第2話 白い犬
大学生3年生の初夏。一人淋しい週末土曜日の夜を「オールナイトフジ」を観ながら慰めて、フジテレビ放送終了前の「箱根彫刻の森美術館」の映像が始まったのでテレビを消しました。眠りにつく前にベランダ兼アパートの通路に佇んでいるはずの野良猫たちにエサをあげようと、台所にある窓を開けて下を覗いたら、そこにはいつもの猫の親子は居らず、その代わりと言わんばかりに、白い犬がお腹をついて座っていました。
予想もしない突然の客人に私はびっくりしたけど、とりあえず「おはよう」と声を掛けました。白い犬は、お腹をついて座った姿勢のまま顔だけ私の方に見上げて尻尾を左右に振りました。
「う~んと…君は、いつからそこに居たの?」
そう私は声を掛けたけど、白い犬はその姿勢を変えることなく私を見つめていました。
私は、猫の親子のために用意していたかつおぶしのパックを戸棚にしまってから植木鉢の皿に牛乳を浸して、玄関の戸を開けて白い犬の側に置きました。白い犬は、ゆっくりと鼻先を植木鉢の皿に近付けて、そして舌を使って飲み始めました。
「うちは、猫がよく集まるんで、犬用の食べ物は今、ないんだよ。とりあえず、この牛乳で勘弁してくれ」
私の部屋は、錆びた鉄の階段を上った後、通路を歩いて一番奥のところにありました。連れてくるなら別だけど、とりあえず、犬が自分の意思で来るような場所ではありません。首輪は付いていないけれど、人慣れしておとなしい犬のようで、いったい、なぜ、この犬がこの時間に此処に居るのかさっぱり見当が付きませんでした。
やがて、牛乳がなくなって、白い犬は立った姿勢のまま、また、尻尾を左右に振りました。
「んと、俺は、これから眠るんでこれでおしまいね。君は、また、ふらっとどこかに行くんだろうけど、気を付けてね」
私は、そう言って部屋の中に入りました。
でも、また、台所の窓を開けて下を見たら、さっきと同じ立った姿勢で左右に尻尾を振っていたので「朝で変なんだけど、おやすみね」と言って窓を閉めてベッドに入りました。
私はすっかり疲れていたので、“ウニウニ”を感じる間もなく眠りにすぐに就きました。
お昼に目覚めて、とりあえず、テレビを点けたら「笑っていいとも」の増刊号をやっていました。煙草の火を点けてから、テーブルの上にまだ一つ残っていたハッピーターンを口の中に放り込みました。
テレビチャンネルをいくつか変えてみたけれど、案の定、大した番組はやっていないから、どこぞのチャンネルにしたまま、とりあえず、朝飯兼昼飯の材料をスーパーに買いに行くことにしました。薄い財布の中身を確かめて、Tシャツに短パンの寝た格好のままサンダルを履いて玄関を出ました。
玄関の戸を閉めて通路を歩きだすと、後ろに何かの気配がしたから振り返りました。すると、あの白い犬が朝のあの場所で左右に尻尾を振りながら立っていました。
「あっ…まだ居たの?」と声を掛けると、白い犬はゆっくりと僕の方に歩き始めました。
「んとね、俺、これから飯の材料を買いに行くの。君の分もなんか買って来るからそこで待ってて」
私がそう言うと、白い犬は歩くのをやめて私の方を見ていました。
「ま、ドッグフードなんて売ってないようなスーパーだから飯は俺と同じのね。そこで待っててね」
私は、そう言ってスーパーに向かって歩き始めました。
スーパーから帰ってくると、白い犬は、さっきのポジションに立って尻尾を振って出迎えてくれました。
焼いて温めるおかずに、昨日炊いたご飯と残っていたみそ汁、といういつもの質素なメニューでした。私は、朝使った、植木鉢の皿にご飯とおかずとみそ汁を混ぜて盛り付けて、外に居る白い犬の側に置きました。
白い犬は、やっぱり、皿に鼻を近付けてから食べ始めました。
「君の分のおかずは、塩コショウしていないからそんなに悪くないと思うんだけどね」
私がそう言っても、白い犬は顔を上げることなく静かに“即席犬まんま”を食べていました。
FM-TOKYOを聴くともなく聴きながら怠惰な日曜日という日が過ぎていき、「たけしの元気が出るテレビ」が終わると、すっかり日曜日が終わった感じがしました。
(そういえば、白い犬は何をしてるんだろうか…)
ふと、そう思って、台所の窓を開けて下を見てみると、白い犬は居なくて、その代わりに、私が顔を出したことがわかったのか、此処から遠くない所で聞き慣れた猫の鳴き声がしました。
私は、戸棚からかつおぶしのパックを出して、玄関から外に出てベランダ兼通路に1パック分のかつおぶしを出しました。
時間を少しおいてから台所の窓を開けて下を見てみたら、お母さん猫と2匹の子猫たちがかつおぶしを食べていました。餌付いているとはいえ、野良猫なので、お母さん猫は食べるのをいったんやめて不審そうな表情を私に向けました。
「いやいや、俺は君たちになんもしないよ。ゆっくり食べな。そっか、白い犬が居たから、君たちは怖くて近寄らなかったんだね」
私は、そう言ってから窓を閉めました。
月曜の朝が来てしまいました。
ワインハウスのバイト以外、特別、忙しくないウイークデーといっても、月曜日の朝は幾分ブルーです。
目覚めのインスタントコーヒーだけを飲んで、大学に行く支度を調えて玄関から出ると、あのポジションに白い犬が尻尾を振りながら立っていました。
「あっ、君、戻ってきたの? 俺、これから電車に乗って大学行くの。夜、帰ってきたら、なんかあげるからそれまで好きにしていなね」
私は、そう言ってから通路を歩いて階段を下りて行きました。
振り返ると、白い犬も足元に気を付けながら階段を下りてきたから私は戸惑いました。
