20話目 気になる
夏休みがあと一週間。あと五日。あと三日。今日で最後。終わりになると、時間の流れがとても早く感じるものだった。気がつけば夏休みは終わり、また学校生活が始まる。夏休みが過ぎても暑苦しいのはまったく変わりない。垣村は教室の隅でイヤホンをつけ、以前と全く変わらないその姿を生徒に見せた。心の在り方が多少変わっても行動がそんなに早く変わるなんてことはない。
音量はそれなりに上げているはずなのだが、垣村の耳には周りの生徒たちの話し声が聞こえてくる。どれだけ大きな声で話しているのか疑問だが、内容はほとんど同じようなものばかり。課題が終わってないだとか、今日の集会が終わった後にあるテストのことだとか。進学校を自称している学校なので、初日からテストをするらしい。垣村も昨年は、嘘だろと若干嘆いていた。今年はちゃんと課題も勉強もしたので、特に困ってはいない。
腕から目だけを上げるようにして周囲を見回す。話している生徒、課題を見せあっている生徒、携帯をいじりながら話している生徒。そして、女子生徒に囲まれて話をしている笹原。距離的にどんなことを話しているのかはわからないが、少なくとも楽しそうにはしている。
(……あっ)
久しぶりの目が合いそうになる感覚。逃げるように顔を動かし、腕に顔をうずめる。多分向こうも何か気づいたんじゃないのかと思う。寝るふりをして見ていたなんて気づかれたら、いろいろと変に思われそうだ。いや、変というかキモい。
(……自分で言ってへこむなよなぁ)
窓の外から差し込む日射も相まって、垣村の体力をジリジリと奪っていく。更には笹原を見ていたことに対する羞恥心。背中にじんわりと汗が滲んでいくのがわかった。
下敷きで仰ごうかと思い始めた頃、右耳から音楽が消えていく。代わりに聞こえてきたのは西園の声だった。
「志音ー、頼むから起きて英語の課題見せてくれー」
「起きてるよ……てか、それくらい前日にでも言ってくれれば見せたのに」
肩を揺らしてくる西園に対し、これ幸いと思いながら体を起こす。相変わらず、課題が終わってないのに焦った表情ひとつない。そんな彼に呆れたように笑いながら英語の課題として渡された本を貸した。やることは本文を訳して問題に答えるというものだ。何故やらなかったのか、なんて問わなくてもわかる。西園が面倒くさがっただけだ。
最近は庄司を見る機会も多く、二人の表情の差や仕草なんてものも似てるんだなと思えてきた。西園はそれほどまでに庄司のように生きたいらしい。そのことを以前庄司に話してみたのだが、その時の彼の返答はこうだ。
『多分ねー、しょー君は怖いんだと思うよ。元々そんなに元気いっぱいって子でもなかったし。オジさんの真似をすれば、少なくともなんとか生きていけるって思ったんじゃないかなー。自分の生き方で生きていくって、なんとなーく怖いじゃん? それに、先駆者がいるのって心強いしね』
西園の元の性格というものを知らなかったので、それを聞いた時には垣村も驚いた。皆、それなりに努力しているのだ。未来に向けて、少しずつ。
「なぁ志音、知ってる?」
「主格が抜けてる」
「えっ嘘……って違う違う。笹原さんのことだよ」
本を見ながらどこを間違えたのかと一瞬だけ西園は探していた。それが面白くてつい笑ってしまったが、その後にでてきた笹原という言葉に、思わず表情が固まってしまう。
「松本に告られたんだってさ」
「……へぇー」
笹原が告白された。その事実に、どうしてか胸が苦しく感じる。まぁ、松本と笹原ならお似合いのカップルだろう。自分なんかとは違って、彼はとても格好いいし人気もある。けれど、そうなると教室であの二人のイチャつきを見ることになるのか。少しげんなりとしつつ、垣村は教室の前の方を横目で見る。笹原は女子生徒たちと。松本は男子生徒たちと話していて、お互いの距離は教室の端と端だ。
「……付き合ってる割には随分と距離があるね」
「いや、振られたんだってさー」
「松本が?」
