序章 1節

 陽が山裾から顔を出し、鶏すらも鳴くのをやめてしまって随分と経った頃。

「うんにゃ……」

 ざわつく邸内を他所に、ひたすら眠りを貪っている少女が一人。同じ年の頃の女子であれば、家の手伝いに自分も駆り出されているだろうに、これが許されているのはひとえに彼女の立場の特殊さ、そして双肩に背負ったものの重さによるものである。

「ちゅきかげ、おとしぃ…………ぅ?」

 やがて少女は、夢の中で戦っていた相手が消えでもしたのか、寝ぼけ眼もそのままに上半身を起こす。口端にはよだれの跡、長い黒髪は針山の如し、襦袢ははだけて肌も露わ。掛け布団が明後日の方向に飛んでいるのは、先程幻の相手と共に彼女の腕が払い飛ばしたためだ。

 子供には不釣り合いな、大きな畳敷きの私室にぽつんと一人。物は少なく、傷んだ修練用の木刀が数本と、鞘に納めた古びた刀が、床の間にぞんざいに転がされている。

 障子戸から透ける外の日差しから眩しそうに顔を背けると、

揺波ゆりな様、もう陽を見上げるようなお時間ですよ」

 とうに開け放たれていた廊下側の襖の陰から、妙齢の女中が呆れたように見咎める。

 揺波と呼ばれた少女は、大きなあくびを一つ、返事とした。

「ふわぁ……あぁ。うぅん」

「今からお食事をご用意しますから、お顔を洗っておいでなさってください。本日は天音あまねの命運がかかった大事なお勤めの日ということですし、身支度はこの高野がお手伝いさせていただきます。そうしましたら、旦那様が気を逸らせて飛び出してしまわないうちにお顔を――」

「ぐぅ……」

「揺波様!」

 かっくり、うなだれるように彼女は再び夢の世界に旅立った。

 乱暴にも揺すって起こそうとする女中との戦いが幕を開けるが、最終的に揺波の目を覚まさせたのは、緊張を隠しきれない男の声だった。

「ゆ、ゆゆゆ揺波ぁ! ま、まだか!? こここのままじゃ遅れるぞ!」

「お父様……?」

 どたどたと廊下を駆けてきた、今ひとつ冴えない男。できる限り着飾ったのだろうが、肝の小ささまでは隠せていないようで、赤くなったり青くなったり忙しい顔には、涼しげな朝だというのに汗がびっしりと浮かんでいた。

 彼は名を時忠ときただ。天音家当主にして、揺波の実父である。

 あまり似ていない二人であったが、歴然とした共通項が一つ。

 両の手の甲に埋まった、桜色の結晶。

 例えば女中には存在しないそれは、ミコトと呼ばれる特別な者の証である。

「旦那様、落ち着いてください。これを見越して開始を昼過ぎにしたのはご自身でしょう」

「いや、そうだが……ほら、身体を温めておくとか、あるだろう? なあ?」

 時忠が揺波に水を向ける。彼は、いつも通り過ぎる娘にやきもきしているようだった。

 だが、彼女はいつも通り、この日に臨んでいただけだ。

 自らに課せられた使命を果たすという、いつも通りの。

「いえ、大丈夫です。わたしは、ちゃんと勝ちますから」

 まどろみは、消えていた。

 無感動に答える揺波に、時忠は言葉に窮してしまった。

 ……当時、揺波が生を享けた天音家は、簡潔に言って没落していた。

 その昔に名を挙げた名家として、倹しく暮らしていくだけの土地はあった。だがそれは、他家の領地を間借りしているだけでしかなかった。じわじわと困窮していく家の懐事情から、次々と土地の所有権を手放さざるを得なくなり、ついには本邸の土地まで他人の手に渡った。必然、そんな主体を失った天音家は、思い出したように他家に哀れまれ、苦汁を嘗めてこちらから手を伸ばしても嘲笑一つであしらわれる、そんな立場に追いやられていた。

 ただ、桜がないから。

 土地を手放すということは、桜を手放すということである。自ら所有する桜がないというそれだけで、世間から忘れ去られそうになりながら、山間でひっそりと、他家の顔色を窺いながら暮らすことを余儀なくされていた。

 命の輝きを結晶の花弁として常に咲かせるあの桜――神座桜こそが、家の力の象徴なのだから。

 全ては、いくつもの家を束ねていた過去への執着によるものだった。

 多くの神座桜かむくらざくらを有していた栄華は見る影もない。そこに至るまでの要因はいくつかあるが、最も大きなものは、近年天音家に優秀なミコトが生まれていなかったためだ。

 ミコト……すなわち、両の手に超常たる存在の力を宿す者。

 血の繋がり、あるいは変異によって誕生する特別な人間をそう呼ぶ。

 そして、桜と共に在る超常の存在こそがメガミである。偉大にして、未だ謎深い我々の隣人である彼女たちは、時に人に語りかけ、時に自ら人の世に降り立ち、時に勝負の場――桜花決闘おうかけっとうにおいて、理を超えた力を人に貸し与えてくれる。

