16話目 借りて返す
茶色や白の家具の多い寝室。女の子らしさはないが、落ち着いたような印象を与える。誰に見られても恥ずかしくないし、誰にでも好感の持てそうな部屋だ。
ベッドの上にごろんと転がり、充電していた携帯を手に取る。画面をつけてみれば、友人からの通知でいっぱいだった。それらにひとつひとつ返しながら、面倒くさく感じ始めた。見たらすぐ返す。当たり前だけれど、やっぱり面倒くさい。男子からくるメッセージなんて、会話を長引かせようとする魂胆が見え見えだった。花火大会用のグループでは他愛ない話とともに当日の行き方も話されていて、皆楽しみなんだなとわかる。楽しみといえば楽しみだけれど……なんとなく、別のことを考えてしまう。いつもの皆と一緒じゃなくて、一人でふらふらと歩いていたら偶然アレと出会ってしまうこととか。
(……何考えてんだろ)
いたらいたできっと面白そうだ。どんな服を着てくるんだろう。甚平……はなさそう。見せる相手もいないだろうし。私服、そういえば打ち上げの日の服装は普通だった。
(……垣村、か)
アプリの友達一覧には彼の名前はない。クラスのグループに一応彼は入っているが、何かしらメッセージを送ることもない。友人である西園以外にはわりと排他的なイメージがあった。それでも笹原は知っている。意外と気遣いができたり、西園と一緒にゴミを拾う優しさもあり、隣に笹原がいても自慢話をせず、会話を長引かせようとはしない。ちょうどいい距離感。夏休みに入ってしばらく経つが、遊びに外に行っても彼と出会うことはない。駅でいつもの場所に行ってもいないし、反対側を眺めていても彼の姿は見当たらない。
(夏期講習以外は暇だって言ってたっけ)
駅での会話を思い出しながら、指はクラスグループのメンバーをクリックし、その中から垣村 志音という名前のアカウントを探し出す。プロフィールの画像は、黒色のヘッドホンの絵だ。いつも音楽を聴いている彼らしいと笹原は思いながら、彼にメッセージを送るというボタンを押そうとして……指が止まる。
(急にメッセージ送ったら嫌がるかな。でも、そうしないとメッセージ送れないし……そもそも、もう十二時過ぎてるし。わりと真面目だから起きてるかもわからない)
他の人より垣村を知っているはずだと思っていても、存外彼のことを深く知れていなかったことに気づく。送ろうか、送らないか。五分くらい足をじたばたとさせながら迷った挙句……思いきってメッセージ画面を開いた。これで垣村の方にも通知がいくはずである。後戻りも何も出来ない。クラスの仕事で男子に連絡する時は何も感じないのに、不思議と手が震えて仕方なかった。
『今日何か予定ある?』
メッセージを送って、気づく。もっと先に言うべきこととかあったんじゃないか。こんばんわとか、夜分遅くにごめんとか。いや、そこまで気遣う必要もないのかな。不自然だし、こっちの方がきっと自然なはず。
たった一文メッセージを送っただけだというのに、変に疲れてしまった。笹原は両手を広げて布団に力なく叩きつける。送ってからというもの、時計の針が動くチクタクという音がどうにも心を落ち着かせなかった。時間が経つほど、返事がないことに不安な気持ちがうまれてくる。
「……ッ!!」
ピコンッと通知を知らせる音。思わずビクリと身体が震えてしまう。これで他の人からのメッセージだったら気落ちするものだが……画面に書かれた垣村 志音という文字に、安心して長いため息がでてしまった。緊張やら安心やらが襲いかかってきて、気がつけば瞼が重くなってくる。とりあえず約束だけでもとりつけないと、と思いながら文字を打っていって……そのまま眠ってしまった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
暑苦しいと感じながら、笹原は目を覚ます。右手には携帯が握られたままで、どうやら寝落ちしてしまったらしい。遊ぶ約束はできたから時間までに準備しないと、と思いつつ時計を見た。時間は既に正午を過ぎている。
「やばっ……!?」
まさかこんなに眠っているとは思わなかった。すぐに飛び起きて、適当にリビングにあったパンを食べながら急いで支度をしていく。日差しが強いので半袖のシャツを着て、下はスカートでもいいかと思ったけれど、垣村が動揺しそうだから短めのジーンズを履いた。これなら変に思われることもないだろう。身支度を整えて、すぐに家を出た。バスの時間を確認したら、このまま向かえば十分間に合う。けれど……携帯の画面には充電不足を知らせるマークが浮かんでいる。少し不安になりながらも、笹原は足早に駅にあるバス停へと向かった。
