白木蓮の咲く前に
玲
第1話
病室から見える、胡粉色の建物。
あそこには、季節を忘れた天使が住んでいるらしい。
入院生活も一ヶ月を過ぎて退屈してきた頃、同室の子が教えてくれた。
「みたんだよ、あの建物の方向から綺麗な白い洋服を着た子どもが出てくるのを」
まるで天使だった、と熱に浮かされたように付け足した。
白い洋服を着た子どもなんかこの病棟にもたくさんいるのに、とはその眸を見た後では言えなかった。
「そうだ、今日は検査日じゃないだろう。あそこまで行ってみようよ」
「夕方には検温がある」
「それまでには帰ってこられるって。同じ敷地内だ」
しばらく考えて、頷いた。
わざわざ教えてくれた礼を無碍にする気にもなれなかったし、何よりも好奇心が勝った。
「じゃあ、お昼食べ終わったら中庭に集合」
漫画みたいに、リストバンド同士を重ね合わせた。
カリギュラ効果。
立ち入り禁止、なんてでかでかと書かれたら立ち入ってみたくなるに決まっている。
約束通り中庭に集合した後、入院患者がお昼の散歩をしているのに紛れて中庭の向こう側の茂みを掻き分けた。
柵でも壁でもなんででも使って閉鎖すれはいいものを、トラロープにラミネート加工の注意書きを通すだけだなんて、心理学を舐めているとしか思えない。
腕や脛を枝で引っ掻きながら、しばらく進むと茂みが開けて小さな林になった。もちろん道は舗装されているはずもなく、益々病院のすぐそばに、閉鎖するわけでもなくこんな場所があるのが不思議に思えてくる。これまで脱走者とかいなかったのだろうか。
足の裏が根や石で痛くなってきた頃、前を歩いていた彼が立ち止まり、振り返った。
「あった、あれだ」
病室から見えた建物が、目の前に建っていた。
左右に伸びた四階建ての建物。その中央部は正面玄関のようになっている。
こちらに面している部屋の窓は軒並みカーテンが閉められていた。
「正面突破できるかな」
「中に入るつもり?」
当たり前だろ今更何を言ってるんだ、とは言われなかったがそんな感じの変な顔をされた。
逡巡しているうちに、さっさと駆けて行ってしまった彼が正面玄関前に足を踏み入れる。少し体を止めて左右を確認した後、ハンドサインで来い、と示した。
怒られたらそのときだ、と腹をくくって彼のところまで駆けていった。
「ちょっと中見て、見つからないうちに帰ろう」
それには全面同意だ、と言う意思を込めて頷く。
文字通りの抜き足差し足忍び足、忍者みたいだと小声ではしゃぎながら建物の中に足を踏み入れた。
一階部分は病室らしきものは無く、事務やら警備やらの部屋があるだけだった。
正面玄関すぐの廊下に足を踏み入れた瞬間、言いようのない寒気が背中を通り過ぎた。
後ろを振り向いて確認しようとも思ったが、さっさと前を行ってしまう彼についていこうと歩を進める。
入ってすぐの階段を登ると、見慣れた病室がずらりと廊下に沿って並んでいた。
片側向かい合わせで十四部屋。ワンフロア二十八部屋。
とりあえず、右側に並んだ病室から見てみようということになったが、予想通り少しの隙間も空くことなく扉が閉まっていた。僕にも彼にもそれを開ける勇気まではなかった。
突き当たりの部屋まで同じ状態だと確認でき、引き返そうと体を翻すと、階段を登ってきた医師らしい身形の人間が向こう側にいて目があった。
あ、と言う暇もなく、
「こら、君たち、そこで何してる」
と、ずんずん白衣が近づいてくる。
逃げようにも階段は中央にあるのみで完全に逃げ場を失った僕らは抵抗するでもなく大人しく医師に腕を掴まれた。
携帯か何かで医師が応援を呼ぶ。
その後腕のリストバンドを確認された。
「君たち本棟の患児だね、こんなところで何してるんだ。どうやってここまできた」
指が手首に食い込んで痛い。
「ごめんなさい、気になって……ロープを抜けてきました」
彼がしおらしく謝るので、それに倣って俯く。
「その言葉を聞いて医師が僕らの体を確認する。
「ここも、そこも……傷だらけじゃないか。あの茂みを抜けてきたのか、大したものだな……」
痛そうだ、という風に顔を顰めた。
その間に応援の警備員が医師の背後からやってきた。
「先生、お疲れ様です」
「お疲れ様。済まないけれどこの二人を本棟まで連れていってくれる?あと報告も頼むよ」
わかりました、と頷いた警備員の手へと僕らの腕が引き渡される。
