8話目 オジさんとカキッピー
塾の講師からは空いている時間に英単語を覚えろ、とよく言われる。けれど、塾が終わってそうそうにそんなことができる訳もない。夕方に塾が始まり、外が真っ暗になる頃には終わっている。塾内の静かな雰囲気とは異なって、一歩でも外に出てみれば賑やかとも五月蝿いともとれる喧騒が耳を
駅に向かって歩くと、すれ違うのは大学生らしき人たちやスーツ姿の社会人。疲れた顔や、笑ってる顔。自分はどちらになるのだろう。年中疲れた顔をしている気がしてならない。最近は将来のことで不安になることが多かった。残念ながら、両親とはあまり話をすることがない。垣村はその心の内を誰かに話して解消するという機会がなかったのだ。
途中、イヤホンをしているのに大きな音が聞こえてくるようになった。バイクの音だ。意味もなくエンジンをふかし、自己主張するようにハイスピードで駆け回る。周りの鬱陶しそうな目に、彼は気がつくことはないんだろう。いや、むしろ気づいてやっているのか。どちらでもいいが、煩わしい音だ。なんて醜い雑音だ。その音で耳を壊すのをやめてくれ。遠ざかっていくバイク乗りの背中に向けて、眉をひそめて睨みつける。その更に先に見える信号機は……赤色だ。
(信号無視で事故ればいいのに)
垣村は善良な市民という訳でもない。いや、そうであっても……癪に障るものがあれば、そう思ってしまうものだろう。案の定、バイク乗りは赤信号であっても構わず右折して街のどこかへと消え去って行った。残念ながら、バイクのふかす音は聞こえたまま。事故に合わなかったらしい。
(そう考える俺がクズなのか。それとも、そう思わせる行動をとるのがクズなのか。両方なのかもな)
次第に音は小さくなっていき、イヤホンには最近話題になっている歌手の失恋ソングが再び息を吹き返す。穏やかで、しかし激しい。サビに入る時のアップテンポになる瞬間が、とても心地よい。思わず鳥肌がたってしまうほどに。
あぁ、いい曲だ。そんなことを考えながら道を歩いていると、駅の方から流れてくる人の中にどこかで見たような男の人をみつけた。よれた黒いスーツがどうにも仕事のできなさそうな印象を与えるが、けれども不思議と似合っている。仕事用の鞄を肩に背負うように持ち歩くその姿を一言で表すのならば、だらしがないとでも言うのだろう。見間違えでなければ、それは垣村の友人である西園の叔父だった。垣村が見ているのがわかったのか、彼の方はへらへらとした緩みきった顔で近づいてくる。仕方なく、彼は耳からイヤホンを取り外して歩み寄った。
「やー、どうも。確かしょー君と一緒にいた……カキッピーだったっけ?」
「垣村 志音です。そんなお菓子みたいな名前じゃありません」
「まぁまぁそんな堅いこと言わずに。塾帰り? 学生は学生で大変だねー」
軽い。そのノリも、態度も、何もかもが軽い。しかも会うのはまだ二度目だというのに、カキッピーなんて呼んでくる始末。精神年齢が幼いまま体だけ育ってしまった大人なのではないか。垣村は彼に気づかれないように小さくため息をついた。学校のトップカーストとまではいかないが、それなりに相手をするのに疲れるタイプかもしれない。
そんな垣村の内心なんて知らない庄司は、ずっとへらへらとした笑みを崩さないまま話を続けてくる。
「オジさんはさ、会社の飲み会が面倒くさくてねぇ。用事があるって言って帰ってきたのよ。でも、なんだかんだ言ってお酒は飲みたい。そんな気分なんだよねー」
「はぁ……」
のっぴきらない返事を返す垣村だが、庄司はどうやら逃がす気がないらしい。左腕の袖を少しまくって腕時計で時間を確認すると、垣村に「今時間ある?」と尋ねてきた。まさかこんな未成年を飲みに誘う気なのだろうか。内心断りたい気持ちでいっぱいであったが、垣村には親しくない人と話すためのスキルがない。よって、その提案を断るというのが難しかった。嫌という一言が言えなかったのだ。「えぇ、まぁ……」なんて曖昧な返事を返してしまったが最後。庄司は満面の笑みを浮かべて垣村の肩を叩いて歩き出してしまった。
「よーし、じゃあオジさんのオススメの場所に連れて行ってしんぜよう! お酒は飲ませられないけど、おつまみ代は出すよー」
なんて言うものだから、奢りならいいかと少しだけ気分を持ち直し、庄司の隣を歩く形で彼のオススメだというお店まで向かっていくのだった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
「いやー、この仕事終わったあとのビールって中毒性があるよねぇ。まぁ缶チューハイとかもオジさんは好きなんだけどさ」