「そうそー。意外だなーって皆話してたよ。言っちゃ悪いけどさー、笹原さんって面食いそうじゃん?」
「……確かにね」
尻すぼみになる彼の言葉に、垣村も肯定の意を返した。彼女は結構そういったことを気にするタイプのはずだ。だというのに松本を振ったというのは、少しだけ気になる。いつも一緒にいる友人。それを振るというのはそれなりにリスクもある。だが、好きでもないのに付き合うというのもバカバカしい話ではあるが。
「他に好きな人でもいるのかな」
「雨の日に傘を渡されちゃった人とかー?」
「西園、課題返して」
「終わったらねー」
相変わらずニヤニヤへらへらと、軽い男だ。時間になるまで垣村は話し相手になり、西園は課題をそれなりのスピードで書き写していく。
時折突き刺さるような視線を感じて、視線を前の方へと向ける。おそらく笹原のものだろう。イケメンを振った女の子に視線を向けられる垣村。字面だけなら、それなりに期待の高まるものだ。例えそれがありえないものであったとしても、夢を見るくらいはいいだろう。少しだけ優越感を感じていた垣村だった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
学校初日で少しだけ早帰りなのにも関わらず、垣村には塾がある。上りのホームにある階段下の椅子。いつもの定位置。ここに来るのも久しぶりに感じていた。反対側のホームや、周りにいる生徒は少ない。初日から部活があるのだから、やっている人は大変そうだ。だが本人にとっては楽しいのだろう。垣村が創作に打ち込むのと同様に、仲間と運動することに時間を割く。それなりに運動ができたのなら、自分にもそういった未来があったのかもしれない。
今のままではありもしないことを考えつつ、イヤホンから流れてくる音楽を変える。少しでも昔の自分から成長したい。ならば、過去の自分というものをよく知らなくてはいけない。鳴り響くのは機械音声。垣村が有名になった『陰日向』だ。世の中を皮肉るような歌詞。聴いているだけで恥ずかしくなる。昔の自分は、こんな世界を見ていたのだと感慨深くなった。考え方は変わらない。けれど、見えてる世界は少しだけ変わっている気がする。少しは人間として成長できた、ということなのだろう。
曲も中程まで差し掛かる。そんな時に、どこか懐かしい感覚に見舞われた。左耳に感じる開放感。そして聞こえてくる彼女の声。
「お、おはよう……垣村」
「おはよう、笹原さん。珍しいね、どもるなんて」
「うるさい。垣村のがうつったんだよ」
イヤホンを手に持ちながら、彼女は隣の椅子に座る。横目で見える彼女の表情は、不機嫌とかではなく気まずそうな様子だった。何かあったのだろうかと考えながら、垣村はイヤホンを外して音楽を止める。夏休み中に何度か遊んだとはいえ、気になる話題というのもあり自分から話してみようと思った。無粋なことかもしれないが、それなりに気になることだ。垣村も思春期の男の子なのだから。
「笹原さん、松本のこと振ったんだって? なんか、広まってるらしいけど」
「えっ、あっいや……そうなんだけどさ。なんで広まってんのかな……多分松本が誰かに話して、そこから広まったんだろうけど」
「モテる男女は大変そうだね。話題になりやすいし」
それに比べ、自分は女子生徒から名前が挙がることすらない。挙がったとしたらそれはきっと、陰口だろう。腿の上に肘を置いて、手のひらに顎を乗せて楽な姿勢をとる。随分とこの空間も気楽になった。最初の頃は何をするにも怯えていたというのに。今となっては少し懐かしい感じすら垣村は感じていた。
「……垣村はさ、花火大会行った?」
斜め後ろから聞こえてくる声。その言葉にどう返していいものなのか、垣村は悩んだ。園村と一緒に行ったことを言うべきか。話してしまったら何かと追求された挙句女子の間で話題になり、彼女の学校にまで広まるのではないか。なんとか言葉を濁した方がいいだろうと思って「花火大会?」と返す。
