21話目 悪意のない言葉

 笹原は夏休みに入る前よりも、かなり意識的に垣村を見るようになっていた。教室に入る時、お弁当を食べている時、帰る時。些細な暇があれば、違和感のないように視線だけを彼に向けている。ほとんど無意識的に。目が合いそうになれば、見ている自分に気づいて背けてしまう。そして羞恥で体に熱がこもり始め、夏の暑さだと誤魔化すように手で扇ぐ。


 学校が始まって初日から、垣村と一緒にいられる機会が巡ってきた。塾までの時間を一緒に過ごして、あの懐かしいゆったりとした時間を堪能する。


 少しずつ、彼に意識してもらえるように。少しでも、彼が見てくれるように。不意に手を触ってみたり、顔を近づけてみたり。恥ずかしいけれども、それでも近寄っていかないといけない。花火の時に見た、あの女の子。普通花火を見るのに異性の友だちと二人っきりで、そういった感情を持たないはずがない。彼女もきっと気づいている。垣村の良さとか、そういうものを。


 取られたくない。垣村が他の女の子と一緒にいると考えるだけで胸が苦しくなる。だからこそもっと積極的にいかなくてはいけない。翌日になり、帰りのホームルーム中に垣村のいる下りのホームにでも向かおうかと考えていた。教壇に立ったまま話をしている先生の言葉を聞き流し、ルーム長の号令で学校は終わる。放課後になった途端、生徒たちはすぐにざわめきたった。


 荷物をまとめる振りをして、後ろの方に視線を向ける。窓際の席では、垣村が西園に話しかけられていた。


「唯ちゃん」


「っ、な、なに紗綾?」


「この後さ、ちょっと時間ある?」


 不意に近づいてきた紗綾に話しかけられて戸惑ったものの、笹原は「大丈夫だよ」と返事をする。彼女は今日部活が休みらしい。下りのホームに行くのは難しそうだな、と笹原が考える中で……紗綾は困ったように苦々しく笑っていた。


 彼女の言うこの後、というのはそれなりに時間が経ってからのことだった。笹原と紗綾、彩香だけが教室の中に残されている。その時間になるまで他愛のない話で盛り上がっていたのだが、誰もいなくなったことを紗綾が確認すると、おもむろに話を切り出した。


「ねぇ唯ちゃん。昨日いろいろなSNSで同じような投稿があったんだけどね……」


「なに、なんかあったの?」


「その、これなんだけど……」


 紗綾が見せてきたのは、広く普及している鳥のマークのSNSだ。投稿主は、おそらくサブアカウントだろう。画像も何も設定されておらず、名前も名無しになっている。そのアカウントが投稿していたのは、写真だった。一枚ではなく、何枚も。それらに写っているのは全て同じ人物。


「これ、唯ちゃんと垣村君だよね?」


 その光景は間違いなく、昨日垣村と一緒に遊んでいた笹原の写真だ。画像だけの投稿ではない。複数ある投稿の全てにつらつらと恨み言のような言葉が綴られている。二年E組の笹原 唯香は陰キャと付き合っている。金でも払ってもらったのか。随分と不釣り合いだ。なんて言葉は序の口で、後の方になると事実無根な悪口に変わっていく。そこに送られてくるコメントも、とてもじゃないが良いものではない。


「えっ、なにこれ……」


「ウチの学校の人、けっこう拡散してるみたいだよ。男子のやっかみじゃないの? てか、写真撮ってるやつストーカーかよ、怖っ」


「多分、彩香の言う通りだと思う。それで、なんだけどさ……唯ちゃんって垣村君と付き合ってるの?」


 まさかこんな事態になっているとは、笹原は思いもしなかった。確かに学校が早帰りで、生徒も多くいたことだろう。見られていてもおかしくはない。それに彩香の言っていた通り、男子からのやっかみとなると心当たりもある。松本がやらないとも限らないし、打ち上げの帰りに会ったあの男かもしれない。どちらにしても証拠はないし、どうにもできない。


(垣村と付き合っているわけじゃない……けど、どう言えばいいんだろう)


