22話目 笹原と西園
憂鬱で、モヤモヤとして、心臓が痛い。学校が始まってすぐに、垣村と一緒にいる写真がネットで拡散された。別にそれはどうだっていい。自分で説明すればいいだけの事だ。尋ねてくる人全てに、笹原は垣村なんかと付き合っていないと答える。その答えを聞いて、確かにそうだよなと笑う人が多かった。その事実に、唖然となる。確かに差はあるだろうと思っていて、それでも縮まることがあるんじゃないかと希望的観測を持っていた。
だというのに、尋ねる人は誰もが垣村を見下していた。笹原と垣村との間にある壁は、彼女が思っているよりも高く、また周りの人は垣村のことを見向きもしない。
けれど、それでもいいのかもしれないと笹原は思ってしまった。なにせ、敵がいなくなる。今のところ垣村に近づこうとしているのは、花火大会で見かけたあの女の子だけなのだから。
周りの人が、彼を見なくていい。そう思っていた笹原は……二日後には違和感を覚え始めていた。垣村と目が合いそうにならない。それどころか、見られてすらいないようだった。駅のホームで彼に問いただそうとしても、彼はいつもの場所にはいない。メッセージを送ってみても、『少し忙しくなるから先の電車に乗る』と返された。
端の席に誰も座っていない、日陰の椅子。そこで、ぽつんと一人で座っている。嫌な虚しさだけが心を埋め尽くそうとしていた。イヤホンを取り出して、両耳につける。音楽だけが流れる世界。目を閉じて、思い出す。隣にいた彼のことを。
(……これで、良かったのかな。また写真撮られるかもしれないし)
あれほど拡散されていたのだ。垣村も知っているはず。だから彼は離れたのだ。これ以上面倒ごとにならないように、と。そもそも犯人が誰なのかすらわかっていない。そんな状態で、彼と一緒にいたら噂が信憑性を帯びるだけだ。だから、この状況は間違っていない。
笹原は何度も自分に言い聞かせる。けれども……彼女の心はそれを許容できなかった。日に日に増す、痛み。離れた場所から見ているだけで、話すことすらできない。挨拶すらまともに交わせない。歯痒いなんてものではなかった。
次の週になっても、垣村の視線は感じない。それどころか、露骨に視線を逸らそうとしているように見えた。何か、嫌われるようなことでもしたのではないか。それを聞きたくても、この距離ではどうしようもない。彼は接触を拒み、笹原は周りの目に縛られる。
話したいのに、本当につまらないことでもいいから、言葉を交わしたいのに。ただそれだけのことなのに。笹原と垣村が交流するという事象を、周りが認めてくれない。
(……どうすればいいの)
頭を悩ませ、放課後になる。授業の内容なんてロクに入ってこないくせに、休み時間の垣村と西園の会話は耳に届いてくる。彼の声が聞こえて、それだけで胸が苦しくなった。
(……西園なら、何か知ってるのかな)
いつも一緒にいる彼ならば。思いついてしまえば、もう行動に移す他なかった。帰宅部や部活のない生徒でごった返す駐輪場に行き、帰っていく生徒たちを携帯をいじりながら見ていく。私は何もしていませんよ、と思わせるように歩きつつ、彼女は自分のクラスのスペースにある自転車を片っ端から見ていき、西園の名前を探し出した。
そして彼の自転車の近くで待つこと十分程。斜めがけのカバンを揺らしながら歩く、西園の姿らしきものが見え始める。遠くから見ている間は、彼の表情はどこか柔らかい笑みを浮かべているようにも見えた。しかし彼が近づいてきて、笹原のことを認識した瞬間にその顔は消え失せる。いつもの彼は、そこにはいなかった。
目の前までやってきても、まるで笹原を無視するかのように自分の自転車に手を伸ばす。籠にカバンを無理やり突っ込んで、鍵を開けようとする彼の背中に、笹原は声をなげかけた。
「西園、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「んー、笹原さんが俺に?」
「そう、なんだけど……」
振り向いた彼の表情は、いつものだった。へらへらとした軽い笑みを浮かべる彼の顔。けれども細められた目は一切笑っていない。鋭く睨みつける眼光は、まるで鬱陶しいと告げているかのようで、思わず息が詰まってしまう。