 桜の下でメガミの力を勧請し、ミコト同士で雌雄を決する桜花決闘は、昔から決めごとに用いられてきた。主神たるメガミ・ヲウカに誓約し、勝敗を見届けてもらうのである。

 その決闘でよく争われていたのが、桜の所有権。

 勝者は権利と共に、その桜の管理者として付近一帯の土地を任されることになる。奉土と呼ばれるその土地が、実質的に家の領土となる。

 つまり、弱いミコトしかいない家に、繁栄を保つだけの力はない。

 そうして奉土を失い、日々のためになけなしの土地も売り払った天音家を追い打つように、時代は天下泰平という平衡状態に向かいつつあった。現代たる桜降る代では考えられないだろうが、あらゆることが収まりよく決まっていた。それを平和と呼ぶこともできるだろうし、実際そういった声は多かった。桜の下での鍔迫り合いなど、季節の行事くらいでしか見ることはなくなっていた。

 けれど、所定の位置に収まりきってしまったものを動かすことは容易ではない。

 政で世が動いていく。

 誓約を交わした決闘よりも、大局を見据えて物事を決めるべし。

 それは全体から見たら平穏そのものであっても、再起を図る者にとっては、返り咲く余地のない地獄でしかなかっただろう。元々決闘の強さによって名を挙げた家であったことは、泥のように天音家の足に纏わりついていた。

 天音揺波は、そんな現状に歯噛みしていた天音の家に生まれた少女である。

 揺波は勝ち気な子供で、幼い頃から剣を振るっては、あっという間に師範を打ち負かしてしまうほどであった。

 生まれ持っての剣技の才。

 ……そして、ミコトとしての力。

 天音家の精神的支柱、そして戦略的な支柱となった揺波は、お家の期待を一身に背負い、一人の娘ではなく家を代表するミコトとして育っていった。否、育てられていった。

 勝つために。

 天音家再興のために。

「そ、そうか。なら頼んだぞ、揺波」

 下手な笑いを浮かべ、揺波の頭を撫でる時忠の焦りは無理もない。

 天音揺波初めての桜花決闘が、この後に控えているのだから。



 その桜は、辺鄙な土地にうら寂しく佇んでいた。

 大きな神座桜であればその周囲に屋敷を設けたりするものだが、この地に生える桜は大きさもまちまちなら場所も様々だ。桜と桜の間隔が空いている以上、所有していると言ってもあまり手をかけられない桜が出てくるのも仕方のないことであった。

 そんなこぢんまりとした桜を挟んで相手と向かい合う揺波は、するりと刀を抜き払った。

 そして、宣誓する。

「天音揺波、我らがヲウカに決闘を」

 メガミの中でも桜を象徴する主たるメガミに、決闘の始まりを告げる言葉だ。

 桜花決闘である以上、見届人は最低でも一柱はいる。けれど、いかにこれが歴史の始まりとなる決闘といえど、見物人はほとんどいなかった。時忠を含む当事者たる両家の人間が立ち会っていたが、それも片手で数えられるほどしかいない。

 そもそもこの決闘自体、時忠が半ば詐欺のような形で近隣の桜の所有者と取り付けたもので、人々には全く注目されていなかった。天音家の事情は広く知れ渡っていることで、この辺りでは久々に行われた桜花決闘だとしても、わざわざ足を運ぶ物好きはいなかったのだ。

 それに、数少ない観客からも、小さな笑いが漏れていた。

「同じく、我らがヲウカに決闘を。……なあ、本当に嬢ちゃんがやるのか?」

 桜を挟んで距離を取り、揺波と向かい合う男は、身の丈六尺を超えようかという身なりに似合わぬ困惑顔を浮かべていた。

 自分の胸元にすら背の届かない少女が相手なのだから、当然の反応だった。

 借り受けたメガミの力によって、炎を生じさせたり、雷を落とすことすら可能な桜花決闘であっても、年端もいかない少女が出てくるなどそうあることではない。非力そうな老体が、力の扱いに熟達した達人だったという例はごまんとあっても、経験の浅い子供のミコトには初々しさを感じるのが自然だった。

 桜花決闘の成立が認められたことを示すように、桜から零れた結晶の花弁が、風もないのに二人の下へと向かう。それはやがて溶け込むように身の内に納まり、いくつかは盾となるように周囲を舞った。命乱れ散る決闘において、血潮の代わりとなるそれが尽きれば、すなわちそれが決着となる。ミコトはこの桜の力と、メガミの力、そして自らの力と技でもって、相手の結晶を奪い合うのである。

「勝利の暁には、約束通り隣山とその桜を頂戴します」

 確認の意図を汲むことなく、至って事務的に返答する揺波は、宿したメガミの力を全身に行き渡らせていた。

 ただ、一抱えほどもある木槌を構える男は、戸惑いはしたものの、決して油断していなかった。

 ひしと感じる、あまりに異様な揺波の存在感。

 相手ではなく、どこかその先だけしか見えていないような瞳。

 彼も伊達に長い間、家に仕えて土地と桜を守り続けてきたわけではなかった。賭けられているのが辺境の桜とはいえ、侮っていい相手だとは思わなかっただろう。たとえ、揺波が半人前のミコトなのだとしても、だ。

