はもう一度叫んだ。

「歌えぇー!!」

 畳み掛ける。岡田はただただ作戦の物量で押していく。

 前回とは異なる重低音が合唱部の口から垂れ流される。共振した学習机がビリビリと音を立てて揺れ始め、上に乗るMONO消しが徐々に徐々に端に寄っていく。

 一山田は大仰なポーズで前髪をつかんだ。

「くそ、どいつもこいつも声を使うことしか思いつかないのか!? そんな技、とっくに対応済みだ! まだなのか波長班!?」

「すみません、まだです、波長特定中……!」

 その慌てふためく院喜屋高校の様子を見て岡田は笑った。

「ふ、これだから貴様らは。体を鍛えず、勉強という道具にばかり頼ろうとする。しかもその道具にしても、体に馴染むほどでもない。そんなことだから目の前のことに対処できずに、全てが終わってからあーすればいいこーすればいいと口先だけでさえずり回る。勉強ばかりして実際には全く使えない。頭でっかち! それがお前らの正体だ!」

 岡田の背後にいたクラスメイトたちが同意を表すように首を振る。

「よくも……よくも言ったな! だが即時対応だけが生存戦略などと思うなよ!」

「会長、準備完了しました!」

「よしいけ! 逆位相であいつらの音波攻撃を打ち消すんだ!」

「おーっ!」

 アンプに接続されたスピーカーが、音なき音を発した。廟全体が無音の世界へと中和されていく。一山田のMONO消しを落とすことは叶わなかった。全ては、元どおりになったように岡田の目には映る。

「ふう、一進一退といった感じだな」

 と、不自然に顔を俯かせる一山田の姿が目に入った。

「ふふ、ふふふふふ。あははははははは」

「え、うわぁ、キッショ」

 思わず本音が出た。

 罵声を浴びたはずの一山田は動じない。

「勝つためならキショくて結構! 君は知っているか、ケシピンでの格言を! 『三歩必殺』——三ターン以内に雌雄が決する! そして今がその三ターン目だ!」

「何……?」

 一山田は天に向けて人差し指を突き上げた。そしてそのまま振り下ろす、まるで世界の命運を握るミサイル発射ボタンを押す砲手のように。

「くらえ、必殺『トランスフォーム』!!!」



 その時、地球の半分は夜の世界に包まれた。アメリカホワイトハウスでは某大統領が対中貿易戦争をツイッター状で宣戦布告し、アフリカでは大地溝帯がその裂け目から溶岩を吹き出した。

 そしてここ日本では、審判の時計に示された時刻が四時二十三分四十五秒から四十六秒に切り替わった。

 それだけである。つまりは平常通りだ。

 一山田の渾身の叫びを前に、しん、と静まり返る廟に取り立てて変化はない。相変わらず夕日が廟を赤く染め、モノリスが長い影を曳きながら泰然と横たわっている。

 何の変化も——いや、変化はあった。最初に「それ」に気づいたのは、机の上を凝視していた岡田だ。

「なん、だと!?」

 岡田の目の前で、MONO消しが動いていた。シャカシャカとモーター音を立てながら、一山田のMONO消しが、側面から昆虫じみた金属の足を生やす。一本、二本、……合計十二本。それらが器用に折れ曲り、グライダーの上から覆いかぶさる。それはまるで捕食行為。サンゴに消化液をかけて食べ散らかすオニヒトデのような醜悪な光景だった。

 岡田の背筋を寒いものが這いずり回った。

「おい、何をしているんだこれは!」

「食べているんじゃない。ただ上に乗っただけさ」

「ただ、上に乗っただけ、だと……? おい審判、この消しゴムは、」

「一山田選手の消しゴムは制定条項に違反していません。上部にある本体部分で実際に線を消すことが可能です」

「くっ……」

 見ているだけで吐き気の出る造形だった。触れるなんてもってのほかだ。

「さあどうするんだい。僕は動かした。次は君のターンだ」

 俺のターン。動かす。

 その二言で、岡田は一山田の狙いを理解した。

 触れたくない。それは可能だ。進行規定では相手消しゴムへの接触が禁じられている。だからそんなことは大した問題ではない。触れたくなければ触れなければいいのだから。

 それよりも深刻なのは。

「一山田! 貴様、これを狙って……!」

「あれれえ、また僕何かやっちゃいました?」

 一山田のMONO消し(だったもの)は今やその十二本の足で完全にグライダーを包み込んでいる。

 岡田は、MONO消し(だったもの)に触れずして、自分のグライダーを動かすことができない!

 そしてさらに!

「『攻撃ターンを迎えたプレイヤーは、六十秒以内に自分の消しゴムを動かさなければならない。』。進行規定第一条! さあどうした岡田・脳筋・大智よ。早く君の消しゴムを動かしてはどうだ!」

「なんて小癪な!」

 岡田の罵声をものともせず、一山田は教祖のように両手を広げる。すべてを包み込むマリア像のポーズで酔ったように朗々と言い放った。

「エキセントリックに、エレクトリックに、エニグマティックに、そして何よりエレガントに! このエレイサーを操ること! それこそがこの大会での勝利の掟! 君たちがコミュニケーションを重視し、恋愛に溺れ、部活に打ち込むその間、僕らは科学を究めた! それを陰気と言うなら言うがいい! せいぜいそこで自らの偏狭な常識に凝り固まっていろ!」

「コミュニケーションを重視することの何が悪い! 自分たちより能力のあるものを頼り、学び、次に活かす! それのどこが間違っている! それこそが人間社会の本質、人間の本質だろう! 目を覚ますならお前の方だ!」

「ふん、喚いてろ。それよりいいのか、そろそろ時間がなくなるぞ」

「岡田選手、あと十五秒です」

「……!」

「反論がないなら、僕の勝ちだが?」

「あと十秒。九、八、七、」

 岡田は歯噛みした。もはや自分にできることは何もない。あとは人に頼るしか……。

「四、三、」祈るような気持ちで廟の出入り門を見やる。「二、」

 その時だった。

「岡田くん! お待たせ!」

 岡田は、眩暈のような安堵を感じた。クラス四十二人のうち、ただ一人この場にいない者が戻ってきた!