 正直に全てを話すなんてことはできない。垣村とよく一緒に遊ぶような仲だと知られたら、彼女たちはなんて思うだろう。サバサバした彩香ならば、キモいと言うかもしれない。紗綾も微妙な顔を浮べることだろう。それくらい、垣村は下に見られるような生徒だった。そんなことを、今更再認識してしまう。話してみれば、一緒に過ごしてみればそんなことはないとわかるはずなのに。


(見た目、だけで……)


 見た目だけ。だが、自分もそうだったじゃないか。もし仮に立場が違ったら。垣村のことを何も知らず、紗綾が一緒にいたとしたら。きっと、マジかぁ、垣村かよ。なんて笑ってしまうかもしれない。


(どう、言えば……)


 この状況を、どうすればいいのか。苦しくなって口から漏れ出た言葉は……。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 学校が始まってしまうと、夏休みが恋しくなる。放課後までの長い時間を過ごし、ようやく終わりを迎える。今日はさっさと帰って作曲の続きでもしようかと思っていた垣村だったが、放課後になった直後に西園が右手に冊子を持ちながら近づいてきた。


「志音ー、一緒に日直のこれ返しに行こうぜー」


「しょうがないなぁ」


「よっしゃー。なんか進路希望の紙出して説教くらったから、職員室行きづらいんだよねー」


「完全に自業自得じゃん」


「まぁまぁ、そう言わずにー」


 柔らかい笑みを浮かべている西園に、垣村も笑い返す。最近笑顔が増えてきたような気がした。きっと少しは変われているということなんだろう。そんなちょっとした実感を感じつつ、荷物をまとめて職員室へと向かう。


 夏休みが終わったからと言って、西園は何が変わったとかはなかった。いつも通り、へらへらとした顔のままだ。前までは呑気なやつだと思っていたが、今となってはそうは思えない。垣村も西園も、将来に不安を持つもの同士であり、彼は模倣という手段で地盤を固めていこうとしているだけだ。怖いから新しいことに挑戦しない。既存のものを真似ていく。それもまた、ひとつの手ではあるのだろう。そこに進化があるのかはわからないが、それはきっと彼が自分で歩みだした時に掴んでいくものなはずだ。


「んじゃ、欠席とかのやつ書いといてー」


「ん、わかった」


 西園は職員室へと入っていき、垣村はすぐ近くにある黒板に欠席人数を書き込んでいく。書き終わるのと西園が出てくるタイミングは、そうズレてはいなかった。「んじゃ、帰るかー」という彼に返事をして、昇降口に向けて歩いていく。その途中で窓の外を見た時、運動しているテニス部の姿が見えた。声を出して玉を打ち返し、走って追いかける。短いスカートのような練習服が目につく。ついつい目で追ってしまうのも、男のさがだろう。西園も同じように外に目を向けていた。


「いやー、暑っついのによくやるよねぇ。にしても、あれスカートなんかな。見えそうじゃない?」


「ひらひらしてるけど、ちゃんとズボンだと思うよ」


「んー、ロマンのありそうな服だよなぁアレ」


「短さだったらバレーのも同じくらいだと思う」


「バレーなー。確かにアレも短いよなー」


 歩きながら女子テニス部を見ている変態二人。あまり長々としていると苦情を言われそうなので、そっと目を逸らす。けれども二人の会話内容は完全にそっち方面へと流れていってしまった。


「そーいやさー、剣道って下なにも履かないんだってー」


「着物の下って何も着ないらしいからね」


「エロくない?」


「まぁ確かに」


「今度ちょっくら稽古の風景見てこよっかなー」


「男も混じってるんだけどね……てか、女子って確か少ないでしょ」


 剣道部に女子生徒は少なかった記憶がある。それを聞いて西園は「そっかー、男の比率が高いかー」と特に残念な様子を見せずに答えた。本気で見に行こうとは思っていなかったらしい。これで見に行くと言い出したら、流石に垣村も呆れた目をするしかなかったが。


 西園はまだ思春期の男子高校生らしい話をやめるつもりはないらしく「野球ガールもいいよなー」と言い始めた。あいにく、垣村にはスポーツ少女の良さというものが彼ほど理解できてはいない。頭の中で良いなぁと思い浮かぶ構図というのは、ヘッドホンを首にかけ、ちょっとキツめの目で睨みつけるように見てくる女の子だ。ポケットに手を突っ込んでいたら、なかなかグッとくるものがある。残念ながら西園には「んー、強気な女の子は苦手かなー」と共感は得られなかった。


