12話目 夏休み前最後の日

 次の週になり、さすがにもう笹原が自分の元まで来ることはないだろうと思っていた垣村だったが、予想に反して彼女はなんでもないですと言いたげな顔で隣の椅子に座り、イヤホンを取り上げてくる。正直な感想は、毎度毎度鬱陶しいだろう。音楽を聴いて自分の中で物語やインスピレーションを閃かせようとしている時にそれをされるのだから。


 けれども垣村は彼女には怒れない。怒ったら逆ギレされて晒しものにされる可能性がある、という理由だけでなく……単に、笹原が笑っているからだ。満面の笑みというわけではない。イヤホンを耳から取り外しては、口角をほんの少し上げるように笑いかけてくる。そして放課後だというのに「おはよう」と場違いな挨拶をして、次の電車が来るまで待つのだ。


 その次も。また週が変わっても。笹原は垣村の隣に座って話しかけてくる。途中からは垣村も来るのだとわかってきて、いつも取り外される左耳だけイヤホンをつけずに彼女を待つことにした。足音が聞こえて、少しだけ顔を向ける。その日は垣村がいつもと違う様子だったためか、笹原は驚いた顔で彼を見つめてから、やはり少し笑って「おはよう」と挨拶してきた。なんてことはない、誰もが使う挨拶。けれどもこの場では不思議な特別感があった。学校でも顔を見て、帰りの道も一緒なのに同じ時間に帰らず、駅で待ち合わせをしているわけでもないのに、元から決まっていた約束があったかのように日陰の椅子で隣り合わせになる。さながら「おはよう」とは、垣村にとって合言葉のように感じられた。


 そして夏休み前最後の週。駅のホームで片耳だけのイヤホンから流れ出る音楽を楽しみながら、右耳で外の世界の音を拾う。生徒たちはもうすぐ夏休みだということで浮き足立っているようだ。黄色の線のすぐ近くで三人の女子生徒たちが夏休みの計画を話していて、遊園地に男子を誘って告白するだのという内容だった。遊園地で告白すると別れるという噂を垣村は聞いたことはあったが、所詮は噂だ。垣村が影でありもしないことを言われるのと同じこと。


(男を誘う勇気がよくあるよなぁ。そこら辺、やっぱり世渡り上手は違うのかな)


 自分が女子を誘うなんて夢のまた夢だ、と垣村は自嘲する。意味もなく目の前の景色を眺めていたところ、ヒュウっと涼しい一陣の風が垣村の世界に襲いかかった。視界の隅ではスカートの裾を抑えている女子生徒がいて、思わず垣村の視線が集中してしまいそうになる。短いスカートから、ほっそりとした足が伸びている。見ていたいという欲はあるが、罪悪感を心に覚えるので垣村はそれ以上見ないようにした。


 女子生徒たちはスカートのことよりも恋バナの方が大切らしく、未だに楽しげな声が垣村の耳に届いてくる。誰にも聞こえないように、静かにため息をついた。


(夏の熱に僕は憂かされ、君は恋の熱に浮かされる)


 夏。女子生徒。君と僕。パズルがハマっていくような感覚を覚え、頭の中に言葉が浮かぶ。なるほど、中々悪くない。垣村は今の言葉を忘れないように脳裏に焼きつけた。幸いにも焼きつけるための熱は嫌という程感じている。なんて、くだらないことを考えていたら誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。


「垣村、おはよう」


 場違い。いや、時違いな挨拶と共に笹原はやってきた。垣村が挨拶を返すよりも早く彼女は隣の椅子に座って体を伸ばす。


「あぁー、あっつい」


「男子よりも涼しげな格好だけど」


「大して変わらないって」


 暑い暑いと何度も呟きながら彼女は顔の近くで手をパタパタと動かして風を感じようとしていた。横目で彼女のその仕草を見ていると、額に薄らと汗が滲んでいるのが見えた。それが頬を伝い、首筋を通って胸元へと消えていく。彼女の襟元には鎖骨が出ていて、男のそれは屈強そうに見えるのだが、女のそれはどこか変な気分にさせられる。


(……鎖骨が見えるのがいいって西園は言ってたけど、わからなくもないな)


 いつか西園が言った言葉を思い出し、一人心の中で頷いた。横目で彼女の鎖骨辺りを見ていると、何故だか垣村自身も暑くなってくる。カバンの中から黒の下敷きを取り出して団扇代わりに扇いだ。涼しい風が垣村を癒していくが、隣に座る彼女は不服そうにそれを見ていた。


「垣村、それ貸して」


「自分のはないの?」


「取り出すのめんどくさい」


「俺も暑いんだけど……」


「……傘は無理やり貸すくせに」


 ボソリと聞こえるように呟かれた言葉が垣村の心臓をえぐっていく。眉間にシワが寄りそうになるのを堪えて、仕方なく下敷きを彼女に渡した。受け取ったらすぐに扇ぎ始め、「涼しぃー」と頬を緩める。対称的に垣村は仏頂面だ。