大通りから少し逸れた場所にある小さな居酒屋。そこのテーブル席で腰掛けて頼んだビールを庄司は呷るようにして飲んでいった。もちろん垣村はお酒を飲むつもりはない。頼んだコーラをチビチビと飲みながら、タレがふんだんにかかった焼き鳥を口の中に運んでいく。
「この店、焼き鳥と唐揚げが美味いんだよね。なにしろ、このタレがいいのなんの。昼間も居酒屋じゃなくて焼き鳥と唐揚げ売ってるから、友達と買いに来なよ。オジさんが若い頃は、よく友達と買いに来たもんさ」
確かに彼の言うとおり。焼き鳥は程よく柔らかくて、なおかつタレがとても美味しい。なんともお米が欲しくなるが、奢られる身である。贅沢なことを言える立場じゃない。けれども塾帰りでお腹も減っていて、そんな状態で味の濃い美味いものを食べれば自然と頬が緩んでいくというもの。緊張はどこへやら、垣村は目の前にある焼き鳥に夢中になっていた。
「……そういえば、どうして自分なんかとこんな場所に来たんですか?」
暗に、まだ会うのは二度目ですよねということも示唆する。庄司はその言葉に対して一口ビールを口に含んだ後で、ニヤニヤと笑いながら答えてきた。
「ビールにはつまみが欲しくなる。しょっぱいものでも、甘いものでもいい。まぁ要するに、カキッピーの青春時代を酒の肴にしようってことさ」
「そんな大層な話なんてもの、ありませんよ」
「いやいや、高校生といえば激動の時代さ。思春期拗らせちゃった男女の、甘い恋。苦い失恋。いいねぇ、酒が進むよ」
そんなことを言いながら庄司は「枝豆ひとつお願いしまーす」と、更におつまみを増やすようだった。高校の話なんてものは西園から聞けばいいだろうに、と垣村は思う。なにせ、期待に添えるような話はない。彼女いない歴イコール年齢。甘い話も、浮ついた話もない。まぁ、苦い経験なら最近したことはあるが、それは今後何も影響することはないだろう。
「んで、実際どうなのカキッピー。彼女とかいるの?」
「いないですよ。浮ついた話なら西園……翔多の方があると思いますけど」
「んー、しょー君に聞くのもいいけどねぇ。まぁ近くにいたし、運が悪かったってことでさぁ。じゃあ、チャチャッと言ってみよー」
普段の様子と何ら変わりない酔っ払い。急かすように言われるが、垣村には特に話せることもない。友人と遊ぶことも少ないし、他人に話せるような趣味というものを持ち合わせていない。西園相手であればくだらない話でもするのだろうが、相手は社会人。高校生あるあるなんてものを話しても意味はないだろう。少々困ったことになってしまった。
なかなか話し出さない垣村の様子に、庄司は苦笑いを浮かべて「あぁ、そういうことかぁ」と一人で納得し始めた。
「カキッピーはあれか。社交的スキルがなさそうだねぇ。しょー君はその辺適当にやるから何ともなさそうだけど」
「……翔多とは違って、自分は完全に陰キャなので。女子と話すことすら億劫なコミュ障ですよ」
「いやぁ、女子と話すのが苦手か。わかるわかる。最近SNSとか物騒だしねぇ。何かやったら悪口書き込まれたり、写真載っけられたりするんでしょ? オジさんだったらすぐ載せられちゃいそうだなぁ」
彼の言うとおりで、確かに垣村も女子……というか、女子高生が割と怖い。水面下ではバチバチと火花を散らすような小競り合いを繰り広げているらしいが、いざ結託すると垣村のような男子生徒はボコボコにされてしまうだろう。身体的にも、社会的にも、精神的にも。
男は体に。女は心に。傷をつけて争う喧嘩。男は存在が怖くなるが、女は行動が怖くなる。時にヒステリックなんて起こされてしまえば、十中八九悪いのは男である垣村になってしまう。男性と女性が争えば、男性が悪いと言われてしまう世の中だ。
「まぁ……内容が悪かったかなぁ。じゃあ何か相談事とかない? オジさん、これでも社会人だからさー。何か話しをしてあげられるかもしれないよ? ロクな道歩いてないけどね」
あははーっととぼけるように笑う庄司に対して、垣村はどうするべきなのかを悩んでいた。相談事。親に話す機会はないが、この人に話していいものなのか。そもそも、この人に話して何か変わるのか。薄っぺらくて、軽くて、いつもへらへらニヤニヤと笑っているような男に、相談事というのはできるものなのか。
「……将来のこととか、庄司さんはどんな風に考えていましたか?」
考え抜いた結論は、ダメ元でいいから話してみるだった。満足のいく答えが返ってくるとは思っていない。けれど、その言葉のひとつが自分の道を少しでも増やせるかもしれない。そんな淡い期待を微かに込めながら、彼は相談してみた。