「けど、志音の理想図がそんな女の子とは……おや、もしかして気になる子とかできちゃった感じ? まさかの傘関係が続いてる感じですかー?」


「傘関係って何さ……」


「まぁまぁ。確かに笹原さんってキツそうな見た目だもんなぁー。わりと志音の性癖どストライクだったりする?」


「だから、別に俺はなんとも……!!」


「わかってる、皆まで言うな……。人気者の松本を振った笹原さん。その視線の先にいたのは全く交流のなかった同級生。ザッ、ラブコメディー」


「本当、庄司さんに似てるな……引っ叩きたくなってきた」


 そのノリは時折人をイラつかせる。西園が笑っているものだから、ついつい許してしまいがちだが。それすらも計算に入れた態度だというのなら、それはもう流石だと言うしかない。普段の庄司や西園を知っている人ならば、こんなへらへらした笑みをしているというだけで、いつものことかと許してしまいたくなる。ずるい。まして顔が整っている方なのだから、より一層。


「……あっ、ごめん忘れ物したかも」


「何忘れたのー?」


「今日出された英語の課題」


「明日ないのに真面目だねー。ちゃちゃっと取り行っちゃうかー」


 ふと思い出し、垣村と西園は自分たちの教室がある三階に向かう。上に向かえば向かうほど、吹奏楽部の演奏が華やかになってくる。演奏している曲はどこか聞いたことがあるものだ。映画か何かでやっていたものだろう。不思議と気分を後押しさせるような、高揚感のある曲だった。


 そんな音と共に自分たちの教室へと向かう。まだ時間も早いというのに、扉は閉め切っていた。施錠されるには早い時間だ。西園に顔を向けると「開いてなかったらしゃーないなー」と、元から課題などやる気はありませんよとでも言いたげに返してきた。まったく仕方のないやつだと思いつつ、垣村は扉に手をかけようとして、動きが止まる。吹奏楽部の演奏に紛れて、中からは小さな話し声が聞こえてくるのだ。


「誰か残ってるのかな?」


「んー、扉閉まってるし告白系かなー。ガラッと行くには勇気がいるねぇ」


「様子を聞いてみて、入っても大丈夫そうなら行こうか」


「立ち聞きかー」


「仕方ないでしょ」


 扉から離れて、教室の壁側に背中を預ける。意識して聞けばなんとか耳に届くような声量だ。その声質からして女子生徒、おそらくトップカーストのあの三人だろうとは予想がついた。中に笹原がいる。こんな立ち聞きを見られてしまったら、少しばかり軽蔑されそうだ。けれども、笹原がいるとなっては入るのにも躊躇いが増してしまう。


 他愛のない話のようだったが、途中から話の雲行きが怪しくなっていった。女子生徒の言うことには、昨日の垣村と笹原が一緒にいる写真が撮られていたらしい。SNSを確認すると、確かに見つけることができた。垣村を誹謗中傷する言葉の羅列に、思わず指が震える。隣で覗き込む西園も、いい顔は浮かべていない。


「唯ちゃんって垣村君と付き合ってるの?」


 その言葉が聞こえた途端、心臓が締め付けられる感覚に陥る。西園も携帯を覗くのをやめて、壁に頭を押しつけるようにして耳を澄ました。


(付き合ってるわけじゃない。嘘を言うわけじゃないし、別になんと言われようが……)


 どうでもいいと思う反面、どこか期待するような感情もある。肯定的な言葉が出てこないかな、と。そんなこと、ありえるわけがないと知っているはずなのに。そう期待してしまうのは、きっと昨日関わり過ぎたせいだ。心を落ち着かせるように、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いていく。壁越しに心臓の音が響いているんじゃないか、と不安になった。


「私は、垣村と付き合ってないよ」


(……まぁ、当然か)


 少しばかりの落胆。けれども当然の答えだ。この雰囲気では中に入るなんて無理だろう。西園に目線で帰ろうと伝えようとしたところで、話がまだ続くらしい言葉のやり取りが聞こえてきた。


