第1話 手紙
何気なく向けた視線の先には、流れていく山が映った。
住んでいた都内のアパートを引き払い、今日から馴染みのない田舎暮らしが始まる。
友人たちの多くはなぜこの時期なのかと不思議がっていた。あと一年待たないうちに、どうせ引っ越すことになるのに、と。
僕が引っ越しに選んだのは、アパートの契約をあと一年残したタイミングだった。
本来ならあと一年、あの場所でそれまでと変わらない生活を送るべきだっただろう。
わざわざ違約金と周りからの忠告を受けてでもアパートを引き払い、こうして田舎に逃げてきたには訳がある。
何も気まぐれではない。
会いに行かなければいけない人がいるのだ。
それにしたって気が早いだとか、もう少し落ち着いてからだとか、色々と言われた。でももう、あと一年もなんて僕のほうが耐えきれなかったのだ。
僕がよく知りもしない田舎に向かうことになったのは、一通の手紙が原因だ。送り主は書いてなかったが、おおよそ見当はついている。
手紙には簡潔に「助けてほしい」とだけ書かれていて、そのほかには田舎町の住所が記されているだけだった。
普通ならそんな怪しい手紙は無視してしまうのが正しいだろう。でも僕にはどうしてもそうすることができなかった。
この手紙がもし僕が予想している人物からのものだったら?
僕は今あるすべてを投げ出してでも、その人物を助けてやりたいと思うのだ。
たとえそれが僕の人生を棒に振る結果になろうとも。そうありたいと、そうあるべきだとあの時に決めてしまったから。
そんな建前がなかったとしても、僕は手紙の主を助けることにしただろうけど。だってこればっかりは理屈じゃない。
そんなことをぼんやり考えていると、車内アナウンスが流れる。次が目的の駅らしい。足元に置いておいたリュックを背負い、立ち上がる。
もう少し出会えるのだと思うと、多少の不安はあるものの我慢できなかった。
早く、少しでも早く会いたい。できることなら、助けになりたい。
駅につくと少し間をおいて電車のドアが開く。
開いた瞬間、冷房の効いた車内から飛び出した。
まだ五月だというのに日差しが強い。じりじりと肌が焼ける感じがする。
手紙が届いてすぐに、こっちに向かう準備をはじめた。
二週間もしないうちに、仕事も含めどうにか片付いたのは僥倖だろう。少し無理もしたが仕方ない。
準備が終わり次第、手紙の住所に会いに行くことと今日の日付を書いた。
向こうがどういう状況なのか詳しく読めないが、もしかすると迎えに来ているかもしれない。
改札に向かって歩き出す。
途端に、暑さが煩わしく感じる。土地勘はないがこのまま歩きで例の住所まで向かうとすると、着く頃には汗でひどいことになるだろう。
改札を抜け、日差しの下にさらされる。こんなことなら帽子でも持ってきておくんだった、と後悔する。
持っていたはずの帽子はほかの荷物と一緒に例の住所に運ばれているだろう。
改札を抜けた先の道にはまばらに人がいて、店らしきものはほとんどない。
駅前でこの閑散具合ということは例の住所のあたりも想像に難くない。
田んぼや畑が並んでいる中に軽トラックが一台止まっている。
遠くには荷台に荷物をくくられたらしい自転車見える。田んぼや畑にいる人もまばらだ。
駅前にいる人たちの中に予想していた人物はいなかった。
この中を歩くのか、と半ばあきらめつつ、タクシーを探していると後ろから声をかけられる。
「お兄ちゃん、ここの人じゃないよね?」
声をかけてきたのは小学生くらいの少年だった。
「今度こっちに引っ越してきたんだ」
できるだけ優しい声で、目線も合わせながら答える。少年は面白いものを見るような目で僕を見ている。
「タクシーってどこにいるかな?」
「タクシー?」
「お金を払って車に乗せてくれるものなんだけど……」
「お兄ちゃん車に乗りたいの? 待ってて!」
少年はそう言うと、田んぼの方に走っていく。
まさか、タクシーを知らないとは思わなかった。
田舎だとタクシーもないのか? それとも彼が知らなかっただけだろうか。
とんでもないところに来てしまったのかもしれない。
少しすると少年が走って戻ってきた。
「じーちゃんが乗せてくれるって!」
少年に引っ張られるまま、軽トラックへと歩みを進める。
「本当に乗せてもらっていいの?」
「いいんじゃないかなあ」
「迷惑じゃないかい?」
「たまに人乗せてるし大丈夫だよ」
僕の心配をよそに少年は無邪気に笑う。
正直、この暑さの中を歩く元気はないので助かるが本当にいいのだろうか。ここから少し離れているし、何より迷惑じゃないのか?
田舎の人は親切だともいうし、この子のおじいさんも親切な人ということなのだろうか。
軽トラックが近づくにつれ、妙な緊張感に襲われる。
「じーちゃん、さっき言ってた人連れてきたよー!」
心の準備をさせてくれる暇さえなく、少年は軽トラックに声をかける。軽トラックの荷台に荷物を積み込んでいた頭に麦わら帽子をかぶり、首にタオルをかけたおじいさんが少年の言葉に反応して振り返る。
表情は朗らかで、あまり気後れしないで済みそうだ。
「おう、兄ちゃんがカズの言ってたのか」
「初めまして、榊です」
「どこまで行きたいんだって?」
おじいさんはにっかりと笑うとそう尋ねる。僕はポケットに入れて置いた住所を控えたメモを差し出す。
「ああ、吉井さんとこかい。あそこなら知ってるし、送ってってやるよ」
「ありがとうございます! 助かります」
「お兄ちゃんやったね!」
メモの住所を知っていたらしいおじいさんのお陰で、今日中にたどり着けそうだ。
何度も頭を下げてお礼を言う。おじいさんは気にするなと言って、荷物の積み込みを再開する。
「手伝います」
そう声をかけて、おじいさんに指示をもらい積み込みを手伝う。カズくんも一緒になって積み込んだおかげで、早く片付いたとおじいさんは嬉しげだった。
「兄ちゃんは荷物はそれだけかい?」
「はい、これ以外の分はもう送ってあるんです」
「なんだ、こっちに住むんか?」
「ええ、しばらくお世話になるつもりです」
「そりゃいい、たまにはカズとも遊んでやってくれな」
そのまま家に帰るというカズくんと別れ、おじいさんの軽トラックに乗り込む。あまり乗りなれないせいか、不思議な感じがする。車高が普段乗っていた車より高いらしい。
「そんじゃ出発するぞ」
エンジンをかけながらそう言うと、おじいさんは軽快にアクセルを踏み込んだ。
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