(反則だろう、その言葉は……)


 あれから時が経ったとはいえ、垣村にとっては忌まわしき過去。当事者でもある笹原からの言葉は、鳩尾に拳を入れてくるような鈍痛を感じさせる。


 過去を思い出して恥を感じ、また体温が上がっていくのを鬱陶しいと感じながら、垣村と笹原は遠くから響く電車の音を聞き流す。下敷きの貸し借り以降、二人の間にそれといった会話はない。手元にある携帯を眺めながら時間を過ごす。隣同士なのに会話がないのは、出会った頃は窮屈で仕方がなかった。しかし今の二人はそれを感じない。無言でも苦しくない。たった手摺りひとつ分の距離感。それが適切だったのだ。


 やがて電車が生徒たちを連れ去っていき、ホームに垣村と笹原だけが取り残される。それでも気にせずに垣村は携帯で2chと呼ばれる電子掲示板を眺めていると、耳に届いていた下敷きで扇ぐ音が聞こえなくなった。そこから数分、環境音だけが周りに響く状態が続く。やがてそれを破ったのは、どこか固い彼女の声音だった。


「ねぇ、垣村」


「……なに?」


「もうすぐ、夏休みだね」


「あぁ。明明後日からは、学校に来る必要がなくなる。気楽だよ」


 わざわざ学校で勉強する必要もない。部活も入っていない。趣味に時間をかけられる素晴らしい期間。宿題も適当にやっていけば期間内には終わる。それが明明後日からやってくるのだ。周りの浮かれている生徒たちと同様に、垣村も楽しみであった。


「気楽、かぁ」


 だがしかし、笹原はそうではないらしい。なんとも言えない微妙な表情を浮かべては、どこか遠くの方を眺めている。


「友達と会えなくなって、暇だなとか寂しいとか思ったりしないの?」


「……いや、特には。西園くらいしか友達いないし、アイツなら時折遊びに行く程度で気分は満たされると思う」


「そっか」


 垣村から見て、笹原は友達と会えなくても暇だなとは思えど、寂しいとは思わないだろうと感じていた。しかし今の彼女の様子だと、そうではないらしい。女子同士の繋がりというのはよくわからない。集団で行動して、何が面白いのか音楽に合わせて踊る動画を撮って、ろくに食べもしないパフェを写真だけ撮ってはネットに上げて。挙句自分の顔写真を簡単に載せるのだから、ネットリテラシーもあったものではない。


 それにSNSを見ていると女子高生は変な言葉を使う。ゎたしとか、もぅマヂ無理、だとか。訳の分からない言語を使うなと言ってやりたくなる。可愛さアピール。正直好きではない。どうせ笹原もそんな感じなのだろうと垣村は思っていたのだ。


「女子ってね、結構大変なんだよ。メッセージの返事はすぐに返したり、最近の話題とかにも注意しないといけないし。しばらく会わなかっただけで、関係が拗れたみたいになる」


「……それって、友達?」


「私にとっては」


「男子よりも面倒だね。女子は男子よりも成長が早いだなんて言うけど……まるで子どもじゃないか」


「私が子どもだって言いたいの!?」


「子どもでしょ、俺たち。背伸びしたって、ろくな事にならないよ」


 煙草を吸う生徒がいれば、酒を飲む生徒だっている。垣村の中学時代にも、素行不良の生徒が学校で煙草を吸って集会が開かれたことがあった。何故そんなことをするのか、垣村にはわからない。言った通り背伸びしたいのか。それとも、現実を忘れたい程のストレスでもあるのか。


 それは女子高生にも言える。高いブランドの服だとか、カバンだとか。垣村にはどうにも理解できない。気に入った服ならなんでもいいし、靴だって質素なものでいい。わざわざ一万を超えるような靴を買う必要性を感じない。けれど、それを自慢するように「俺この前一万の靴買ったんだぜ」と言う生徒もいる。価値観の違いと言えばそこまでだ。垣村には女子生徒、ひいては笹原のことなんて理解できるはずもないし、その逆もそう。垣村と笹原は、生き方が違うのだ。


「……電車、来ちゃったね」


 笹原の声が聞こえる反対側から、垣村の乗る電車がやってくる。目の前でゆっくりと速度を落としていく鉄の箱には、やはり人は少ない。これから塾だというのが少し憂鬱だが、仕方のないことだ。垣村は立ち上がって電車に乗り込むが、近くに笹原の気配がなかった。後ろを振り向いてみれば、彼女はまだ椅子に座ったまま動いていない。どこか俯きがちなその姿に、さすがに心配の情がわく。普段は教室でも明るい彼女が、まるで打ち上げの日の夜みたいな暗さになっている。具合でも悪いのだろうか。


「笹原さん、乗らないの?」


「……乗るよ」


 顔を上げた彼女は不機嫌そうだった。思わず、何かしてしまったのかと不安になる。けれども原因は思い当たらない。半ば逃げるように垣村は端の席に座ると、笹原も少し遅れてその隣に腰を下ろす。