「なぁるほど。それもまた、思春期特有だねぇ」
「─────ッ」
垣村はその一瞬で息を飲んだ。声音も変わっていない。態度も変わっていない。だが、庄司の目は先程よりも鋭く細められていた。ニヤニヤと笑っている時のような、柔らかい目つきではない。話し方は何も変わっていないはずなのに、まるで人が変わってしまったように思えた。
「オジさんは、特に将来とか何も考えてなかったなぁ。普通に大学いって、就職してって感じ。ただまぁ……昔っから変わらないのは、今を楽に生きるために精一杯頑張るってことかな」
「……楽に生きるために、頑張る?」
「そうそう。何もしないのは楽だけど、それってなんだか嫌じゃない? 楽はしたいけど、怠けたいわけじゃないんだな、これが。だからこそ、精一杯楽をする。いつだってそう。これからもそう。定時退社するために、オジさん毎日頑張ってるのよ」
うんうん、と小さく頷きながら手元にあるビールを一口飲み込んだ。その目は鋭さを失い、また柔らかい雰囲気が戻ってきている。あの一瞬の、嫌に真剣な雰囲気はなんだったのだろうか。あの時だけ、息が詰まるほどの緊迫感があった。今も少しだけ、垣村の腕がピリピリとしている。
「息が詰まる生活は、したくないよねぇ。らくーに生きて、苦しまずに死んで、来世でも同じよーにしたい訳よ」
「随分と、軽いんですね」
「身軽なのはいいもんだよ。そのうち、空でも飛べる気がしてくるんだ。竹とんぼを頭に括りつけたら飛べたりしてね」
冗談を言いつつ、枝豆を口の中に放り込んでいく。そしてまたビールを飲む。それが至福を感じる行動なのだとハッキリわかるくらい、彼の顔は緩んでいた。人生を楽しんでいるのだというのが、目に見えてわかる。結局は、垣村のように悩む者より、普段ダラダラとしているトップカーストの人たちの方が世渡り的にも上手くやっていけるという事なのだろうか。なんだか、垣村は少しだけ鬱っぽい気分になってきた。
「庄司さんは、学校のトップカーストとかどう思いますか?」
「んー、オジさんの頃はカースト制度はそこまでなかったような気がしなくもないんだけどねぇ」
いや、多分あなたが気づいていないだけ。そう言いたくなるのを垣村はぐっと堪えた。普段からこんな態度なら、カースト中位から上位の間辺りを知らぬ間にのらりくらりとしていたことだろう。敵を作らないようなタイプの人だ。
「トップカーストは、何をしても許されるし、上手くいく。そう思えて仕方がないんです」
「ハハッ、そりゃ君の自信がないのが原因だね。周りが好き勝手に動く中で、自分だけが枷によって行動が制限される。そうなると窮屈になって、自信はどんどん失われていく。すると、周りが羨ましくなるのさ。間に物凄い差が開いているような気がして、ね」
焼き鳥を食べ終えたあとの串を垣村に向けながら、普段の物言いとは考えられないほど真面目な回答が返ってくる。やはり答える時には、彼の目つきは少しだけ鋭くなっていた。なるほど、どうやら彼は相談事には真面目に取り組むタイプらしい。普段の態度はともかく、その辺は垣村にとって有難いことではあった。庄司には酒が回っていき、どんどん饒舌になっていく。それにつられる様に、垣村の口数もだんだんと増えていった。
「……雨が降ってる時に、トップカーストの女子に傘を貸したんです。いや、貸したというよりは、なんというかアレな感じだったんですけど……」
「ほーん。んで、その傘が返って来るのが割と後の方だったと」
「はい……。ちょっとしたアクシデントみたいなのがあって、その時に」
つまらない話になるだろうが、と垣村はあの忌々しき日のことを話してみた。女子という単語が出た瞬間、庄司の目がキラキラと輝いて、華々しい展開を期待するかのように話を急かし始めた。グイグイとくる庄司に対してどうすることもできず、話さなくてもいいようなことまで曖昧にぼかしつつ話してしまった。それらが一通り話し終わった時には、庄司は今日一番の笑い声を上げて垣村をからかう様に言ったのだ。
「アッハッハッハ! いやいや、カキッピーったらちゃんと青春してるじゃない!」
青春、なのだろうか。あの苦々しい日を青春の一ページだというのならば、垣村には甘い春は来ないだろう。ずっと苦々しい青のまま。果実が熟れることもなく、未熟な青のまま。どうせこの後何が起こることもないだろう、と垣村は予想していた。果実に色づくことはなく、種が芽吹く春も来ず。落ちて枯れてしまうのだろう。それが垣村 志音の今までの人生だったのだから。
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