「でも、二人っきりで写ってるし。普通一緒にいる? しかも垣村と」


(……傷つくってもんじゃないぞ、これ)


 社交的でなく、排他的。顔も良くない。であれば、妥当な評価なのだろう。せめて陰口ならばよかったが、知ってしまえばもう妄想では終わらない。これからも日々、彼女たちが笑っているだけで自分を貶しているのだと思い込んでしまう。事実を覆すのは、無理なことだ。苦々しく顔を歪める垣村と、気まずそうに頭を掻く西園。彼女たちのやり取りは終わらない。


「別に偶然だって。たまたま同じ電車だったからちょっかいかけただけだし」


「ちょっかいかけたって、カラオケまで一緒だったらしいじゃん。普通二人っきりでカラオケまで行く?」


「だから違うんだって。偶然、本当にちょっとした気の迷い」


 これはもうとっとと帰った方がいいんじゃないか。そう思う垣村だが、足は床とくっついてしまったかのように動かない。心臓だけがひとりでに暴れ回る。握りしめた拳の代わりに壁を殴るかのように、脈拍が壁を伝っていく。


「あぁもう、違うって言ってんじゃん。垣村なんかと好んで遊ぶように見えるの?」


(……垣村なんか、か)


 力強く握りしめていたはずの拳がゆっくりと半開きになる。そのまま地面に座り込みそうになるのを、笑っている膝で必死に我慢した。そんな満身創痍の垣村にトドメを刺すかのように、壁一枚向こう側から響く悪意ない陰口が襲いかかる。


「それもそっか。てゆーかこの写真どうすんの。垣村と一緒の写真かなり広まってるし」


「一応通報してあるよ。でも……簡単には消えないだろうね。何か言ってくる人とかいるんじゃない?」


「今言ったみたいに説明すればいいだけでしょ。ただの偶然。私が垣村なんかと一緒に遊ぶわけがないって。話しかけたらすぐオドオドするし、目なんか合わないし」


「うわ、想像できるわそれ。そんなんやられたら絶対笑っちゃうし」


 彼女に悪意はない。そうわかっている。いや、本当にそうなのか。今話しているのは、本音なのか。出任せなのか。それすらも判断できなくなるほどに、垣村の思考はぐちゃぐちゃにかき混ざる。まともな思考なんてものはできない。全てがマイナス方面へと向かいつつある。


 震え始める体。そんな彼の腕を掴んで、引きずるようにその場から連れ出したのは西園だった。掴まれている部分が痛むほど、彼は力を込めている。その痛みの甲斐あってか、階段を降り始める頃には周りをしっかりと認識できるようになっていた。


「西園、ちょっと痛い」


「あっ……悪い。って、そうじゃなくてさ。アイツら一体何様のつもりだよ」


「……悪気は、きっとないんだよ」


「そりゃないに決まってるよ。その行為を悪いって思ってないんだから」


 西園も怒っているのか、擬態が剥がれている。自分のために怒ってくれているのか。そう考えると、少しだけ心が落ち着くような気がした。


 踊り場まで降りてきて、手すりに背中を預ける。ほんの数秒、二人の間には沈黙が流れた。それを断ち切るように口を開いたのは、垣村の方だ。


「仕方がないことなんだよ。だってほら、俺こんなんだから。笹原さんだって、口からの出任せだよ」


「あんなこと言ってたのに? 志音、お前少しは落ち着いて考えてみろよ」


「落ち着いてる。ちゃんと考えてるよ。それでも……出任せだって、思いたいんだ。だって知ってるから」


「何を」


「笹原さんが、どんな女の子なのか」


 周りの目を気にするタイプ。周りから置いていかれないように、合わせようとするタイプ。確かに垣村のことを格好いいとは思っていないかもしれない。けれども、垣村は知っている。彼女が汗水垂らして、約束を守ろうとしてくれたこと。自分が作った曲を褒めてくれたこと。カラオケで歌っても、馬鹿にせず笑ってくれたこと。


 それら全て、彼女と関わったからこそわかったことだ。関わらなければ、彼女の言葉が真であることを疑わなかっただろう。垣村は、彼女の言葉が偽であることを信じたかったのだ。