(……私が、何かしたんだ)
自分が何かしてしまい、垣村と西園の両方から距離を置かれている。そう確信できてしまった。けれども……いや、だからこそ。ここで彼に尋ねなくてはならない。
全身が強ばるような緊張感に襲われながらも、笹原は彼の目を見据えて続きの言葉を発した。
「SNSに載ってた写真のこと、知ってる?」
「あぁー、アレね。もちろん知ってるよー」
「実は、その……そのことで、垣村とも話したくて。でも最近避けられてる気がしてさ。西園の方から、なんとかならないかな」
「んー、どうしよっかなぁー」
「垣村に、伝えてくれるだけでいいから」
どうか、お願い。そう懇願する笹原の姿を、西園は冷えた目で見つめる。庄司ならば、きっとまだその態度を出さないだろう。限界まで話を聞いて、それでふとした拍子に己の意志を表に出す。けれども西園は、まだそこまで成長できている訳ではない。先程から漏れ出ている不快感は、彼がまだ子どもらしさを持っているという証。否、それこそが西園 翔多という男の子らしさなのだろう。
「……笹原さんは、傘を渡してきた時も俺と面識はなかったはずだよね」
「……えっ?」
「名前だけ知ってるクラスメイトって間柄だったはず。話したこともないし、連絡先の交換もしてない」
自転車に体重をかけるように背中を預け、ハンドルを片手で支えながら姿勢を保つ。傍から見れば、だらしがなさそうな態度のように見える。けれども彼の目の前にいる笹原には、それが見下されているのだと思えてしまった。
「そんな俺には話しかけるのに、志音には話しかけない。何が違うの。俺と、アイツにどんな差異があるの。顔、性格、態度? それとも、目に見えもしないくだらないカーストってやつ?」
「いや……それ、は……」
返事に困る。言葉がつっかえて出てこない。いや、そんな話をしに来たのではない。笹原は話を戻そうと思っても、目の前にいる彼の豹変ぶりに戸惑い、瞬きひとつできないでいた。
縛られて動けなくなったような彼女を見て、西園は落胆したように息を漏らす。結局はそういうことなんだろう、と。
「大変だっただろうねぇ。垣村"なんか"と一緒に写真に写っちゃって」
「ぁ……いや、違っ……まさか、聞いてたの……?」
「んー、どうだろうねぇ。どの道教える気もないし。志音の外見を貶して、その在り方を見下して、笑いながら言えちゃうような人なんてさー」
細めた目が、嘲笑するように歪む口が、その腑抜けたようにも見える態度が、まるで犯した罪を裁く閻魔のように見える。嘘をついた舌を抜き去るが如く、灼熱の地獄に叩き落とすように、彼女から言葉を奪い去り、心の内に芽生えた罪悪感を燃え滾らせた。
「どーでもいいんだよねー」
関心なし。興味の喪失。関係の根絶。明確に、西園は彼女を拒絶したのだ。
あぁ、なんてことをしてしまったのか。そんな後悔をしようが、時既に遅し。彼女はもう口にしてしまったのだ。知っていながら、彼を貶し、蔑み、共にいることを汚点だと恥じてしまった。それが例え、出任せであったとしても。周りを納得させるためだけの、上辺だけのものだったとしても。彼女は思ってしまっていたのだ。垣村と一緒に歩いているところを見られ、垣村なんかと一緒にいるという事実をからかわれるのが嫌だった。
「じゃあ俺は行くけどさー、志音待たせてるし」
「っ……ぁ……」
待って。そう言おうにも、言葉は声にならない。遠慮がちに伸ばした手だけが、何も掴むことなく下ろされる。
自転車の鍵を開けて、西園はその場から少し離れていく。動く気配のない笹原の様子に、彼は立ち止まった。本当に、どうでもいいと思っているのだ。けれども足を止めてしまったのは、違うとわかっているから。
何が違うのか。その比較対象は、彼にとってひとつしかない。背中を向けたまま、誰に言うでもなく呟くように告げた。
「誠意ってもんを見せなよ。志音のことちゃんと考えてるならさ」
「っ……」
「……自分のやりたいようにできないのは、嫌だよねー。そんな立場になって、そんな友だちに囲まれちゃったら、おしまいだなー」
きっと庄司ならばこうするだろう。たったそれだけの理由だ。自分のやりたいことをやれるように、西園は垣村と一緒にいる。都合がいいとも言えるのかもしれない。それでも、他の男の友人らしきものとはまた違う。