夏休みだからか学生らしき人が多い。すれ違う人たちは楽しそうに会話するカップルだとか、部活に向かう男子生徒だったり。学校で集まりでもあるのか、学生服に身を包んだ人も何人かいた。どうやら電車が駅についたらしく、多くの人が駅の階段を降りて散らばっていく。バス停は駅を挟んで向かい側だ。時折見てくる男子生徒の目線を無視しながら階段をのぼって、向かい側まで歩いていこうとした時だ。
「あれ、笹原?」
改札前で、ちょうど出てきた松本と数名の男子生徒に出くわした。青色のジャージには坂上高校と書いてあり、部活帰りのようだ。松本の後ろには普段一緒にいる二人の姿もある。
ちょっとだけ面倒なことになったかも。笹原はなるべく表情に出さないよう、松本に挨拶を返した。彼は笑いながら近づいてきて笹原の隣にまでやってくる。他のサッカー部員は皆それぞれ別れて帰っていく中、笹原と松本だけがその場に残っていた。
「どっか遊びに行くの?」
「うん。ちょっと買い物行こうかなって」
「そうなん? なら手伝おうか。荷物持ちぐらいならするよ」
えっ、と言いかける。笑顔のまま手伝いをすると言ってきた彼に対して、言葉が出てこなかった。誰にも垣村と遊ぶことを伝えていない。いや、伝えられない。このままついてこられるのは無理だ。垣村と一緒にいるところを見られてしまえば、茶化されるどころの話ではない。どう断ろうかと悩んでいる笹原に、たたみかける様に松本が話しかけてくる。
「そういえばもう飯食ったの? まだなら何か食べようか。俺部活帰りで昼飯食ってないからさー。確か階段降りたところにレストランっぽいのがあったはずだし」
「いや、私もうご飯食べちゃったから。それに、買い物も一人でいくよ」
「一人だと何かとあれじゃない? 俺なら別に何持ったって平気だからさ」
「……中学の友だちと待ち合わせしてるの。気まずいからやめておきなよ」
「別に笹原の友だちだっていうなら平気だけどなー」
何度言っても食い下がってくる。いつも一緒にいるとはいえ、流石に休みの時にも一緒にいようとは思えない。「別にいいから」と断っても「その友だちの中に男とかいる?」とか、何としてでも情報を探って一緒にいる口実を作ろうとしてくる。笹原も段々イライラしてきた。すまし顔の多い彼女だったが、眉をひそめて明らかに苛立っているのがわかる表情になり、松本に向けて突き放すように言う。
「しつこいよ。昔の友だちだけで集まるって言ってるじゃん」
鬼気迫るような物言いに驚いたのか、松本は身を少しだけ引いて申し訳なさそうに「わ、わりぃ……」と謝ってきた。もう無理だとわかったのだろう。「じゃあ、またな」と言ってその場から離れていく。なんとか一人になることができた。そう安心したのもつかの間、バスが来るまで時間がなかったのを思い出す。笹原はすぐにその場から移動してバス停へと向かうのだが……。
(あっ……もしかして、あれ?)
階段を降りる途中で見えたのは、一台のバスが動き出す光景だった。そのバスが止まっていたバス停を見れば、今しがた出たものが乗ろうとしていたバスらしい。仕方なく次のバスの時刻を調べてみるが……一時台のバスはもうなく、二時台のバスも四十分頃。完全に遅刻だった。
(嘘っ……あぁもう、遅れちゃうし)
引き止めてきた松本に対して恨み言を心の中で呟きながら携帯を取り出す。垣村に遅れることを伝えなくちゃ。画面をつけて彼とのメッセージ画面を開いたところで、画面が黒色のものへと切り替わる。中心に浮かぶのは携帯の機種名。そしてとうとう何も映さなくなる。ボタンを押しても、何も反応しない。
(なんでこんな時に限って……)
バス待ち用の椅子に座りこんで、項垂れる。どうしよう。垣村に遅れると伝えたいけど、携帯は充電が切れた。予備充電器は学校用のリュックの中。電話をかけようにも、彼の電話番号は知らない。今から家に帰って、また戻ってくる? いや、それでまたバスに間に合わなかったら元も子もない。駅をひとつ下れば、そこにも確かショッピングモール行きのバスがあった気がする。けど、時間を調べることができない。
(あぁ、もう……)
深いため息をついて、地面を見つめる。日陰でも暑いのに、こんな中彼を長い時間待たせてしまったら……。
なんだかんだいって、彼は待ってくれるだろう。少なくとも、一時間くらいは待つかもしれない。でも、仮に自分がそれをやられたら、かなり嫌だ。時間になっても来ない。メッセージも読まない。そんな状態で、ただただじっと来るかもわからない人を待ち続ける。そんなの、耐えきれない。
(会ってすぐ、謝らなきゃ。いや、そもそも……会えるの?)