「んと、俺は、これから電車に乗るのね。君は残念ながら乗れないの。だから、あそこで待っているか、好きなところに行って遊んでおいでね」
階段を降りたところで私は白い犬にそう言いました。なおも尻尾を振りながら白い犬は私の話を聞いていたけど、私が歩き出すと、やっぱり後ろから付いて来るのでした。
とうとう、駅の改札口まで付いて来てしまったので(こうなりゃダッシュだ!)と、私は勢いよく高架のホームに向かって階段を走って駆け上がりました。ホームの真ん中ぐらいから階段の上り口を見ていると、やがて、白い犬が階段を上り終わってホームまで来てしまいました。
(こりゃ、このままだと電車に一緒に乗る勢いだな)
そう思った私は、ホームできょろきょろしている白い犬に近づいて「おいで」と声を掛けて階段を下りて行きました。
そして、改札の駅員に「この犬に好かれてしまってホームまで付いてきてしまったんで、駅員さん、この犬がホームまで上がらないようになんとかしてもらえませんか?」と言った。駅員さんは怪訝な表情を一瞬浮かべたけれど、すぐに自分の職務を思い直したのか「わかりました」と短く答えてから駅員室から出てきたので、私は白い犬に(駅員さんの言うことを聞くんだよ)と念を送りながらウインクだけして階段を上りました。
ワインハウスのバイトを終えて、アパートに帰ったのは23時過ぎでした。
(どうしてるかな~)という心配交じりの期待を裏切ることなく、白い犬は僕の部屋の前でお腹を付けて座って待っていました。
「シロ、やっぱり待っててくれたんだ!」
私は、自然にこの犬のことをそう呼んで両手で顔をさすりました。シロは尾を左右に振りながら近付けた私の顔を舌で舐めまわしました。それまで犬なんて飼ったことがなかった私だけど、素直に嬉しかったのでした。
その後もそんな感じの生活が続いて、また、日曜日になりました。シロと出会って一週間が経ちました。
この日、私はシロを連れて、近くの河川敷に初めて散歩に行きました。連れて、といっても、シロは、相変わらず、首輪もリードもない状態で、私と並んで歩道を歩いて、信号のある横断歩道では私の制止を聞いて停まり、私の合図で横断歩道を渡り、そして、広い河川敷では、牧場に放たれたサラブレッドのように喜んで走り回りました。
シロは雌だったけど、途中、シロの半分以上も小さいダックスフンドの雄に見初められて交尾を求められる場面がありました。ダックスフンドの飼い主だった若い女の子は申し訳なさがったけれど、シロはまんざらでもないようでした。なぜか、私の方が嫉妬のような感情が湧いて、自分でも可笑しい気持ちになりました。
散歩からアパートに帰ってきた時でした。アパートの1階で小さい呑み屋兼ラーメン屋を営んでいる奥さんに呼び止められました。
「ねえ、鈴懸さん、この犬って、鈴懸さんが飼っているの?」
「あ、いえ、その…飼っているっていうか、居付いちゃったっていうか…」
「でも、この犬、鈴懸さんの部屋の前にずっと居るでしょ?うちの子どもたちも、怖がって通路で遊べないし、ちょっと困ってるのよね」
「ああ、それは、どうも、すみません」
「飼ってないにしても、このままっていうのもね~」
「ああ、あ、はい…」
ラーメン屋の奥さんは、シロについてのクレームを私に訴えたわけだけど、その間、シロは、おしりを道路に付けてお座りをしたまま、私と奥さんを下から交互に見ていました。
「じゃあ、まあ、なんとかするように考えておきます」と、私は考え無しにその場しのぎの言葉をラーメン屋の奥さんに言って階段を上りました。
部屋に入って、西側の窓のサッシを開けて下を見たら、さっき、私と奥さんが立ち話をした場所にシロはお腹を付けて座ったままにしていました。そのうち、滅多に通らない車が一台、シロが座っているところに近付きました。シロは正面から車が来ているのをわかっているはずなのに、その場を動こうとはしませんでした。とうとう、車がクラクションを短く2回鳴らしても、なおも、シロは動きませんでした。
「シロ!動きな!」と2階の窓から大きな声で言ったのだけど、それでも、シロはその場から動かなかったので、私は急いで、部屋から出て下に降りました。
「シロ、どうしたん?おいで!」
そう私は言って大きいシロの体を抱いて動かしました。
車の運転手にそれとはなしに会釈をして、階段を上ってシロを私の部屋の前まで誘導しました。
ゆっくりと私の後を付いてきたシロは、私の部屋の前にいつものように腹ばいで座って、そして、私の顔を悲しそうな目で見ました。
「シロ…まあ、ラーメン屋の奥さんにああ言われちゃったけど、それは、無理もない話だよ。でも、俺も正直言って、どうしたらいいかわからないんだ」
私は、そんなことをいくつかシロに言い残して部屋に入りました。
結局、それが、シロとの最後の会話になりました。
シロは、その日の夕方から姿を消して、もう二度と私の目の前に現れませんでした。
私は、翌々日、とうとう我慢できなくなって、下のラーメン屋さんに適当な理由を言って自転車を借りて周辺を探し回りました。けれど、シロを見付けることができませんでした。
思い返せば、シロはただの一度も吠えたことがありませんでした。シロはいつも黙って、私の帰りを待って、私の出す大したことのないエサを食べて、そして、初めて一緒に散歩を楽しんだ日曜日に姿を消したのでした。
もしかして、誰かがシロという犬に成り代わって私に会いに来たのかな…って思うことがあります。
そんな本当にあった不思議なお話、第二話でした。
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