6話目 変わらない日

 月曜日になって垣村が学校に行っても、日常風景は何一つ変わることはなかった。教室の前の方で話をするトップカースト、隣では暇そうに携帯をいじっている西園。放課後辺りに例の男子生徒から呼び出しでもくらうかと少し恐怖していたものの、そんなこともなく終わりを告げるチャイムが鳴った。


 何も変わらない。いや、変わったこともあるのかもしれない。垣村は駅のホームにある椅子に座ってそんなことを考えていた。


(結局月曜になっても何も無かったな……。いや、何も無い方がいいんだけど)


 笹原に対してあれほど視線が向かっていたというのに、今では落ち着きを取り戻している。傘を返してもらったから懸念すべきことがなくなり、注目する必要もなくなったということなのだろうか。悩むも、答えは出ない。変わらなかったのではなく、元に戻ったとも言えるのだろう。


(何も変わらない世界で、たったひとつ小さな出来事があったとしても、やっぱり世界は何も変わらない。別に変えたいとも思わないけど、でも……変えたくないとも思わないんだ)


 椅子に座ったまま両耳にイヤホンをつけ、周りから音を遮断する。そして脳内で流していく言葉の羅列。けれどもしっくりとこない。この程度の変化では、自分の中では何も変わらなかったのか。小さなため息と共に、垣村は携帯で音楽を流し始めた。


 好きなアーティストの曲を適当に流していくと、自分の力との差を明確に理解してしまう。歌詞を作るというのは、難しいものだった。


(昔はすんなりできたはずなのに。成長するにつれて、むしろ作詞は止まってしまったみたいだ)


 垣村の好む曲はゆったりとしたものが多い。奇しくも、垣村の気に入る曲というのはラブソングが多かった。高校生たるもの、少しは甘い未来を想像したいものだ。垣村もそれに漏れず、音楽を聴きながら妄想に耽けることもある。


 そうやって流れゆく時間をいつものように無為に過ごそうとしている時だ。唐突に垣村の右耳に開放感を感じ、そこから周りの煩わしい音が響いてくるようになる。


「垣村っ!」


「ぉっ!?」


 次いで聞こえてきたのは女子生徒が自分の名前を呼ぶ声であった。驚いてすぐに声の方を向けば、そこには立ったまま垣村を見下ろしている笹原がいる。その手には垣村がつけていたイヤホンがあり、表情は眉をひそめて怒っているように思えた。驚かされて早まる鼓動といい、目の前の女子といい、まるで今から怒られるのではないかと感じてしまう。


「これだけ呼んでるのに聞こえてないとか、どんな音量で聞いてるわけ?」


「い、いや……話しかけられると思ってなくて。それよりも、なんでここに?」


「それはこっちのセリフ。ここ上りだよ」


 どこか不貞腐れつつ、笹原はイヤホンを返してくる。受け取って一応左耳のイヤホンも外した垣村は、自分がなぜ上りのホームにいるのかを説明し始めた。


「今から塾なんだよ」


「ふーん……週何回?」


「確か……月、木、土の三回かな」


 勉強は大事だ。子供の頃にもっと勉強しておけばよかった。いや、俺の頃は勉強したくてもできなかった。多くの大人はそう言って勉強を無理強いする。けれども、宛もなく砂漠をさまよう様に、勉強というのは終着点がない。


 百点を取れば終わりか。いや、終わらない。次も次も、と続いていく。では良い大学に入れば終わりか。いや、むしろそこからまた新たな勉強を始めなくてはならない。じゃあ大学院。そこまでいけば、確かに『勉強』という行為に終止符が打たれるようにも思える。


 じゃあ、良い大学ってなんだ。大学院で何を学べばいい。頭が良くなければ良い大学には行けないというけれど、行ってどうしろというのか。未だになりたい自分という曖昧な存在に、垣村は出会えていなかった。


