第2話
。
翌日、部屋に差し込む太陽の光で目を覚ました。
決まった起床時間はここには無いみたいだ。
図った様に看護師が部屋に来て朝食を置いていった。検温も無いらしい。
食べ終わって、時間は九時半を少し過ぎた頃。
朝の光の下で考えると、益々昨日の天使との邂逅は夢の様に思えた。
また会ってみたい気持ちと、夢であってほしいという気持ちが鬩ぎ合う。
結局、確認するだけ、と意味のない言い訳を自分にしながら廊下に出た。
反対側の突き当たり。
扉はまた開いていた、
恐る恐る中を覗く。
心電図の音。
よく聞くと、その合間に苦しそうな息遣いが聞こえた。
「やっぱり、また来たんだね」
部屋の中から、僕に向けてであろう呼び掛け。
息を詰める。
「入ってきてくれる?」
深呼吸をして、意を決して足を踏み入れた。
部屋の中は、僕の病室とさして変わらない。
心電図モニタと酸素吸入器がある以外。
カーテン越しに、天使と対峙する。
「カーテン、開けてくれるかな。大丈夫、何かしようなんて思ってないから」
話すのが苦しいのか、言葉は途切れ途切れだ。
言われた通り、微かにに開いたカーテンをゆっくりと開けた。
華奢な手には似合わない管が手の甲から挿入されて固定されている。白い入院着。
酸素マスクに覆われた小さな顎。
カーテンを開く腕を動かすたび天使の姿が露わになっていく。
「初めまして」
全てのカーテンを開き終えると、天使が微笑った。
細く、真っ直ぐ肩まで垂れた髪の毛。
汗で額に張り付いた前髪。頬は上気している。心電図や酸素吸入器をも鑑みると、もう随分長いこと患っているのだろう……そんなことが窺えるような状態だった。
「初めまして……」
「昨日はなんで入ってきてくれなかったの…私、悲しかったな」
じんわりと頬が熱くなる。
天使と会ってしまったから…天使に話しかけられたから……なんて言い訳、できるわけがない。
「びっくりして、ごめん」
そう言うのが精一杯だった。
彼女は大人がやるような、許しと諦めが混ざったような曖昧な表情をしてみせた。
「もう朝ごはんは食べた?」
「うん」
「そう…じゃあ夕方まで時間あるよね。良かったら私の話し、聞いてくれる?」
「夕方までは居られないよ、お昼には戻らなきゃ」
「ご飯ならここで食べればいいよ」
「検温もある」
呆れたような顔。
「ここには本棟みたいなルールはないの。食事は朝なら起きたら持ってきてくれるし、お昼はどこで食べてもいい。夜だけは決まってるけど……。夜の注射以外は、何も無いよ」
そう言うと、深く何度か呼吸をした。
そのあと彼女は、良かったらその椅子使って、と言い視線で僕に着席を促した。
聞きたいことはたくさんあったけれど、一気に話して苦しそうな彼女を見てしまったら、わかったよ、と返事するしか無かった。
入院生活自体は本棟よりずっと楽そうだ。でも、検査も治療らしいこともない。重病サナトリウム、一体どんな病気の人たちが入院しているんだろう。僕自身、重病の自覚はない。そもそも入院した理由もよくわからないままだ。
「ところで、どう……話し、聞いてくれる?」
「いいよ、聞く」
「ありがとう」
彼女の額から流れた汗が一筋こめかみを流れ、髪の毛の中に消えていった。
「話の前に、ひとつ、お願いしてもいいかな……会ったばかりの君にこんなこと頼むのは、図々しいとは思うんだけど、もう君しか居ないみたいだから」
苦しそうに、胸郭が上下する。
「そこの窓から、中庭が見えるでしょう」
椅子から立ち上がって、窓際へと向かう。
窓が思いの外高く、つま先立ちをして外を見る。
中庭をぐるりと囲むように配置された木々や草花が見える。
目を凝らすと、一際身長の低い樹が生えているのがわかる。
「背の小さい樹が見えるでしょう。あれ、ハクモクレンの樹なの。私が来た時はもっと小さかったんだよ」
このくらい、と床から数えて肩の高さに彼女は手を置いた。
その仕草を見届けて、再びハクモクレンに視線を凝らす。