医師と別れ階段へ向かう途中、警備員の足が止まった。
「先生」
少し離れただけだった医師が振り返り、こちらにやってくる。
「この子の識別番号って……」
僕の腕が医師の前に引き出された。
「あれ、そうか……じゃあ、君はこっちだね」
警備員の手が僕を離す。
医師が僕と手を繋いだ。
反論する暇もなく、半ば強制的に引き剥がされる。
警備員と手を繋がれたらままの彼の眸が大きく見開かれていた。
僕らの視線は再び交差することなく、僕は建物の奥へ、彼は本棟へと連れられていく。
医師が、僕の背中に優しく触れた。
「きみは重病サナトリウムの子だったんだね」
先程まで見ていた病室の並ぶ廊下には全く触れず、四階まで階段を登る。
見慣れない重厚そうな金属の扉が四階の突き当たり、厳重に施錠されていた。
医師の指紋認証と網膜認証、声紋認証とカードリーダーによる認証を経て扉が解錠されたらしく、重い、と言いたげな仕草で扉を開けた。
入って、と促されて抗う術もなく足を踏み入れる。
先程この建物に入った時と同じような空気が背を掠める。
嫌だ、と逃げることが想定されていたかのように扉は再び重そうに閉まった。
背中を押す医師の手に意図的にな力を感じて怖くなる。
風景は扉のあちら側と変わらない。
部屋の数も、扉が閉まっていることも。
違うのは、こちらが『重病サナトリウム』ということ。あちらは『サナトリウム』だろうか。
左側、三つ目の部屋の前。医師が扉に手をかける。
先ほどとは打って変わって、扉は何の施錠もされていなかった。
軽そうに開いた扉に拍子抜けしながら、促されて部屋に入る。
「ここがきみの病室。いきなり連れてこられてびっくりしたよね」
無言で頷いた僕に向かって医師は微笑んだ。
「可哀想に。でも大丈夫、全て上手くいくよ」
瞳の奥に喜色が混ざった芝居染みた憐れみの表情。
じゃあまた後でね、と何の説明もないまま医師は部屋から去っていった。
何が起こるのかわからない恐怖と、あわよくば出てやろうという気で部屋を抜け出した。ここに居ろ、と言われてもいないしいいだろう。
医師は重病サナトリウム、と言った。サナトリウムの意味はいまいち良くわからない。けれど重病が、重い病だと言うのはわかる。僕は何か危ない病気なのだろうか。もう本棟には戻れない?ここには重い病気を抱えた人だけが入院しているのだろうか。マスクもせず、防護服も着用しないで……感染の危険とか……。わからないことだらけで、当てもなく廊下を彷徨った。
自分のスリッパの音だけがこだまする。
本当になんの音もしない。
僕以外に患者なんているんだろうか。
反対側の廊下の突き当たりまで来たとき、一部屋だけ扉が開いているのが見えた。
安堵と畏怖が綯い交ぜになった感情を抱きながら、そっと中を覗く。
心電図の規則的な音。
部屋の中は自然光が差していて意外にも明るかった。
ベッドの周りにはカーテンが引かれていたが、横顔がその隙間から見えた。
──天使が住んでいるらしい。
その一言を思い出して、見てはいけないものを見てしまったようなそんな気持ちになった。
それでも目を離せずに隙間から観察を続けていると、部屋の中から
「そこの君、覗いてないで入っておいでよ」
鈴の音の様な声。
心臓が跳ねて狂ったように脈打つ。
「おいで、隠れていないで。そこにいるんでしょう」
──天使が
天使が僕に話しかけた。
こんなことはあってはならない。
知られたら駄目に決まってる。
考えるより先に、足が動いていた。
素早く体を翻して自分の部屋へと走って帰る。
心臓を落ち着けるようにベッドに座って息を整えた。
あれは天使ではない、普通の人間だ。
同じ重病サナトリウムに入院している患児だ、というのは頭ではわかる。理解できるが、心理的には全く受け入れられなかった。
季節を忘れた天使……。
白い服、重病サナトリウムに入院する、鈴の声を持った天使。
僕は、天使と邂逅したんだ。
夕方、看護師がやってきて、僕の腕に何かを注射していった。
「これで大丈夫よ」
そう言い残して、部屋を出て行く。
今頃は、本棟で検温していたはず。
彼はどうしているだろう。
会えるなら、天使を見たと、言ってやりたい。
きっとあの時以上に熱を持った眸で根掘り葉掘り聞いてくる
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