 塾のある日を聞いた笹原は、興味があるのかないのか。ただもう一度、「ふーん」と軽く鼻を鳴らすように返事をするだけだった。


「一つ前の電車に乗ったりしないの?」


「その電車は人が多いから。塾が始まるまで時間があるし、それに……人混みは好きじゃないんだ」


「こんな日陰で人が少なくなるまで待ってるってわけ?」


 笹原の言う通り、垣村の座っている椅子がある場所はホームに降りる階段の裏手にある。普通なら降りてそのまま目の前にある椅子に座るだろうが、垣村は利用人数の少ないこの場所を好んでいた。


「良いもんだよ、一人で過ごす時間って」


「つまらなそうだけど……まぁ、いいや。とりあえず、これ」


 笹原はカバンの中からコンビニの袋を取り出すと、それを垣村に押し付けてきた。何かと思い中を見てみれば、柿ピーが2種類入っている。普通のものと、わさび味のものだ。


 何故今これを渡してきたのか。不思議に思い、垣村が彼女を見上げると、そのまま視線を逸らされてしまった。


「その、好きだって言ったじゃん、それ。一応この前のお礼のつもり」


 どこか照れくさそうに髪の毛を弄り始める。そんな彼女と袋の中身を見比べ、別にお礼を期待していたわけじゃなかったけれどっと内心思いつつ、垣村はお礼を言った。


「ありがとう。家で食べさせてもらうよ」


「お礼を言うのはこっちだし。垣村が助けてくれなかったら、今頃学校に来てないだろうしね。あっ、そういえばあの男子に何かされた?」


「いや、何も。相変わらず、平和だったよ」


「そう……ならよかった」


 そう言って笹原が近づいてきたかと思えば、何を考えているのか垣村の隣の席に腰を下ろした。距離が近い。普段感じることのない距離感と、すぐ横に座っているのが女子生徒だという事実に垣村の心臓は速まっていた。


 別に隣に座る必要もないだろうに。いや、成り行きか。確かにこの状況で間をひとつ開けて座るというのもなんだかはばかられる。仮に自分が彼女の立場だったのなら、同じように……いや、やっぱり隣には座れない。彼女は男の、しかも自分のような奴の隣に座るのに忌避感はないのだろうか。なんだか一気に情報量が増えて、垣村はパニックになりかけていた。


 しかしそんな状況にした本人は何処吹く風といったようで、カバンを膝の上で抱えたままどこか遠くを見つめている。何か話した方がいいのではないか。そんな焦燥に駆られ始め、垣村は彼女に問いかけた。


「……さ、笹原さんはいつもこの時間なの?」


「ん、今日は……たまたまだよ。てか、慣れたのかと思えばいきなりどもるんだね」


「自分から女子に話しかけるのが苦手なだけだよ」


「割とビビリ?」


「かもしれないね」


 おばけ屋敷は苦手ではないが、やはり怖いものは怖い。何より怖いのは、人間だけれども。


 垣村が答えると、笹原は「へぇー」っと口元を浅く歪めてニヤニヤと笑っていた。何か嫌な予感がする。垣村が身を固め始めると、彼女は笑いながら「何もしないって」と言ってくる。絶対嘘だ。確信できるくらい、彼女の瞳は笑っていた。


「垣村はさ、休みの日とか何してるの?」


「何って……家で適当にのんびりしてる。たまには外に出るけど」


「じゃあ、暇なんだ。なら今度遊園地にでも行く? おばけ屋敷入ろうよ」


「嫌だ」


「行ったら絶対楽しいって」


「楽しいのは笹原さんだけだよ」


 ジトっとした目で笹原のことを睨みつける。「バレた?」と楽しそうに笑っている彼女を見ると、なんとも怒れなかった。


 女子ってずるい。これが男だというのなら頭を一発小突くぐらいはしているというのに。


「垣村ってさ、普段イヤホンつけてるじゃん。何聴いてるの?」


「何って……そりゃ、色々だよ」


「有名なヤツ?」


「そういうのもあるし、インディーズもある」


 多少答えを濁らせた。人には人の趣味というものがある。読書、料理、お菓子作り。そういった一般的なものだったら良かったかもしれない。


 先程の休日の過ごし方というのも、かなり濁していた。垣村はその他大勢という名の一般的なものから外れている。なにしろ、彼の聞く音楽の中には機械音声と言われるものを使って歌を歌わせているものがあった。VOCALOID、ボカロと言われるものだ。