「よおし、葉山、よくやった!」

 葉山の隣には、上品な身なりの中年の女性がいた。

「あら、ずいぶん楽しそうなことをやってるわね」

 審判が不思議そうな表情で尋ねた。「失礼ながらご婦人、お名前を伺っても……?」

「私、一山田宝の母、一山田佳代子と申します」

「か、母さん! どうしてここに!?」

「僕が場所を教えたからさ」答えたのは葉山だった。「クラスで探偵稼業を趣味にしているやつがいてね、彼女の指示のもと君の家を特定したんだ。それで僕が訪れると、佳代子さんはこの試合のことを知らないと言うじゃないか。ちゃんとルールだって見せて止めるよう説得したんだけど、それでも来るっていうから……だから案内するしかなかったんだ」

「葉山は超高校生級の長距離ランナーだから、頼んで走り回ってもらった」

 そこで岡田は審判に向き直る。

「審判。それでどうですか。佳代子さんはどうにも自発的にここまでいらっしゃったようだ。しかし彼女は一山田くんの母親ではあっても、クラスの構成員ではない。これは明確に進行規定第四条に違反すると思われますが」

「む、むちゃくちゃだ! 第一、連れてきたのはお前のクラスメイトだろう! だったら失格になるのはそっちの方だ! それに、その前に六十秒が経っていたはずだろ!」

「何だ、君のいうエレガントとは、そのような無様な足掻きのことを指すのか」

「何だと!?」

「審判、判断をお願いします」

「ふむ。まず最初に、六十秒が経ったかだが、これは一山田選手の母親、佳代子さんが入った時はまだゼロコンマ五秒を残していた。よって争点は、佳代子さんがいらしたことで、どちらが失格になるかに絞られる」

 岡田と一山田は、じっと黙っていた。

「確かに一山田くんの主張通り、佳代子さんがこちらにいらっしゃる直接の原因を作ったのは遥喜屋高校の葉山くんだ。しかし彼のいうことを信じるには、佳代子さんはこの大会のルールを確認した上でやってきたのだという。一見矛盾しているように思うが、ここは佳代子さんに実際の動機を聞いてみるのが良いだろう。佳代子さん、あなたはどうしてここまでいらしたのですか?」

「私は、そこの葉山くんから息子がここで消しピンをやっていると聞きました。ルールも拝見しました。そしてわかったのです。放課後、最近息子の帰りが遅い理由が。そして止めなければと、そう確信しました。息子はこんな小学生の遊びにうつつを抜かしていてはいけない。T大に行くためもっと真面目に勉強しなくてはならない時期なのに、何をしているのかしらと思いました。ですから私は、息子を取り戻すためにここまできたのです」

「なるほど、わかりました。佳代子さんは、紛れもなく自らの意思でここまで出向き、大会を中断した。この行為の帰結は流石に葉山くんが予想できたとは言い難い。一方で、この大会については、学生東西会の方からちゃんと親御さんの手元に渡るようプリントを配布している。これを怠り、母親が情報を得るのが遅かったために今回の闖入事件は発生したのだと言えましょう。よってこの問題の責任は、一山田選手にあり……」

「な、何だって!? そんな、まさか!!」

「つまり、一山田選手は失格負けとなります」

「うわああああああああ!!」

 敗北を宣告された一山田が膝から崩れ落ちる。彼の後ろに居並ぶクラスメイトたちも、まるで幽鬼のように茫然自失となっている。

 頼まれもしないのに、岡田が総括した。

「自分たちだけの殻に引きこもっているやつらに、コミュニケーションによって世界と繋がれる俺たちが負けるはずがないだろう」

 廟の夕日が濃くなった。

 今、日が沈みゆく。


 超高校生級の結束を見せた遥喜屋高校三年三組だったが、次の試合では麻酔ガスを噴射する相手消しゴムの前に戦闘不能となりベストエイトで敗退した。彼らを打ち破った相手クラスも、薬物免許不所持で麻酔ガスを扱ったとして逮捕されて失格となった。このように第六回ケシピン大会は、場外戦略の横行、ルールの不正適用、教育上の倫理問題など、大会運営として数多の欠陥を露呈し、この回を最後に二度と大会は開かれなくなったという。

 第六回大会の優勝者の要求は、このくだらない大会を永久に中止すること。学生東西会がその要求をおとなしく聞き入れた背景には、パワハラ、セクハラ、資金運用の問題があったとかないとか。

 廟にあったMONO消し涅槃仏の行方は、誰も知らない。


 制作・著作 NHK 終

 

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三題噺「放課後」「エキセントリック」「消しゴム」 三木光 @humanism

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