待っていて欲しい。そんなわがままなことを考える自分が嫌だった。自分にできるのかも怪しいのに、それを他の人に強要するなんて無理だ。
あぁ、会ってなんて謝ろう。頭を下げて、ごめんって言って。それでも足りないから、何か奢った方がいいのかな。
頭の中でぐるぐると、何度も何度も考える。心臓付近がずきりと鈍く痛んだ。脈がどくんっといく度に、ずきりっと。痛い。痛い、ごめん。走ったわけでもないのに、心臓は嫌という程暴れ回る。早く。早く。急かしても時間は早くならない。
やがてバスがやってくる頃には、もう考える余裕すら残されていなかった。乗り込んで、そのまま揺られていくこと数十分。店の壁が連なるショッピングモールへと、ようやくたどり着いた。待ち合わせ場所はバス停を降りてすぐのところにある広間。周りを見回しても、垣村らしき人物は見当たらない。
(やっぱり……帰っちゃったよね……)
もう、ほとほと疲れてしまっていた。動きたくない。彼にはもう嫌な奴だと思われていたのに、更に悪く思われてしまう。
笹原が座れる場所を求めて、とぼとぼと歩いて案内板の元まで行くと、広い地図が目に入ってきた。笹原の降りたバス停は北西側。ショッピングモールの多くは服屋や靴屋で埋め尽くされている。フードコートにでも行って休もうと思っていた時に、ふともうひとつのバス停が目に飛び込んできた。それは笹原の最寄り駅よりも下の駅から出ているバスが止まる場所。それは彼女が今いる場所とは正反対な、南東側にある。そして、そのバス停の目の前には広間もあった。普段来るときはこちら側しか利用しない笹原は、そのもうひとつのバス停をすっかり忘れてしまっていた。
(垣村の家は下の方だから、もしかしたら……)
行き方を覚えて、すぐにその場から走りだした。走っている彼女をいろいろな人が見てくるが、それでも脇目も振らずに走る。日頃運動しないせいで、体力はそれほどない。息もすぐに切れて、呼吸をするだけで喉の奥が痛い。汗も酷い。こんな汗をかいた女が隣にいたら、嫌だ。絶対に臭うし。でも、でも……と心の中で呟きながら笹原は走り続ける。そこにいるかもしれない、ただその可能性だけを信じて。
苦しい。足を止めてしまいたい。けれど動かし続ける。笹原も意地だった。走って、走って、そしてようやく見えてくる。広間を行き交う人たちの中にいるかもしれない彼の姿を、揺れる視界の中で必死に探した。そして……見つけた。日陰の椅子に座っている彼を。
(……いて、くれた。待ってて、くれたんだ)
嬉しさと申し訳なさ。それらが混ざりあって、更に息たえだえ。その表情を表すのなら、必死としか言えない。あと少しの距離だ。最後の力を振り絞って、彼の元へ。そのまま力なく彼の元へ倒れてしまいたいが、それは許されない。謝らなきゃいけない。心配そうな彼の声が耳に届く。そしてタオルを貸してくれた。こんな暑い中待たせてしまったのに、どうしてこんなに優しくしてくれるのか。泣きそうになってしまうのをタオルで隠しながら、笹原は謝る。ごめん、ごめんっと。
椅子に座ってしまうと、とうとう動けなくなる。言い訳がましいことも言ってしまった。怒られたくなくて、嫌な奴だと思われたくなくて。けれど彼は怒っていなかった。首だけを上げて見てみると、その表情は可笑しそうに笑っていたから。
「なんかもう、どうでもよくなった。笹原さんが、必死だったから」
許してもらえた。それだけで、すっと心が楽になっていく。息を整えながら彼を見ていたら、目尻に涙がたまっているのが見えてしまう。尋ねてみても、はぐらかされてしまった。恥ずかしそうに「汗だよ」と答えるその姿が、ちょっとだけかわいらしいと思えてしまう。
それにしても、体中べとべとだ。汗が滲んで、服にシミができている。恥ずかしいどころの話ではなかった。こんな格好じゃ、垣村も嫌がるだろう。
「ごめんね、垣村。こんな汗まみれの格好で……隣にいたら、不快に思うでしょ?」
「……いや、別に。笹原さんが必死になった結果だって、俺はわかってるから。気にならないよ」
「……ありがとう、垣村」
服がひっつくような感覚は嫌いだけれど、彼がそう言ってくれたおかげでちょっとは嫌な気分がなくなった。落ち着くまで座りながら話をして、最近起こったこととか面白かったことを話していく。そんな中で、ふと思い出したように垣村は尋ねてきた。