 世間的にオタクと言われる類に属するのだろう。だが、垣村本人は否定している。オタクではない。自分が興味があるのはそこではなく、創作という部分だけなのだと。


「ふーん……どんな感じのが好きなの?」


「どうって……どう、なんだろう」


 個人的には静かな歌の方が好みではあった。しかし、だからといって激しい曲が嫌いかといえばそうでもない。歌詞だ。紡がれる言の葉、作者の叫びだ。それこそが垣村を引きつけるのだろう。だからこそ、どうとも言えない。曲にラブソングが多いのは、そういった叫びが顕著に現れている気がするからだ。


 ラブソングだけじゃない。悲恋も、斜に構えたような曲も。それが響くように聞こえたのなら、垣村にとっては素晴らしい曲だった。だからこそ……。


「心に響くような曲……かな」


 そう答えた。それに対して、笹原は一瞬キョトンとする。思いがけない答えだったからだろう。想像すらしていなかったその回答に、数秒経ってから彼女は噴き出すのを堪えるように笑い始めた。


「に、似合わない……ふふっ」


「酷いな」


 自分でも似合わないとは……いいや、ならむしろ誰が似合うというのだろう。そんな問の結論はすぐに導き出せた。顔だ。顔、顔、顔。まったくうんざりだ。


 例えオタクでも、格好よかったら何も思わないんだろ、君たちは。そんなこと昔っから知ってるんだ。


 垣村の中学時代。容姿で馬鹿にされていた男の子がいたのを覚えている。クラスの人気者たちにからかわれては、物を隠されたりと、地味な嫌がらせを受けていた。


 自分でなくて良かったと、安堵していたのを垣村は覚えている。けれども……そこからだ。その男の子はギターを習っていたらしい。それが発覚して、皆に「似合わない」と笑われ、練習していた音楽が深夜アニメのエンディングだとバレた時も、笑われていた。


 ……けれども、笑われ続けても男の子はギターを手放さなかった。彼はそれからも練習を続けていたらしい。


 それを格好いいと思ったのはきっと自分だけだったのだろう。外面ばかりの他の奴らになんて、何もわかりはしないんだ。苦労も、努力も、好きなことに必死になることすらも。彼らにとっては笑い話になってしまう。


 だから、嫌いだ。トップカーストは嫌い。そのグループの一人が……今、垣村の隣にいる。


「……黙りこくるのはなし。暇だから何か話してよ」


「携帯でも適当に見ていなよ。暇つぶしにはなる」


「隣に話し相手がいるのに?」


「あぁ。何も気にしない」


 どうして彼女は隣にいるのだろうか。いや、今回はお礼を渡すために話しかける必要があった。だとすれば、きっとこれが最後なんだろう。彼女が自分と一緒にいる理由なんて、もうないはずだから。


 垣村も笹原も話すことがなくなり、互いに携帯を弄り始める。やがて、上りの電車が目の前までやってきた。いつも通り、電車の中はガラガラで、生徒らしき人は遠くの方に数人いる程度だ。


「本当だ。この時間人少ないね」


「気遣う必要がないから、楽でいいよ」


 そう言って垣村は椅子の一番端に腰を下ろす。すぐ横にもう一人座れる場所があるが、手すりがついていて二人並んで座ると少し狭く感じる。だから彼女は一つ空けて座ると思っていたのだが……。


「よいしょっと」


 躊躇うこともなく垣村の隣に腰を下ろした。これには流石に垣村も動揺する。隣に座る必要はないだろう。いや、まさかトップカーストはこれが普通なのだろうか。


「隣座ってると、変な噂たてられるかもよ」


「平気じゃない? 人いないし」


 いいや、これは意識されていないのだろう。なるほど、なら納得がいく。バレないように小さくため息をついた垣村は、どうせこれが最後だろうと思いながら膝の上にあるカバンを寄せるように腕の中に抱いた。


 彼女はトップカースト。自分が忌避すべき存在。だというのに、なんでこんなことになったんだろうか。原因は自分にあるような気もするけれど……それも、終わりだ。


 彼女が自分と一緒に帰る理由も、これでなくなるのだから。




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