「偶然、なんだけどさ……。端っこの方で垣村に似てる人見かけたから」
「えっ?」
「女の子といなかった?」
「あっと……その……」
否定する言葉がすんなりと出てこない。曖昧な言葉を返してしまったが最後、彼女は確信を持ってしまっただろう。社交スキルをお金で買えるのなら買いたい、と垣村は心の底から思っていた。
「垣村って、彼女いるの?」
「違うよ。ただ、ちょっとした縁で知り合ったっていうか……うん、友だちだよ。彼女とか、そういった関係じゃない」
「……なんだ」
興味を失ったのか、低く小さめな声が聞こえてくる。仮に彼女だと答えたら追求する気満々だったことだろう。けれども、垣村にとって園村は友人だ。事実を捻じ曲げてはいけない。
「仲良さそうに見えたけど、そうじゃないんだ」
「仲は、まぁ……良い方なんじゃないかな、多分。出会い方が特殊だったっていうか……」
「雨の日に傘を無理やり渡して雨の中走り去っていくより?」
「……同じくらい」
日に二回も同じような事を言われてしまうとは。流石に恥ずかしくて垣村は両手で顔を覆い隠す。「はぁー」っと深いため息をつくと、笹原に「何恥ずかしがってんの」と笑われてしまった。顔が赤く染っていないか不安は残っていたが、体を起こして椅子に背中を預ける。
視界の隅に映るのは、未だにイヤホンを手に持ったままこちらを見ている笹原だった。
「ねぇ垣村、さっきまで聞いてた曲とか流してよ」
「えっ……」
「なんで嫌そうに顔歪めるの。まさか、音楽じゃなくて変なサイトでも見てた?」
「いや違っ……そんなの見てないって」
「ならいいじゃん。垣村が普段どんなの聴いてるのか気になるし。人受け良さそうなのに変えるとかナシだからね」
頬を指で突き刺すのではないかと思えるくらい、彼女は人差し指を向けてくる。聞いていたのは自分の作った曲。それを聴かれるのは恥ずかしい上に、歌わせているのはボーカロイドだ。幻滅されるなんてものじゃない。なんとかして曲を変えようかと思っていても、笹原はじっと垣村の顔と携帯を見比べている。
「……笹原さん。そのイヤホンで聴く気なの?」
「別に気にしないけど」
「しかも、持ってるの左耳のやつ……」
「いいから、早く。なんなら私が開くよ。パスワード教えて」
「わかった。わかったから……」
彼女の手が垣村の携帯に伸びてきて、握っている手と重なる。流石に焦って、垣村は了承してしまった。彼女はなんの躊躇いもなく垣村のイヤホンを左耳につける。
「ほら、垣村もつけて」
「いや、聴くだけなら笹原さんが両方つければ……」
「は・や・く・つ・け・ろ」
「なんか強引になったね……いや前からだけど」
仕方なく垣村も右耳につける。コードの長さの関係上、笹原は垣村の顔のすぐ近くにまで頭を寄せなくてはならない。彼女の右耳と垣村の左耳がくっついてしまうのではないか。いや、既に髪の毛が当たっている気がする。垣村の心拍数が跳ね上がって、携帯を持つ手が震えているような気がした。逃げ出したくても、彼女は逃がしてくれないだろう。彼女の呼吸音すら聞こえてくる距離だ。もうヤケクソになり、垣村は再生ボタンを押す。陰日向が流れ出してしまった。人の声ではないが、それなりに人が歌っているように調教してある。それでも恥ずかしくて仕方がない。
「……やっぱり垣村ってこういうの聴くんだね」
「……人の勝手でしょ。何聴いたってさ」
「そうだね。でもまぁ……悪くないんじゃない?」
心臓が跳ね上がる。笹原は知らない。隣にいる男がこの曲を作ったのだと。本人が本当にそう思っているのか、わからないが……例えそれが世辞であったとしても、嬉しくて仕方がなかった。彼女との距離の近さもあって、顔に熱が集まってしまう。こんな距離じゃ、この熱すらも伝わってしまうんじゃないか。なんとかしてクールダウンしようとする垣村とは対照的に、笹原は曲が二番のサビに入った途端鼻歌でメロディを刻み始めた。
(恥ずかしくて死ねる……なんだこの公開処刑はッ……!!)