 垣村が降りる駅まで会話はなく、笹原の急な機嫌の変化もあって、息苦しい状態のまま彼らは別れを告げていった。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 居酒屋。酒の匂いと焼き鳥の匂いが混ざり、時間も相まってとてもお腹が空く。塾帰りを見計らっていたかのように待ち伏せしていた庄司によって、垣村はまた居酒屋へ連れてこられたのだ。テーブル席に向かい合って座り、既に届けられた焼き鳥と飲み物を口に運んでいく。庄司は相変わらずジョッキのビールを呷っては幸せそうに「くはぁー」っと言葉を漏らしていた。


「うーん、やっぱり仕事終わりのビールは美味いねぇ。カキッピーも大人になったらこれの良さがわかるよ」


「お酒は、まぁ……。でも苦いの苦手ですし」


「いやいや、青いねぇ。この苦味がわかったとき、少年は大人になるのだよ」


 彼は変わらずのほほんとした人だった。おつまみとして頼んだ枝豆を食べてから、ニヤニヤと笑って垣村に尋ねてくる。


「それでどうなの、カキッピー。気になるあの子との進展は」


「気になるって……別に、なんとも。そもそもそういう関係じゃないです」


「どうだかなぁー」


 酒が回ってぐいぐいとくる庄司に根負けして、仕方なく垣村はこれまでのことを話し始めた。駅で会って、隣り合わせで座り、適当に会話をする。ただそれだけの関係なのだと。けれども庄司は垣村の話を聞いて、より一層楽しげに笑い始めた。


「進展してるじゃないのー。いいねぇ、若いねぇ」


「別に、いいとは思ってないです。気まずい雰囲気がなくなったかと思えば、今日は最後不機嫌でしたし」


「なーにがあったんだろうねぇ。あれかな、女の子の日かな」


「とばっちりくらっただけじゃないですか」


 ちょっとヤケ食い気味に焼き鳥を頬張る。染み付いたタレが口内に届いていき、噛んで飲み込む頃には先程までの苛立ちも鳴りをひそめる。そんな垣村の様子を見ていた庄司はニヤニヤと笑っては「羨ましいもんだねー」と言うばかりだ。


「実際、カキッピーはどうなの? 女の子と会話してて、案外楽しかったんじゃない?」


「そうでもないです」


「またまた、意固地になっちゃってー」


「俺は、なんとも思っていません」


 笹原と過ごすことを特別だと思ってはいけない。彼女にとってはなんてことはない日々のはずで、垣村との会話は暇つぶしで。だから驕ってはいけない。天狗になってはいけない。笹原が垣村に何か思うことなんてあるはずもない。彼女が居るべき場所と、自分が居るべき場所の差は明確だ。感じ方も価値観も違う。だから、なんとも思ってはいない。否、いけないのだ。


「カキッピーって、自己肯定感が低いよねぇ」


 庄司の目つきが変わる。少し細められた瞳が垣村を逃がさんとばかりに見据えていた。心の奥まで見透かすような庄司の様子に、垣村は言葉を失ってしまう。彼の言葉の先を、じっと待っていた。


「何をそんなに恥ずかしがったり、拒絶する必要があるのかなーって、オジさんは思うわけよ。むしろ見ていて痛々しいくらいさ。こうに違いない。だから自分はこうあるべきだーって思ってるんじゃない?」


 庄司の言葉は、垣村の心を読んだのではないかと思う程に正確だった。反論する言葉もない。軽く俯き、グラスの中に注がれたコーラの水面を見つめる。そこには何も映し出されていない。言い当てられた虚しさを表しているようで、悔しさが増してきた。


「事実はどうあっても変わらないことだよ。女の子と過ごすなんて、普通に考えたら嬉しいことじゃない。男の子なんだし、そう考えるのは当たり前のことだよ。恥ずかしいことでも、悪いことでもない。オジさんだったら舞い上がってオヤジギャグ連発しちゃうね」


 なぜオヤジギャグなんだろう、というツッコミが頭に過ぎるが、事実はどうあっても変わらないことだという庄司の言葉が耳に残っていた。垣村は笹原と話をした。それは変わらない。垣村は女の子と会話をした。事実だ。イヤホンを外して彼女を待っていたのも、おはようという挨拶に何か特別性を感じたことも、事実なのだ。


「……そう、ですね」


 グラスを傾けて中身を飲み干していく。残った氷が、カランッと音を立てた。自分ばかりがそう思っていたのだという空虚さを飲み込む。俯きがちな顔を上げ、自嘲するように笑いながら垣村は答えた。


「案外、彼女が来ることを期待していて、楽しんでいたのかもしれません」


「うんうん、それでいいんだよ。いいなぁ、高校生。セーシュン、アオハル、羨ましいねー」


 茶化すように焼き鳥の串を向けて笑ってきた庄司に対して、垣村もまた照れくさそうに口元を抑えて笑い返した。

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