「私ね」
今までで一番弾んだ声。
「私、次はあのハクモクレンになるんだよ」
「嘘だよ、人間は樹にはなれない」
「なれるよ。願いは大気に溶けて、私はハクモクレンに成るの」
反論してみせたものの、僕の反論に取り合う事なく至極真面目な声音で話すから、一瞬本当にそうなる気がした。
「ハクモクレンになって、何がしたいの」
「ううん、特に何がしたいってわけじゃない。ただ、綺麗に花を咲かせてみたい。私はこんなに綺麗な花をつけられるんだよ、って」
「君は充分綺麗だ」
天使が何を言っているんだろう、と言う意味で言ったつもりだったけれど彼女にとってはそうでは無かったみたいで可笑しそうにからからと笑っている。
「君ってそういうひとなの?きっと心が優しいんだ、泉みたいに澄んでいるんだね、みてみたいな」
笑いが小さくなった頃、再び話し始めた。
「そう、それで……お願いっていうのがね、あのハクモクレンの生長をきみが見届けてくれないかな」
「見届けるのは僕だけ?君は?」
眉尻を下げて、切なげに目を閉じる。
「私は、だめだよ……だめなの、もう……」
「病気が治ったら、大丈夫でしょ?」
「治らない。治らないんだよ、間に合わないの」
「治るって」
彼女は応えない。
かわりに沈黙が僕らの周りを満たした。
少し居づらいな、と思い始めた頃彼女ぽつぽつと話し始めた。
「本当に…何も知らないんだね」
「昨日来たばかりだから」
また、大人がやる曖昧な表情。
「君にご両親はいる?」
「いるよ」
「お見舞いにはきてくれる?」
「最近は…仕事が忙しくてこれないみたい」
再び、彼女は応えない。
僕のいる向きとは反対を向いて、苦しそうな息遣い。
心電図の音が少しうるさい。
上下する胸郭。
「……可哀想、私とおんなじ……」
喘鳴。
咳き込んで、心電図の電子音の鳴る間隔が狭くなる。
「具合、悪くなってきたみたい……」
「ナースコール押すよ」
探し当て、押す。
彼女がマスクを外そうと顔を左右に振りながら、小さく言った。
「お願い、約束だよ……お願い……」
直後、昨日の医師が看護師を引き連れて部屋までやってきた。僕の姿を認めるなり、看護師に、僕を外に出すようとに指示を出した。部屋に帰れと言われたけれど、締め切られた扉の前で壁にもたれて、中の喧騒を閉じることのできない耳に注ぐ。
この慌ただしさは本棟と変わらない。
昨日まで話していた子のベッドが次の日にはまっさらなシーツに変わっている。貼られたシールや飾られた絵はすべて取り払われて、また新しい子が入ってくる。その繰り返し。
……嫌だ。
この感じは何回経験しても嫌だ。
でも、彼女がいなくなるわけがない。だって天使なんだから。天使は消えたりしない、そうでしょう。
部屋の中から、昨日の医師の声が聞こえた。
「パメラも、駄目でしたね」
「これで大丈夫よ」
そう言い残して、看護師が部屋を出て行く。
もう随分と長いことこんなことを繰り返した。
毎日毎日飽くことなく同じことを同じ時間に行い、同じ言葉を掛けていく看護師。
毎日飽くことなく同じことを同じ時間にされる僕。
ハクモクレンは、随分と大きくなったよ。もう僕の背を越したんだ。
いつになったら戻ってきてくれるの?
ねえ、神さま、いつになったら天使を返してくれるの?
僕の天使を取り上げた、大嫌いな神様。
大嫌いだよ。でも彼女が苦しんでいないのならそれでいい。もう彼女が苦しみませんようにと、幾度目か分からない祈りを捧ぐ。
彼女がハクモクレンと成り、綺麗な花を咲かせてくれますように。
ねえ、大嫌いな神様?
僕は花が咲くのを、ハクモクレンの生長を見届けなきゃいけないんだよ。
だから、悪いけれどまだそっちには戻れない。
「ハクも駄目でした。十二年ぶり、二人目の死亡者です。今回は案外長かったですね」
白木蓮の咲く前に 玲 @kdylagumo
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