13話目 残暑

 学校に通っていて同じクラスである以上、笹原は垣村と校内で顔を合わせることがそれなりにある。移動教室、登下校、トイレに行く時。朝の学校で紗綾たちと偶然下駄箱で鉢合わせになり、教室に向かう途中で垣村とすれ違ったこともあった。ほんの一瞬だけ、垣村は笹原を見ていたし、また笹原も彼のことを見た。けれど、それだけ。素知らぬ顔で通り過ぎて、紗綾たちと会話をしながら教室へと向かう。


 たった一言「おはよう」と言うことすら叶わない。同じ学校、同じ教室、同じ生徒同士。きっと紗綾たちが隣にいなければ挨拶くらい簡単に交わせたのだろう。邪魔だとは思わないが、少なからず笹原は胸を締め付けられた。言いたいことも言えない関係。話したくても話せない関係。なんて、歯痒い。けれど……週に二回。たった二日だけ彼と話す機会がある。月曜日と木曜日、その日は早く学校が終わらないものかと思ったりもした。


 そしていざ駅に向かえば、彼は既に椅子に座ってイヤホンから流れる音楽に身を任せている。そんな彼の隣に座ってイヤホンを外してやり、その驚いた顔に笑わせられながら挨拶するのだ。「おはよう」と。朝は言えないから。この場所で、この時間で、朝の挨拶をする。それが特別に思えて、ちょっとだけ優越感のようなものを感じられた。だが、最初からその挨拶をしようと思っていたわけではない。ただこの場所で顔を合わせた時、彼がイヤホンをつけたまま目を閉じていたからそう言ってしまっただけで。気がつけばそれが当たり前になっていたけれど。


 次の週になっても笹原は駅のあの場所へと足を運ぶ。垣村も慣れてきたのか、どもることは少なくなり、会話も少しだけ増えた。それでも、互いに会話がなくなるときがある。携帯を見て、電車が来るまで時間を潰す。その無言が、沈黙が、苦痛だと感じなくなるのにさほど時間はかからなかった。むしろ、楽だとも感じる。何か話さなきゃいけない。間が持たない。気まずい。友達と一緒にいると、そんな脅迫感に苛まれることがある。けれど垣村は違う。隣にいても気まずくはない。好きなように時間を過ごして、何かあれば話しかける。SNSで見つけた笑える話だとか、ふと思い出した課題についてだとか。


 垣村の抱いていた笹原への苦手意識が、互いを適切な距離感へと導いたのだ。たった手すり一つ分の距離。それがとても心地よい。


 また別の日。笹原は足取り軽く、駅の日陰の椅子へと向かって歩く。椅子に気怠げに座っている彼の姿を見て、どこか変だと笹原は思った。いつもつけられているイヤホンが、左耳だけつけられていない。不思議に思いつつ、彼の元へと笹原は近づいていく。コツンッ、コツンッと彼女が履いているローファーの硬い足音が聞こえたのか、彼は顔をほんの少し向けてくる。来ることがわかっていて、待っていてくれたようで……その対応に、心のどこかで嬉しがっている笹原がいた。その様子を隠すことなく、笑顔で彼に言う。「おはよう」と。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 教室の中はもうじき来る夏休みの話題で持ち切りだった。休み時間に友達と集まって、どこへ行こうかなんて話をしている。来年からは受験勉強で忙しくなるだろうし、今年は目一杯遊べるだけ遊べたらいいな。


 そんなことを考えながら携帯をいじっていると、紗綾が笹原の席に近づいてきた。その後ろには彩香もいて、松本もいる。いつも一緒にいる他のサッカー部の男子二人は後ろの方で携帯を見せ合いながら笑いあっていた。


「ねぇねぇ、夏休みになったら皆で花火いかない?」


「皆でって、松本たちも?」


 確認を取るように笹原が松本の方を見れば、彼は照れくさそうに笑って「ダメかな?」と聞き返してきた。いくら普段一緒にいるとはいえ、まさか花火を一緒に見に行くだなんて思わなかった。普通は男同士か女同士、カップルで行くだろう。