「なんで俺を誘ったの? 荷物持ちなら、俺よりも他の人の方が良かったんじゃない?」
「荷物持ちで誘うって……あんたさぁ……」
呆れてものも言えない。素直に誘われたことを喜べないのか。垣村はそういった経験がなさそうだから、勘違いしてしまうのも仕方のないことかもしれないけど。
(……そういえば、私が垣村の初めての相手? 女の子と遊んだこととか絶対なさそうだし)
そう考え始めた途端、暑かった体にまた熱がこもり始める。タオルで口元を隠して、にやけてしまうのを見られないようにした。それにしても、口元にタオルを持ってくると匂いがする。笹原はついさっきまで余裕がなかったので気づけなかったが、時間が経つにつれその匂いが垣村のものであることに恥ずかしさを感じ始めた。男子にしては、ちょっと甘い匂いがする。
「なら笹原さんは、どんな服を買いに来たの? 悪いけど、そういったセンスはないから選ぶのは無理だよ」
「私の服だけじゃなくて、垣村のもだよ」
「えっ、俺のも?」
そんなこと考えてもいなかったと言いたげに驚いていた。垣村の私服のセンスは良くも悪くも普通だった。奇抜でもないし、オシャレでもない。ただ地味な感じはするけれど、それは垣村らしさに合っている。けれど、もっと格好よくなれるかもしれない。服を変えて、合わせて、それで髪型とかもいじってみれば。
「垣村はもっと格好よくなれるよ。髪型変えて、伊達メガネとかつけてみたら?」
「い、いや……俺にはちょっと……」
「服も組み合わせ変えてみたりとかさ。黒とかじゃ地味になっちゃうよ。明るい色とか、柄物とかさ。そうすれば見栄えも良くなるし」
こうした方がいい。そうすればもっと格好よくなる。そんなアトバイスを垣村に伝えていくが、途中から彼の表情が硬くなっていった。苦虫でも噛んだような、曖昧な表情。それに気づかずに笹原は話を続けていくのだが……割り込むように、垣村は言ってくる。
「笹原さんは、どうして俺をそんなに見栄え良くしたいの?」
「どうしてって……垣村は、なりたくないの?」
「いや、そりゃなりたいけど……強要されてなるのは、なんかちょっと違うかなって」
「ふーん、変なの」
誰だって格好よくなりたいし、かわいくなりたいはず。けれど垣村は違うらしい。相変わらず何を考えているのかはわからない。
「笹原さんは……俺に、格好よくなってほしいの?」
「ふ、ぷふ……か、垣村、そんなこと普通聞く?」
「いや、その……気になって」
「あははっ……でもさ、格好よくなれるならそれでいいじゃん」
あまりにも聞いてくる内容が可笑しくて、笹原は笑ってしまう。格好よくなってほしいの、と問われれば……多分なってほしいと笹原は思っていた。見栄え良く、それなりの服に身を包んだ垣村なら、隣にいても何もおかしくはない。茶化されることもないし、悪い気もしない。垣村が格好よくなるなら、それはそれでいい事のはずだ。けれども、垣村は困ったように眉をひそめるだけ。笹原には何が不満なのかわからなかった。
そのあとは、特に追求することもなく二人で歩き回る。服屋で祭り用の服を見て、垣村に合いそうな服を見繕ってみたりして。会話が途切れても、何か面白そうなものを見つけたらそれを題材に話を広げていく。暑い中待たせてしまっても、彼はそれに対してグチグチと不満を漏らすこともなく、荷物を持ってくれたり、休む時に飲み物を取ってきてくれたり。それなりに気を遣ってくれた。その行動に下心があるようには思えず、ただ彼の人となり故の行為だったのだろうと思える。だから、彼の隣は居心地がよかった。そんなに気を遣うのに神経質になることもない。会話が途切れても気まずくならない。そして何よりも……彼が待っててくれる優しい人で、遅れてきた笹原を許してくれたこと。それが嬉しかった。
時間が過ぎて、夕暮れになる前に帰ることにした二人。「またね」と言い合って、それぞれのバス停へと別れていく。またね、と心の中で笹原は何度も繰り返した。また、知り合いが誰もいなさそうな場所で遊ぶことができたなら。きっと、楽しいはずだ。それに、タオルも返さなくてはならない。借りたものを返す。それは笹原と垣村を結びつけたもの。なんだか懐かしいような、そんな気分になって……バスの中で笹原は、タオルを両手に持って静かに微笑んだ。
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