時間が長い。こんなに長い曲を作った記憶はない。さっさと終わってくれと願い続けて、ようやく曲が終わる。そしてすぐ後、アナウンスで電車が来ることを告げてきた。もう次の電車に乗ってしまおう。そう決意して、垣村はイヤホンを外す。
「笹原さん、次の電車乗るからイヤホン返して」
「あともう一曲いけるんじゃない?」
「無理」
主に俺が。そう心の中で答えて、顔を背ける。差し出した手に彼女がイヤホンを乗せてきて、そのままスっと立ち上がって垣村よりも前に歩み出る。すると彼女は口元を抑えて笑い始めた。
「あははっ、顔真っ赤だし。初めて見たかも」
「暑っついんだよ」
「本当にー?」
「しつこいなぁ……」
また体を前倒しにして手のひらで顔を覆う。上から聞こえてくる彼女の声は楽しそうだった。なんだろうか、この羞恥プレイは。学校始まって早々こんな感じで、大丈夫なのか。
心配になってくる垣村を助けるかのように、電車の音が聞こえてくる。次第に大きくなる音、そして目の前で止まって扉が開く。二人で乗り込んで、前と同じように端に垣村が座ると、笹原もすぐ隣に腰を下ろした。幸いにも同じ車両に人は少ない。知り合いの姿もなさそうだった。
「ねぇ垣村。今日は塾早いの?」
「いや、いつも通りだけど」
「ならちょっと遊んでいこうよ。カラオケとかどう?」
「正気? 暑さで頭やられてない?」
「馬鹿にするな。垣村の降りる駅にカラオケあるんだから、行くよ」
マジかよ、と垣村は心の中で呟く。彼女は考えを改める気はないらしい。女子とカラオケなら、園村と何度か行ったことがある。けれども、お互い歌う曲はアニソンやボカロといった類であったし、女子という認識はそこまで強くはなかった。しかし笹原は違う。短めのスカート、半袖のシャツ。明るめの髪色に、左耳を出すようにかきあげられた髪型。女子であることを強く意識してしまう。
(……歌う曲、選んだ方がいいよなぁ)
頭の中で歌える曲をリストアップしつつ、電車は二人を運んでいく。タイムリミットはすぐそこだった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
カラオケから出て、街中をぶらつく。思っていたよりも普通に楽しめたことが驚きだった。笹原は気分の上がるような軽快な曲を好み、垣村はゆったりとした曲を選ぶ。流石にラブソングはやめた方がいいかと思っていたが、笹原が遠慮なく歌い始めたので垣村も歌ってしまった。そのうち「さっき聴いた曲歌ってよ」と言われてしまい、自分の作った曲を自分で歌うというあまりにも惨い仕打ちを受けた。その他にもボカロ曲を強請られ、最終的には気にせずに歌ってしまう。笹原は終始笑顔のままカラオケを楽しんでいるようだった。
ただ、垣村が気になったのは……トイレに行く途中で見たことがある後ろ姿を何度か見かけたこと。それは垣村の高校の生徒であったり、他校の女子生徒……園村の姿らしきものも見えた。学校が早帰りの学生が考えることは似通うらしい。
「垣村高い音苦手すぎじゃない?」
「そもそも歌うのそこまで得意じゃないんだって」
「無理やり歌おうとして掠れたの、流石に笑っちゃったよ」
塾の方面に向かいながら、笹原は先程までの垣村の様子を話し始める。歌うのが得意じゃないからボーカロイドで歌わせているというのに。垣村は静かにため息をついて、携帯で時間を確認する。塾の時間までまだしばらくあった。それに、少しお腹がすいてきている。コンビニで何か買おうかとも思ったところで、庄司に言われたことを思い出した。
「笹原さん、お腹すいてる?」
「少しはって感じ」
「なら、よく行く店があるんだ。そこの唐揚げが美味しいから、買いに行こう」
「いいよ。垣村の奢りなら」
「……仕方ないな」
「冗談だよ。ちゃんと払うって」
嫌そうな顔をする垣村に、笑いながら彼女は背中を軽く叩いてくる。道を逸れて、しばらく歩くと庄司とよく来る居酒屋に辿り着いた。昼間は唐揚げなどを売っていると言っていたのは嘘ではなく、入口の隣にある窓で買い物ができるようになっていた。中ではいつも居酒屋を営んでいる四十代くらいの女性が働いている。近づいてきた垣村に気がついたようで、女性は近寄って話しかけてきた。