 しかし笹原には今のところ予定はない。こちらを見てくる紗綾も今から楽しみだと言いたげなくらいニンマリと笑っていた。松本のようなカッコイイ上に運動もできる男の子と一緒に回れるのが嬉しいんだろうな。別に私も吝かではない。クラスの人気者と一緒に花火を見る。友人と一緒に回る。それはそれで、思い出になるかもしれない。そう笹原は考えて、頷いて「いいよ」と返した。


「おっ、マジで!? 笹原、浴衣とか着てくる?」


「浴衣は……ないかなぁ」


 女の子と一緒に回れるのが嬉しいのか、松本はえらい喜んでいた。後ろを振り向いて他の二人に向けて、「笹原も行くってよー」と告げる。こんなに人気があるのに、どうして彼女がいないのか。できそうなもんなのになぁと思いながら花火の日程などを確認していく。場所は学校の最寄り駅からかなり下ったところらしい。下りといえば、電車がかなり少ないんだっけ。夜の八時とか電車が一本もないんだよって、垣村が言っていたような気がする。


(……垣村、か。アイツ夏休みとか暇してそうだなぁ。花火とか見るより、西園と一緒にゲームしてそう)


 その光景がありありと思い浮かぶ。けれど、もし仮に垣村と花火を見に行ったとして。その光景は全然考えられない。隣を垣村が歩いて、きっと人混みではぐれないように考慮してくれたりもしないし、屋台で何か買う時も率先してお金を出したりしないだろう。会話なんて、どんなことを話すのか。浴衣を着ていったらどんな反応をするのか。照れるのか、褒めてくれるのか、それとも前みたいにどもるのかな。


(本当に……考えられない)


 松本たちはきっと普通の男子生徒のように振る舞うんだろうな。見栄を張って、お金を出して、容姿を褒めて。普通だ。簡単に想像できてしまう。


(……アイツは普段何を考えてるのかな)


 他の男子と違うから。劣っている部分が多い。容姿、態度、話し方、間の繋ぎ方。でも、気楽だ。何も考える必要がない。見せつける必要がない。それがきっと、他の男子との違いなのかも。


「唯ちゃん、今度洋服買いに行かない?」


「ん、いいよ。花火用?」


「それもあるし、水着も買いたいなー。海とか行ったら楽しそうじゃない?」


「確かに、楽しそうだね」


 紗綾は花火が待ち遠しいみたい。新しい洋服を買って、アピールしたいのかな。普段私服なんて見せることないし。けれど暑いからって露出を多くするのは、あまり好きじゃないなと笹原は楽しそうに笑う紗綾を見ながら思った。


(……垣村は私服のセンスなさそうだなぁ)


 紺色のジャージ姿の垣村を想像して、心の中で彼を嘲笑う。思考の片隅には、いつしか彼の影がチラつくようになっていた。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 明明後日からは夏休みだ。おかげで月曜日でもそこまで学校に来るのが辛くなかったような気がする。相変わらず気温は高いままで、笹原の額には薄らと汗が滲んでいた。駅にまでやってくると、もうすぐ来る電車に乗るために生徒がごった返している。それらを後目に、いつもの椅子へと向かった。日陰になっている椅子の右端には、第一ボタンを開けて暑そうにしている垣村がいる。相変わらず、片耳にはイヤホンがつけっぱなしだ。


「垣村、おはよう」


 その挨拶を言うことに何も抵抗はない。気がついた垣村は座り方を少し直して、若干右寄りに体を寄せる。平気そうな顔して、やっぱり恥ずかしいのかも。済まし顔のくせに初心な反応をする彼を見ていると、どうにもいじり倒したくなって仕方がなかった。


 学校での疲れを吹き飛ばすように、笹原は椅子に座ったまま体を伸ばす。月曜日の憂鬱さは感じないが、酷い暑さは感じている。そこまで汗っかきな体質ではないが、彼女の体内に残っている熱は未だに汗を流そうと頑張っていた。汗なんてかきたくないのに、と誰もが思うようなことを笹原も考えていると、不意に涼しい風が隣から吹き始める。見れば、垣村が下敷きで扇いでいた。涼しそうに表情を緩ませているのを見ると、羨ましくて仕方がない。


「垣村、それ貸して」


 その言葉に、垣村は心底嫌そうな顔をしていた。けれど笹原とて暑いものは暑い。汗もかきたくない。意地悪な言葉かもしれないが、彼女は「……傘は無理やり貸すくせに」と彼を初めて認識した日のことを口走った。未だに引きずっているのか、垣村は一瞬顔を歪めたものの下敷きを笹原に渡してくれた。有難く思いつつ、笹原は下敷きで顔を扇いでいく。