他の人を指さして、アレは友人かと問われたら西園は、まぁそうだねーと曖昧に言葉を濁すだろう。
垣村を指さして、アレは友人かと問われたら、その言葉に笑いながら頷き、そうだよと返すだろう。そんな間柄だった。
「……誠意って」
遠ざかっていく自転車を見ながら、消えてしまいそうな声で呟く。駐輪スペースの日陰にいるはずなのに、汗が止まらない。心臓はもはやペースを落とすということを知らず、胃の中身がせり上がってきそうになる。
(……今日は、木曜日で、垣村がホームにいる日で……)
誠意とは何か。それすらもまともに考えられない。ただ、彼に会わなくては。それだけを考えていた。
その場から覚束無い足取りで笹原は歩き出す。日差しを浴びてよろめくように歩く彼女の姿は、まるで熱中症になってしまったかのよう。それでも足を止めずに、駅へと向かう。
けれども、いつもの場所にはやはり垣村はいなかった。
(どうしよう……どうしたらいいの……)
いつもの場所ではなく、垣村の座っていた椅子に座ってみる。イヤホンをつけ、また目を閉じる。そこには温もりなんてものは当然なく、無機質な椅子の冷たさだけがあった。
垣村。いつからか、頭から離れなくなってしまった人。そう、初めて認識しあった時から、酷い仕打ちをしてしまった。けれども、そんな笹原に向けて彼が言った言葉が頭をよぎる。
『許せない。けれどそのうち、気にならなくなることはあるかもしれない』
打ち上げの帰りに、彼が言ったその言葉。結局は、謝るしかない。西園の言ったように、誠意を持って。けれども、後一歩足りない。足が踏み出せない。一言メッセージを送ることさえも、躊躇ってしまう。
言葉は透明な弾丸だ。放ったことさえも自覚せず、その流れ弾に当たってしまった人は傷つくなんてものでは済まされない。笹原が言葉で彼を傷つけたように、西園によって精神的に打ちのめされていた。
どうにかして会わなくてはならないのに。伝えなくてはいけないのに。結局笹原には、金曜日になっても話しかけることさえできず、向けた視線は西園の冷徹な目で諌められ、苦痛ばかりが募っていった。
そんな不安定な彼女の思考は、段々と脆く愚かになりつつある。会いたいのならば、連絡を取ればいい。けれどそれが怖くてできない。無視されてしまったらと思えば、指は震えてしまう。だから……探したのだ。それはもう、自分以外の何者かに縋るように。どうにかして欲しいと、自分以外の何者かに願っていた。
わざわざ土曜に彼の通う塾がある駅に向かい、ぼんやりと人を眺めながら時間を潰す。けれども、見つけることはできなかった。諦めたらいいものを、家で何もせずに過ごしているだけで吐きそうになるのだ。逃げ場がなく、闇雲に探すことでしか、心を安定させることができなかった。
(……あれ、は)
もう空が暗くなりつつある。そんな時間帯に、公園を歩く二人の後ろ姿を見つけてしまった。それは間違いなく、垣村であり、その隣を歩いているのは花火大会の日に見たあの女の子だ。近寄り難い。足が棒のようになり、その場で立ち竦む。笹原の目尻に、涙が溜まり始めた。
(見つけ、られたのに……)
視線の先にいる二人。どうしようもなく、胸が痛む。謝りたくて、また話をしたくて。あぁ、それどころか……あの二人の仲を引き裂きたいとすら思えてくる。
もうボロボロだった。自分のしでかした罪を、償いたい。そしてまた、あのゆったりとした時間を取り戻したい。できることならば……ずっと。
目の前を歩く二人の後ろ姿を追うように、笹原は歩き出していた。涙を拭い二人を見つめるその瞳は、ただただ必死そうに鈍く輝いている。
「垣村っ!!」
叫ぶ。そして、彼が振り向く。どうしてここに、とでも言いたげに驚いていた。そして、その隣にいた女の子も。
「……笹原」
名前を呼んでくれたのは、彼ではない。隣にいる眼鏡をかけた女の子だった。苛立たしそうに睨みつけてくる。怒気を孕んでいるその声に……どうしてか、聞き覚えがあった。
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