「あら、随分と今日は早いね。いつも一緒の人じゃないんだ」
「またいつか夜に来ますよ。あと、唐揚げ二人分ください」
「はいよ。彼女ちゃんの分、ちょっと安くしちゃおうか」
「いや、彼女じゃ……」
否定しようにも、女性は笑って「いいのいいの」と唐揚げをパックに詰める作業を始めてしまう。タレがふんだんにかかった唐揚げの匂いは離れていてもわかる。その匂いを嗅いでしまえば、先程よりもお腹が空いた感覚が強くなってしまう。
詰め終わったパックを二つもらい、垣村がお金を渡す。払おうとしていた笹原は面食らった様子で垣村を見てくる。それを無視しつつ、背後から聞こえてくる女性の声に返事をしながら少し離れた場所にある広場のベンチで座って食べることにした。広場には誰もおらず、子供すら遊んでいない。
「お金払うって言ったのに」
「あの方が早かったし、安くしてもらえたからいいよ」
「それに、なんで居酒屋の人と顔見知りなの。まさか酒飲んでる?」
「飲んでないって。よく知り合いの大人に連れていかれるだけだよ」
「ふーん……あっ、この唐揚げ凄い美味しい」
「でしょ?」
自分が作ったわけじゃないのに、垣村はどこか誇らしそうにそう答える。タレ、肉、硬さ。どれをとっても素晴らしい以外の言葉がない。爪楊枝で刺して、ひとつずつ口に運んでいく。美味しさのあまり、二人とも口元が緩んでいた。
「やっぱり、垣村と一緒にいると意外なことばっかりだよ」
「そうかな?」
「居酒屋なんて普通来ないし。男が誘うところなんて、手頃なレストランとかファミレスでしょ」
「確かに、そうかもね」
「まぁ、退屈しないから私はいいけど」
タレのついた唐揚げを齧る彼女の姿を視界の隅に捉える。齧りつく時の唇の動きだとか、周りについたタレを舐めとる舌の動きだとか。打ち上げの時にも、彼女の食べる仕草を見て、やたら扇情的だと。ド直球に言い換えればエロいと感じていた。思春期には中々来るものがある。今日何度目かわからない心臓の暴走に辟易しつつも、彼女の食べる姿を盗み見ることをやめられない。
「……垣村」
「っ、なに?」
「変態」
「な、何がっ!?」
バレていたのか。見ていないですと答えるのを我慢して、何もしていないんですけどと言い返す。笹原は狼狽える垣村の様子を笑いながら、口の中に半分ほど食べた唐揚げを放り込む。そして垣村から見えないように、口元を隠してしまった。なんとかこの空気から脱したく、垣村は彼女に話しかける。
「そういえば、笹原さんってなんで松本のこと振ったの?」
「普通そういうの聞く?」
「い、いやその……気になって」
流れを変えたかったとは言えない。気まずそうに顔を逸らす垣村を見て、また笹原は笑う。「仕方ないなぁ」と彼女は言って、食べる手を止めた。座る距離を少し詰めてきて、垣村の耳元で囁くように告げる。
「実は、気になる人いるんだよね」
「……そうなんだ。松本を振るってことは、よっぽどイケメンなのか、優しいのか」
「さぁー、どうなのかな。イケメンかもしれないし、優しいかもしれないし」
耳元にかかる息がくすぐったい。笹原が離れてから垣村が彼女を見ると……悪戯が成功した子供のように、無邪気そうな顔で笑っている。
(……これで自分に気があるんじゃないかと思ったら、負けなんだよなぁ)
トップカーストはそれなりに人との距離を詰めたがる。椅子しかり、電車しかり。だからこの行動もきっと、彼女にとってはなんの意味もない普通のことなんだろう。自分に言い聞かせるように、数回心の中で呟く。驕るな、と。
彼女がどういう人間なのか、それなりに知っているはずだ。自分に可能性がないことくらいわかるものだろう。ただの友人、園村と同じようなものだ。そんな彼女と、沈黙が苦にならず、時折話す内容が実のないことであっても、塾の時間ギリギリまで話してしまったのは……それなりに関わって、互いを知ることができたという証なのだろう。
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