 ミコトは両の手に一柱ずつ、合わせて二柱のメガミの力を宿すことができる。そこまでできて、ようやく一人前となる。

 男が宿すのは大地のメガミ・ハガネと、水のメガミ・ハツミ。宣誓と共に相手に流れ込んでいく大きな力は、ミコトであればすぐ見分けられるもので、揺波も相手が一人前のミコトであることは理解していることだろう。

 一方揺波は右の手だけに、一柱のメガミを宿したに過ぎなかった。

 だが、刀を握るその手に宿った力の何たる圧か。

 五尺にも満たない小さな少女が、自分以上の大きな存在になったかのような錯覚が、この場にいる揺波以外のミコトを襲っていた。

 中でも相手の男は、真正面から威圧され、息を呑んでいた。

 何故、幼いミコトが桜花決闘という舞台に至れたか、その険しき道筋、その高き才覚、そして何より、その危うき宿命を、誰より早く男は悟る。

 彼が相手にしているのは、勝利だけを求めて鍛え上げられた、一振りの妖刀。

 それが、天音揺波というミコトであった。

「おおっ!」

「……!」

 気圧されている男めがけ、揺波が猛然と駆け出していく。男との体格差など全く気にも留めていないようだ。

 慌てた相手は左手を突き出し、自身の身体ほどの水球を作り出す。揺波はそれを迂回しようと左に踏み出すが、彼我の間を保つように水球はついてくる。攻撃の意思はないが、不定形の盾は間合いの狭い揺波をどこまでも阻む。

 故に彼女は、水球を回避することを止めた。

「はぁッ!」

 押し通らんと、水球を斬りつけたのである。

 鋭い斬撃は見事両断を成し、開かれた道へ迷いなくさらなる一歩を踏み出していく。

 だが、その向こうでは、男が逞しい木槌を振り抜こうとしているところだった。無理やり攻め込んできた相手に、出会い頭の一撃を加える、彼の得意な戦法であった。

「おりゃああッ!」

 ただの少女であれば見るも無残な姿になることが想像に難くない、大地の力で強化された暴力的な打撃。相手が未熟に過ぎれば、不幸な事故だって起こり得る、そんな攻撃。

 それを揺波は、

「はッ!」

 前を志向したまま、左腕で受け止めた。

 共に差し出していた桜花結晶おうかけっしょうが、衝撃の大きさを物語るように盛大に砕け散る。

 ミコトは周囲の桜花結晶を身に纏い、負傷を肩代わりさせることができる。しかし、あくまでそれは命の代わりに過ぎない。痛みも衝撃も緩和こそされるが、すべて失われるわけではない。

 だからこそ、損失を覚悟で飛び込んできた相手が、凄まじい衝撃に怯んで足を止めた隙に、再び自分の戦法に持ち込むのが、相手の男の十八番であった。熟練のミコトですら、その反応を抑えるのはとても難しい。

 けれど、揺波は動じなかった。

 必要なだけ払った犠牲の対価を得るように、さらに一歩、二歩と踏み込んで斬りつける。

「な……!?」

 相手がどうして驚いているのか、揺波には理解できていなかった。その隙に、三つ四つと結晶を奪えたことを、幸運に感じていたほどだった。

 痛みはある。けれど、勝利を阻むものではない。

 彼女はあくまで、勝利のための最善手を打っているだけである。

 幼い揺波にとって、勝つことは絶対でも、義務でもない。

 勝つことは、当然のこと。

 そのために必要なことは、なんでも受け入れる。

 己は、勝利するために生きている。

 戦っているのではなく、勝利のために組み上げた手順を、確かめるように消化するだけ。

 それが、いずれ武神と呼ばれる存在の根源。勝利のための存在。

「やッ! たぁッ!」

「ぐぉ……」

 懐に入ってしまえば、小さく素早い揺波を阻む要素はなかった。

 がむしゃらに振り回される木槌を紙一重で躱し、鈍重な巨体を切り裂いていく。少しでも目測を誤れば、広げた差が無に帰してしまうというのに、揺波の動きに一切の躊躇はなかった。

 そして、木槌が何もない地面を打ち付けたときだ。

「斬ッ!」

 一寸大きな踏み込みから切り払った刀が、男の胸板を深く捉えた。身代わりとなって飛び出した最後の桜花結晶が、千千に砕け、宙に溶けていく。

 あまりにもあっけない、決着。

 揺波以外、ともすれば送り出した時忠でさえ予想していなかった快勝が、淡々とここに成った。

「…………」

 膝をつく男を前に、揺波の表情は動いていなかった。

 立ち会った天音の側から押し殺した歓喜が漏れ聞こえる間にも、相手の家の者たちが言葉を失くして呆けている間にも、初陣を終えた桜の下の揺波は、己の手をじっと見つめるだけだった。

 自分の『当たり前』は、本当に実在していた……そう、漫然と再認識するように。

 この静かで苛烈だった一戦が、伝説への第一歩であったことは、今は誰も知る由もない。

 ただ一人、小さなミコト以外は、誰も。

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