「……例え、お前がそう思っていたとしても」


 隣にいる西園の顔は、笑っていない。彼は真剣だった。庄司が真面目に話を聞いてくれている時のように。彼はちゃんと垣村を見据えて話してくれている。だからこそ……その言葉が、重くのしかかってきた。


「アイツは、お前と一緒にいることを恥だと思っている奴なんだぞ」


「ッ………」


「だから言い訳なんかするんだろ。だから、否定するんだろ。お前と一緒にいるのを、誰かに見られるのが嫌だから。恥で、汚点だと思うからッ……」


「だって俺は、格好よくない……」


「お前の責任じゃないだろ! アイツに非はなくて、自分は傷ついてないからどうでもいいとでも言いたいのかよ!」


 彼の静かに怒鳴る声が階段に響く。笹原たちに聞こえないように配慮してくれているのだろう。吹奏楽部の演奏もあって、その声は近くにいなければ校内のざわめきの一つとしか思えない。


 隣にいた西園は、気がつけば垣村と向かい合うように立っていた。彼の顔を直視することができない。俯き、目を逸らす。事実や現実から目を背けるように。


「別に、俺は……」


「なんとも思っていないだなんて、嘘だ。本当にそう思ってるなら……そんなに、泣きそうな顔するなよ」


「……ごめん」


 その言葉を口にしたらもう、何も言えなくなってしまった。垣村の口からは言葉はもう出てこない。奥歯を噛み締め、瞬きを堪える。そんな震える彼を、西園は何も言わずに見守っていた。


「……なぁ、志音。思っているだけならまだしも、口に出してしまえばそれはもう事実なんだよ」


 流れ続ける音楽に消えてしまいそうな、微かな声だった。


「俺は、アイツのこと嫌いになったよ」


「……悪い人じゃ、ないんだよ」


「だとしても、言葉ってそういうものだから」


 正面に立っていた西園は、また垣村の隣に移動する。互いに顔を見合わず、身を包み込む音楽にかき消されそうな声で会話をする。顔を見なければ真意は伝えられないかもしれない。けれど、見ない方が本音を言えることもある。正面切って伝えるのが恥ずかしいものは、特に。


「俺は志音と一緒にいても、恥だともなんとも思わないよ」


「……ありがとう」


 彼は「おう」と小さく返事をする。そして数歩、下りの階段に向けて歩みを進めてから振り向いた。そこには先程までの彼はいない。けれども、今までの彼もいない。優しく微笑む、彼の姿は初めて見るものだった。


「クレープでも買って帰ろうか」


「……そうするよ」


 笑うことはできずとも、零れそうになる涙を拭って着いていくことはできる。もう生徒も見かけない廊下を二人揃って歩いていく。外から聞こえてくる野球部の声。テニス部のボールを打つ音。吹奏楽部の演奏。生きているだけでいろいろな音が溢れている。それら全てがそれぞれ独立するように生きていて、そんな音を聞きながら歩く自分たちはまるで世界から取り除かれたような、そんな気持ちになる。


「……最終的にどうするのか決めるのは、自分だよ」


「そう、だね」


「俺がどう思っていようが、志音が決めることだから。けどまぁ……相談くらいは乗るよ」


「……ありがとう」


「ん。友だちって、きっとこういうものだろうしねー」


 照れくさそうに笑う彼に、垣村も頑張って微笑み返す。少しだけ気が楽になった気がしていた。


 けれども、垣村は心の中でずっと悩み続ける。真偽がどうの、という話だけではない。西園が言ったように、言葉にしてしまえばそれはもう覆らない事実だ。本人がどう言おうが、受け取り手の解釈次第になってしまう。例え本人が嘘だと言っても、受け手が信じられなければそこまでだ。


 悪意のない行動なんてものは、探してみれば腐るほど見つかる。本人がそれを悪だと思っていないのなら、殊更凶悪なものと化す。謂れのない罪、偏見、決めつけ。トップカーストはそういったものを息を吐くように行う輩だと、垣村は思っていた。だから関わり合いたくなかったはずなのに、気づけばこうだ。これから先、笹原とどのように接すればいいのか。彼には何も決められはしなかった。

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