 そのうち電車がやってきて、生徒たちが乗り込んでいく。笹原と垣村の間にそれといった会話はなかったが、その間彼女はずっと考えていたことがあった。


(今日で夏休み前、ここで会えるの最後なんだよね)


 明明後日からは夏休み。その期間に入ってしまえば、笹原は垣村と会うことはなくなる。正直な話、なくなるのは惜しいと思っていた。何も考えず、無為とは言わずとも、ゆっくりとした時間を過ごす。いつからか、笹原はこの時間を気に入っていたのだ。


(……垣村はどうなんだろう)


 いつも自分のことを話すのは少ない。そんな彼の心は全然読めない。だからこそ気になる。彼は惜しいと感じているのか。それとも、どうでもいいと思っているのか。


「ねぇ、垣村」


「……なに?」


「もうすぐ、夏休みだね」


 遠回しに、少しずつ会話を詰めていく。彼は学校に行かなくて楽だ、と普通の男子生徒のような回答を返してきた。学生なんてそんなものだろう。


 それから何度か会話を挟んで、聞きたいことを言い出そうとしても……中々言葉には出せない。脱線して、友達とはなんたるや、だなんて話もしてしまう。女子同士の関わりは、色々と面倒だ。紗綾はあの性格だから拗れたりはしないと思う。けれど、彩香はどうかわからない。少しの間違いで捻れて歪んでしまうような、そんな感覚がある。一歩間違えたら、昨日の友は今日の敵になる。二つくらい隣のクラスでも、そんなことがあったという噂を聞いたことがある。三人のうち一人が片方を嫌っていて、悪意のある嘘でもう片方を騙して喧嘩させ、結果的に二人だけになったという話。そんなものが、日常的だった。


(……電車が、近づいてきてる)


 遠くから響いてくる電車の音。笹原と垣村を分かつ場所へと連れていくもの。下敷きを返すと、彼はそそくさと荷物を纏め始めた。一応笹原も荷物を纏め始めるのだが……どうにもモヤモヤとした気持ちが心の中で渦巻いている。苛立ちともとれるものだった。それは彼に素直に聞くことができない自分自身へのものか、それとも無神経に荷物を纏める彼のものか、その両方か。


「……電車、来ちゃったね」


 来ちゃった。来なければよかった。そう取れる言葉だったが、垣村はそれに気づいていないみたい。惜しむような言葉を言ってしまった自分にも驚いたが、垣村の鈍さのせいで苛立ちの方が大きくなってしまう。


(……すんなりと立てるんだ)


 電車が来て、垣村はすっと立ち上がる。名残惜しむこともなく、何も感じている様子はなく。なんで、自分だけが特別に感じていたみたいじゃないか。馬鹿みたい。


(……本当に、馬鹿みたい)


 垣村に心を苛立たせられる自分がいる。この時間を好んでいた自分がいる。名残惜しむ自分がいる。目の前の男は、それに何も気づいていない。


「笹原さん、乗らないの?」


 そう無神経に尋ねる彼に対して、無愛想に言葉を返してしまうのも仕方がないこと。垣村が悪いんだ。全部、全部。


『自分がやりたいことをやれないのは嫌だなー』


 頭に西園が言っていた言葉がよぎる。やりたいこと。聞きたいこと。素直じゃないから、何もできない。そんなこと分かってる。意地になっているのも、わかってるよ。


 電車の椅子の端っこに座っている彼は、向かい側の窓の風景を眺めている。表情を固めたまま。だから、本当に何も感じていないんだろう。この時間がなくなるのが寂しいとか、嫌だとか。なんでこんな男に思わなきゃいけないんだろう。


 言葉にしたくてもできない。態度で表すこともできない。夏休み前最後の時間は、互いに気まずさを抱えたまま終わることになってしまった。電車を降りて塾へと向かう垣村を電車の中で眺めながら……明日も学校で顔を合わせるというのに、今生の別れのような気がして、いい気分にはなれなかった。座る場所を一つ隣にずらす。椅子には夏の暑さとは別の暖かさが残っていた。



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